その私は前年の1944年8月生まれだったが落合恵子さんも吉永小百合さんも早生まれだったので学年は同学年だった。
それで興味をもった。当時から吉永小百合ファンだったが対談している落合さんの語っている言葉が雑誌記事になっていたが気になる言葉の粒がたくさん並んでいて気になる人だった。
それからしばらくして私は結婚して子育てしていたが相変わらず本が好きだった。結婚当初、奈良市内の図書館に本を借りに行って夫の妹、小姑から夫に何度も告げ口をされていた。告げ口は様々な噂に変わりずいぶん気分を悪くした。
図書館に行った帰り、昔三条通りにあった郵便局のまえに「アマンド」という喫茶店に立寄っていた。高校時代の同級生T子の兄が経営していた。ここに1時間ほど立寄って話しをして帰るだけで社会参加したように気分になった。
それから何年、いろんなことがあった。
子どもが小学生になったころ、見た週刊誌「女性セブン」。掲載されていた落合恵子さんのエッセイ「スプーンいっぱいの幸せ」に感動した。女性は「こうあらなければならない」権力に「屈することはない」などなど私が心の中でたまっていたことがその文章に吐き出されていた。
当時は作家や文化人名鑑が書店で販売されていたのでそれを買って住所を調べて手紙を書いた。せっせとフアンレターを書き続けた。3年間から4年ほど続けた。
そして今度は電話番号を調べることになった。
当時、ある詩集の同人誌サークルに入っていた。落合恵子さんは明治大学を卒業して文化放送に勤務していた。そこで一緒に仕事をしたことのある東京の会員が電話番号を教えてくれた(今だったら個人情報保護法とかなんとかになる)
おそるおそる自宅に電話をした。「留守番の者です」と話しておられたが何度か話しているうちにお母さんとわかった。電話を1・2ヶ月に1度かけていた。そしてある日お母さんは大阪のテレビ局で仕事があるからとその楽屋裏を訪問するようにしてくださった。今はもうないが「ノックは無用」の番組だった。
1人ではいけないので当時から仲のよかった女友達と一緒にいった。
楽屋裏でコーヒーとケーキを一緒に頂いた。
そしてしばらくして奈良県大和郡山市主催の成人式に講演で来奈した。当時は近鉄奈良駅ビルに奈良ホテルがあったのでここでまた再開した。
このとき私はまだまだ若かった。
小学生の息子を連れて詩集の仲間(奈良市内で保母さんをしていた)や地方紙の記者2人とペングループの仲間などが連れて行った。
そして地方紙の現在の社長が記者だったので特ダネでスクープ、大きな記事にして紹介された。当時はまだ先輩の記者、K氏はまだこの地方紙のデスクだったと記憶している。
それから何年も何年もフアン交流は続いた。月刊奈良の雑誌記者時代に原稿の寄稿を依頼するとご協力して下さった。
やがて私は在日韓国人系の新聞記者になり「女性差別」より私は「在日同胞の差別事象」にかかわることになり落合恵子さんとは少しずつ疎遠になりいつしか私は年賀状も出さなくなっていた。
しかし今もどこかでそんなことがあったと双方は意識している。
というのは保母さんをしていた女性が保母の仕事をやめて吹田市江坂に出した落合恵子さんの店、「クレヨンハウス」のスタッフになってしまった。
落合恵子さんのフアンは私より上手にいく女性だった。保母の仕事をやめて落合恵子さん経営の絵本の店で仕事をするようになった。
長い間、大阪のスタッフとして活動、落合恵子さんの関西での講演会は彼女が秘書役をしていた。ある日、奈良市内での講演会を知って控え室を訪問して久しぶりにあった。
彼女の存在で主催者側は私まで控え室で丁重にして下さった。
その彼女は現在、東京渋谷区青山通りにある「絵本の店・クレヨンハウス」でスタッフとして落合恵子さんの秘書役をしている。
東京に行ったときに訪問しょうと思いながらも私の現在の所用で忙しくなかなかそこまでいけない。
若いときはぜひ東京の店に行きたいと考えて1泊2日で訪ねていったこともあったぐらいのフアンだった。
双方、権力社会にはノウといい弱い人の立場になって声をあげることに変わりはないが落合恵子さんは世界にいる弱い立場の子どもたちを対象にした活動、私は在日同胞の中で日本社会に対して声をあげている記事を追いかけている。
していることは同じだが対象が変わった。
それでも同じ時代に青春を歩いてきた。通じるものがある。
現在、落合恵子さんは母親の介護に奮闘しながら介護の状況を著書にまとめた。私も買って読んだ。双方、こんなことを抱える年になったと痛感しながら同じ時代をあるいてきた。日本のいいところも悪いところも同じものを見てきた共感に通じ合うものがある。先日、家の中を大掃除したときに落合恵子さんから頂いた手紙がでてきた。やっぱり大事にと思って私の本箱にまたしまった。
