ⅩⅩⅩⅩⅨ「Trois Fois Rien」を観る聴く、 『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ 2017/1/8
船、山間の川を疾走する、青い空、美しい風景の中、旅、青年、ホテル、ベッド、窓、外の風景、座る青年、だが、この映像は、客観描写か、誰かの主観描写か判らない、この部屋に誰かが居るのか、居ないのか、誰のいつの視線、視点なのか、青年の見られているという幻想なのか、だから、始まりの船のシーンでも、旅する青年が見いだした世界なのか、客観描写なのか、判らない、リュックの青年、店先、言葉、だが、いつの、誰の、この青年の前に現れる監督、芝居なのか、監督として居るのか、役者として居るのか、ドキュメントなのか、青年のアップ、眼、表情、誰の視点、監督、確かに、映画を撮っているのは監督、でも、この映画とは、作られている映画とは、フィクション、ドキュメント、光り、色彩、陰、外からの陽射しが当たる、部分的に、この間、空間、静けさ、祈り、反発、街中、窓の外、車、シナリオの話し、誰と誰の、車の色彩と光り、流れる車、言葉はまたどこの、誰の、始まりの旅のシーンと時制は、過去、未来、こうして山のシーンに、冬では無いか、ならば、始まりとの繋がりは、ホテル、部屋、ベッド、青年、監督、一人の映像、二人の映像、恋、出会い、別れ、諍い、不安、不満、悲しみ、欲望、見晴台のステージ、美しい映像、中央のベンチに座る男、黒い影としてある人物、死しているのか、寝て居るのか、孤独、何を見ている、そもそも、この映像は、誰の視点、青年の、監督の、後から同じステージのシーンでは、団体客が、語らっている、見晴らしの先端に歩いて行く男、一人ベンチの黒い影、人々は一人ずつ去り、残るベンチの男と先端の男、もしや、青年と監督か、判らない、だが、先の男は歩き去る、残るベンチの男、死している、寝て居る、が、起き出すのだ、私のドラマが壊されて、映画を見るとは、こんな風に勝手にドラマを仕立てて、それで居ながら、僅かの動きで、繋ぎで、ドラマが動く、変わる、変容する、なんと死のごとき動かないと思っていた孤独の象徴の黒い影が、動いてしまった、まさか、そして、またベンチに戻って座るのだ、単なる見晴台の客だった、でも、前にこのステージが現れたときの一人の黒い影と同一人物かどうかは何も判らない、あるいは、先の映像が、未来かも知れないのだ、荷造りする監督、一人座っている青年、何も語らない、監督は鞄に詰め物をして鞄を持って外に、去って行く、別れ、悲しみ、何があったのだろうか、何も無かった、でも、この何も無い中に、見てしまう、私の時間、空間、ドラマ、この私とは、この私のドラマに突き刺さる、映像達、あなたは、私は、何を見ているのかと、しかし、確かに、恋があった、ゴルフ場か、テーブルの二人、監督が立ち上がり、奥のテーブルに、座る、前半のシーンでの、バー、酒瓶、並ぶ酒瓶、語らいの音、青年の闇の中に浮かぶ表情、酒瓶は、これまた誰の視点、客観描写、何も説明は無い、まさに、小津だ、あの洗濯物、煙突、テーブル、酒瓶、誰のいつの、視点かは、そして、ズーム、動くカメラ、蠢き、まさかとばかりに、何をしているのだ、こんな動きまでもしてしまったカメラ、視点が、揺らぎすらするのだ、私は動揺するしか無い、監督、観客としての、安易な立場を撃ち抜かれてしまった、それでいてまた映画、映画でしか無い、まさに、フィクション、生まれ行くフィクション、在ってしまうフィクションでは無いのだ、今、見るごとに、撮られるごとに作り出され続けるフィクション、いや、これこそが、ドキュメントとも、現代なのだ、現実なのだ、雪山、雪の中を二人で歩くショット、誰と誰だ、青年と監督か、何を見る、何が作り出されている、サスペンス、右から左に、歩いて行った、何が起こっているのだ、繰り替えされる、いつのことなのだ、反復、何年も過ぎ去っているのか、しかも、この二人を見ている俯瞰のショットは、誰の視点、あんな二人を見詰める監督、あんな二人を見詰める青年、あるいは全くの客観描写、雪山としての、別れた後に、雪山に自死に向かう、青年と改めて出会った他の人物と、男かも知れない、女かも知れない、悲しみの中、二人は死に向かう、ロマン、幻想、いや、見晴台に向かって歩いてるのか、判らない、何も起こらない、この画面の繋ぎだけでは、何事か一つの事件を特定は出来ない、だが、見えてしまう、見てしまう、私、この怪しい私をこそ、撃て、打ち砕きながら、また、今、起こりつつ在り続けても居るのだ、観る聴く私として、壊れながら在るしか無い、