「暑い」って言葉をNGワードにして、NGワードを言うと
罰金1000円払うってゲームをやったら私はすぐに破産です~~
猛暑の毎日。
こんなに熱いと外に出られないですよね~
というわけで今日もブログは
1週間遅れのスポニチ矢沢の金言
今回は全米進出の時のお話しです。
英語も話せないのに単身渡米。そこで得たものは何だったのか?
「やっぱり日本とアメリカでは音もグルーヴも全然違う。誰も矢沢なんて知らないし、日本のスーパースター?だから何?で終わりよ。ブチのめされたね。本当!」
「大変だったのは英語。英会話学校にも通ったけど苦労したね。最初は通訳兼コーディネーターを雇った。でも、肝心のスタジオワークで自分が伝えたいことがちゃんと伝わらない。音楽はニュアンスが大事なのに、その肝心なところが全然相手に届かないんだよ。 だったら自分の表情や身ぶり手ぶりで、たまに辞書引きながら直接自分で伝えてみたら、何だよ!こっちの方がバッチリ届くじゃんって。」
誰も知らないアメリカで、自分で飛び込んで、自分でやる。そうやって作った最初の全米デビューアルバム「YAZAWA」は全編英語の世界発売。移籍2作目「イッツ・ジャスト・ロックンロール」はシングルカットした「ロッキン・マイ・ハート」がビルボードの推薦曲にまでなった。でも、どっちも売れなかった。悔しいけど全然ダメだったね!
渡米翌年の82年。日本で発売したアルバム「P.M.9」はドゥービー・ブラザーズやリトル・フィートのメンバーに加え、TOTOのスティーブ・ルカサーやジェフ・ポーカロが参加。この時のドゥービーの連中を引き連れて日本で凱旋ツアーを敢行した。
この時、どうせ矢沢自身が大金バラまいて呼んだんだろって噂がたったけど笑っちゃうよ。俺が一人で向こうに飛び込んで、世界のアイツら全員と直接やり合って「ヤザワが日本でやる時は一緒に行くぜ」って言ってくれた時のことを俺は忘れない。だからギャラもそれぞれと直接交渉し、飛行機のチケットの手配もワーキングビザの申請も全てやった。プロモーターもレコード会社もいない。俺が全部ひとりでやったんだ。
「結局、アメリカに渡っても苦労の連続だった。でもあの時、日本を離れて本当によかった。出会った人たちから学んだことがこの手の中に詰まっている。」
大事なことは待ってても、誰もやってくれないよ。何歳になっても波は自分で起こすんだ――。
誰だって新しい事を始めるのは怖いけど
でも自分がやらなきゃ誰もやってくれない。
失敗してもまたやればいいじゃない。人生は失敗の繰り返し。
永ちゃんの言葉はいくつになっても、いちいち人の心をついてくる。
月一ラジオの「school of rock」では会社の経営者の立場での話もされてましたね~。
はずれたらはずれた時に自分で自分のケツをふけばいいじゃん。
怖いから考える。 時間はすぐ経つ。
大きさ、種類はどうでもいい、そこに向かって行きたいなというのがあるかないか。
猛暑日は永ちゃんの言葉を胸に永ちゃんの曲を聴いて過ごすのもイイかもネ
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