それで興味をもった。当時から吉永小百合ファンだったが対談している落合さんの語っている言葉が雑誌記事になっていたが気になる言葉の粒がたくさん並んでいて気になる人だった。
それからしばらくして私は結婚して子育てしていたが相変わらず本が好きだった。結婚当初、奈良市内の図書館に本を借りに行って夫の妹、小姑から夫に何度も告げ口をされていた。告げ口は様々な噂に変わりずいぶん気分を悪くした。
図書館に行った帰り、昔三条通りにあった郵便局のまえに「アマンド」という喫茶店に立寄っていた。高校時代の同級生T子の兄が経営していた。ここに1時間ほど立寄って話しをして帰るだけで社会参加したように気分になった。
それから何年、いろんなことがあった。
子どもが小学生になったころ、見た週刊誌「女性セブン」。掲載されていた落合恵子さんのエッセイ「スプーンいっぱいの幸せ」に感動した。女性は「こうあらなければならない」権力に「屈することはない」などなど私が心の中でたまっていたことがその文章に吐き出されていた。
当時は作家や文化人名鑑が書店で販売されていたのでそれを買って住所を調べて手紙を書いた。せっせとフアンレターを書き続けた。3年間から4年ほど続けた。
そして今度は電話番号を調べることになった。
当時、ある詩集の同人誌サークルに入っていた。落合恵子さんは明治大学を卒業して文化放送に勤務していた。そこで一緒に仕事をしたことのある東京の会員が電話番号を教えてくれた(今だったら個人情報保護法とかなんとかになる)
おそるおそる自宅に電話をした。「留守番の者です」と話しておられたが何度か話しているうちにお母さんとわかった。電話を1・2ヶ月に1度かけていた。そしてある日お母さんは大阪のテレビ局で仕事があるからとその楽屋裏を訪問するようにしてくださった。今はもうないが「ノックは無用」の番組だった。
1人ではいけないので当時から仲のよかった女友達と一緒にいった。
楽屋裏でコーヒーとケーキを一緒に頂いた。
そしてしばらくして奈良県大和郡山市主催の成人式に講演で来奈した。当時は近鉄奈良駅ビルに奈良ホテルがあったのでここでまた再開した。
このとき私はまだまだ若かった。
小学生の息子を連れて詩集の仲間(奈良市内で保母さんをしていた)や地方紙の記者2人とペングループの仲間などが連れて行った。
そして地方紙の現在の社長が記者だったので特ダネでスクープ、大きな記事にして紹介された。当時はまだ先輩の記者、K氏はまだこの地方紙のデスクだったと記憶している。
それから何年も何年もフアン交流は続いた。月刊奈良の雑誌記者時代に原稿の寄稿を依頼するとご協力して下さった。
やがて私は在日韓国人系の新聞記者になり「女性差別」より私は「在日同胞の差別事象」にかかわることになり落合恵子さんとは少しずつ疎遠になりいつしか私は年賀状も出さなくなっていた。
しかし今もどこかでそんなことがあったと双方は意識している。
というのは保母さんをしていた女性が保母の仕事をやめて吹田市江坂に出した落合恵子さんの店、「クレヨンハウス」のスタッフになってしまった。
落合恵子さんのフアンは私より上手にいく女性だった。保母の仕事をやめて落合恵子さん経営の絵本の店で仕事をするようになった。
長い間、大阪のスタッフとして活動、落合恵子さんの関西での講演会は彼女が秘書役をしていた。ある日、奈良市内での講演会を知って控え室を訪問して久しぶりにあった。
彼女の存在で主催者側は私まで控え室で丁重にして下さった。
その彼女は現在、東京渋谷区青山通りにある「絵本の店・クレヨンハウス」でスタッフとして落合恵子さんの秘書役をしている。
東京に行ったときに訪問しょうと思いながらも私の現在の所用で忙しくなかなかそこまでいけない。
若いときはぜひ東京の店に行きたいと考えて1泊2日で訪ねていったこともあったぐらいのフアンだった。
双方、権力社会にはノウといい弱い人の立場になって声をあげることに変わりはないが落合恵子さんは世界にいる弱い立場の子どもたちを対象にした活動、私は在日同胞の中で日本社会に対して声をあげている記事を追いかけている。
していることは同じだが対象が変わった。
それでも同じ時代に青春を歩いてきた。通じるものがある。
現在、落合恵子さんは母親の介護に奮闘しながら介護の状況を著書にまとめた。私も買って読んだ。双方、こんなことを抱える年になったと痛感しながら同じ時代をあるいてきた。日本のいいところも悪いところも同じものを見てきた共感に通じ合うものがある。先日、家の中を大掃除したときに落合恵子さんから頂いた手紙がでてきた。やっぱり大事にと思って私の本箱にまたしまった。
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