鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

今日1月17日、阪神大震災から12年になった。

2007-01-17 14:14:25 | 直言!
震災の記憶を忘れないために「震災の語り部」をするのが震災の時12歳だった子どもが現在24歳になった若者たちがしている。
神戸、西宮、三宮、長田の町は変わった。しかし人の心に震災のあの時の大揺れと震災で町が崩壊したことは誰もが忘れていない。
この2・3日、震災の記憶の記事が多く掲載されているが新聞を読みながら当時を思い出して涙ぐんでしまう。
私は10日目に現場に入ったがまだまだ交通が遮断されたままだった。
大阪天保山から早朝の船にのって神戸に向かった。
神戸のハーバラインドから三宮にでて中央区山手まで歩いた。歩くしかなかった。タクシーも見かけるが歩く方が早かった。
こんなときに原付バイクでくる在日韓国人の報道記者もいたがほとんどの記者は歩いた。
あのときよく根気よく歩いたものだ。まだ私は40代の終わりだったからできたのだろうか。いる家屋の屋根に驚き三宮の高層ビルもグニャグニャに歪んでいた。どうして復興をしていくのかそんな心配が走った。
電気も水道も遮断された中を歩いた。
よく歩いた。
神戸JRの新長田駅の近くに民団の支部があった。
ここに1番最初に行ったのは亡くなった人の追悼集会が行なわれるという情報が入った。在日韓国人の新聞記者、7・8人いや10人程度が連れもって皆一緒に歩いた。寸断された道路を歩くのにはやはり男性記者の方向感覚が1番頼りになった。
私はいつも男性の後ろにくっついて歩いた。あのときは知らぬ間に団体行動をしていた。でないと迷子になりそうで皆が声をかけあって行動をした。
今から考えると震災の大惨事に記者が周りに迷惑をかけてはいけないということが皆の心の中にあったのだろう。皆助け合って不満も言わず一緒に行動した。
このときの男性記者たちの苦労に立ち向かう現実を私はみていた

あれから12年が過ぎた。あの時の連携したものが心の中のどこかに残っているのだろうか。そのとき一緒に行動した仲間に会うと何か温かいものを感じてしまう。
神戸の現場、私はこの数年前から入らなくなった。若い記者が入っている。車の活動なのですぐに行動ができる。
それまで私は約3時間かけて神戸に入っていた。
たとえば阪急の花隈にいくにしても奈良から難波にでて地下鉄御堂筋線で梅田にでて阪急線乗り場にでて新開地行きの高速急行に乗って約40分かけて花隈にでる。ここから山手にある民団兵庫は急な坂道を登っていかなければならない。そして花隈の駅はエスカレーターもエレベーターもなく階段を下りてまた上って地上にでなければならない。この階段は足の膝にこたえた。
阪神の西代にもよく行き歩いた。
新長田駅、鷹取駅は階段ばかりで膝にこたえた。こんなことが全部膝の軟骨をすり減らしてしまった。
そんなことで遠方になるので大阪在住の若い記者に任せてしまったので膝の負担が少なくなった。

時には小さなローカル駅はエスカレーターもエレベーターもなくて苦労するが膝治療して2年半、階段の上り下りは出来るようになったのでそう負担にならないがこれを繰り返すとまた膝の軟骨に支障がくる。エスカレーターやエレベーターがあるほうが助かる。
震災時の記録写真もたくさん撮ったが大掃除のときに思い切って捨ててしまった。私よりもっとたくさん撮っている人がいると考えて捨ててしまった。

震災時のときは49歳だった。もうすぐ50歳にさしかかろうとしていた。
仕事の中で悩みを多くかかえていた。
それが震災の時にあった編集局のスタッフ、初めてお会いしたのに私のことをずっと気にかけて下さって今日に至っている。人の出会いの大切さと不思議さを感じている。そしてここまで来た私の人生、多くの人の出会いと助けがあってきたことまた改めて認識をしている。

人間1人では生きていかれない。そして出会いがありそこから自分を切り開いていく道は努力しかないということも長い人生の中で知った。
そしてアホと言われてもいい。「正直」で「真面目」が1番大切ということも長い人生の中で知った。
震災の日が来るとこのとき出会ったスタッフのことを思い出し記者たちと助け合って歩いた神戸の町のことを思い出している。そしてまた心の中で「感謝」「謙虚」と言い聞かせている。時には「感謝」の言葉も「謙虚」の言葉も忘れそうになるが「正直」と「真面目」にしていればどこかで私なりの人生があると信じてひたすら「正直」と「真面目に」ということで生きている。
が、中には裏切られひどい目にあうこともある。
この年になって黙っている私が自分で歯がゆいときもある。時には声を大にして怒っているときもある。
けれど怒ったあとの気分の悪さにまた自分を反省している。「謙虚」と「感謝」を思い出してまた私の人生に踏み出している。

震災の時に思った。
暗闇の人生はそう長く続かない。前向きに取り組めば明かりは必ず見えてくると信じていた。神戸の町はまだまだ課題はあるが明るさを取り戻した。
これは私の人生の教訓、若いときに大病をしてこのまま暗闇のトンネルなのだろうか。と思ったときもあった。
しかし季節の移ろいで木漏れ日から見える太陽の日差しに生きることの前向きさを感じた。それには何かからでも努力すること。目先は真っ暗だったがひたすら何もならないのに好きな文章を書き続けた。
こんなことが年月とともに私自身を作ることになった。
これが努力だろうが1人ではできない。多くの人の出会いと支えがあったからとこのごろまた思ってしまう。
人と人とのコミニュケーションはいつの時も大切である。
震災時は日本人も外国人も一緒になってボランテイア活動をした。
「共生」と言う言葉をたくさん使われた。
震災から12年、私の思いを書き込みした。
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