新・台所太平記 ~桂木 嶺の すこやかな日々~

N響定期会員・桂木嶺の、家族の介護・闘病・就職・独立をめぐる奮戦記を描きます。パーヴォ・ヤルヴィさんへの愛も語ります。

【思い出話、うちあけばなし】なぜ、私が東宝をやめることになったか。(その4)

2019-02-08 23:45:31 | 体調のこと。

TOHOシネマズの吸収合併の一連の騒ぎが沈静化し、合併にむけての手続きが随時行われるようになったころ、私は、人事担当のS重役のひそかな呼出をうけました。診療所の会議室に来るように、ということでありました。

「ながた。今日はちょっと大事な話がある。心してきいてほしいのだがね」

S重役はそういって、ちょっと緊張した面持ちで切り出しました。

「きみは、髙橋専務にメールを送っているね。毎日。どうだね?」

私は、ああ、と小さくつぶやきました。「はい、申し訳ありません。このところ、ご相談したいことが山ほどあって、専務にしかご相談できないことばかりなのです」

するとS重役が悲しそうに言いました。「そう。素直に認めてくれたか。実は髙橋専務から僕に内密に相談を受けた。君から連日メールをもらって困っているとね。それから、髙橋専務にやたらと話しかけてくるのも、専務はご迷惑だといっている」

私は、ショックをうけました。「でも、髙橋専務はご相談にのってくださいました。私が話しかけても、気さくに応じてくださいます」

S重役は続けました。「それは、髙橋専務が素晴らしい方だからだよ。だがね、ながた。髙橋専務はいずれもっと重要なお立場になる方だ。お前が軽々しく話しかけてはいけない相手なんだよ。ましてや、一社員の分際で、役員の方に個人的なメールを送るのは、それはあまりにも軽率な行為ではないかね?」

私は、非常に悩みましたが、S重役に打ち明けることにしました。

「実は、私も悩んでいます。私は、TOHOシネマズのこと、自分の病気のこと、宝苑インタビューや編集方針についての悩み、あまりにも山積していて、だれに相談してよいかわからず、専務にだけご相談申し上げていたのです。そして、メンタルの病気の症状かもしれませんが、専務にメールをお送りすると、とてもほっとします」

S重役もショックを受けたようでした。

「病気の症状が、専務にメールを送ると緩和されるのかね?それはメンタルクリニックの先生にはご相談したの?」

私は答えました。

「はい、少し。でも、お医者様は『それは、髙橋専務があなたにとって【職親】だからだよ。職場の親といって、精神的な支柱になっているケースでもあるんだ』と説明してくださいました。それを私は高橋専務にご報告しました」

S重役は、

「そのことは、専務からも僕はきいている。専務も、おそらく君のかかえているメンタルの病気のせいだろうと心配しておられるんだ。だから、きちんと、主治医から、君の正式な病名の診断書を出してもらいたいのだよ。そして、今後一切、専務にはメールをださないこと。専務から話しかけることがあっても、君から話しかけてはいけない。ましてや、TOHOシネマズの吸収合併の問題で、君がこれ以上専務に対して、意見を言ってはならないよ」

と重々しくいいました。

私はビックリしました。

「なぜですか?なぜ、意見を言ってはいけないのですか?」

S重役は

「君もサラリーマンなら、そのくらいのことは察しがつかないかね。専務がそれはご判断を下すべきことで、一課長の君が偉そうにいうべきことではないということだよ。それにね、君は、社内中に警戒されているよ。『ながたは、髙橋派だ』とね。君もMS(管理職)なのだから、社内での発言、こと髙橋専務に関する発言には注意したまえ」

と、さらに私をにらんできました。

私は、呆然となりました。「私が、サラリーマン・・・?」

S重役がいぶかしげに私の顔をみました。

「そうだよ。自分をなんだと思ってるのかね。君はプロデューサーでもなければ、OLでもない、サラリーマンの一人なんだよ」

「・・・承知しました」

私は、会議室を悄然と出ていきました。総務部のフロアに戻ると、髙橋専務がいらっしゃり、緊張した面持ちで、私に話しかけてきました。

「Sとは話ができたかね?」

私は涙をぬぐいながら、

「ハイ、専務。とても悲しいですけれど、専務のお気持ちは理解できました。申し訳ありませんでした」

というのが精いっぱいでした。

髙橋専務は、私の涙をみて、大変ショックを受けたようでした。

「ながたさん、本当にすまない。どうか傷つかないでほしい。僕は、君が傷つくのをみるのは、いちばんつらい」

とおっしゃって、

「ちょっと会議室で話そう」と、そのまま言葉をつづけられました。

「会社というのはね、『職制』というのがあるのを、ながたさんは知ってるかね?」

とやさしく尋ねられました。

「僕もながたさんといろいろたのしく、宝苑や、東宝のことや、好きな映画や芝居のことをおしゃべりしたい。でもね、周りの人はいろいろな考えの人がいる。君は課長だが、僕は役員だ。宣伝部では、けいちゃん(中川敬さん)の個性もあるし、宣伝部独特のカラーがあるから、直接役員と話をしたりすることもできたと思う。宣伝部はその点、自由なんだよ。」

「でもね、本来会社というのは、係長~課長~室長~次長~部長~役員、という形の『ライン』『職制』があって、そのルールにしたがって、報告や相談、連絡を行うものなんだ。それはわかるかな?いままでこういう組織のルールは知らなかったかな?」

私は、泣くのをこらえて、

「申し訳ありません。私は、父がタクシーの運転手でしたし、そういういわゆるサラリーマンの組織というのは、よくわかりません」

と申し上げました。髙橋専務がああ、とまたちいさくつぶやきました。

「それは申し訳なかった。・・・それにね、僕は男で、君は女性だね。こういうことをいうと失礼だが、僕と君が愛人関係だ、と噂する人間もいるんだよ。それは断固として、避けたい噂だよね」と髙橋専務が苦しそうにいいました。

私は、目をまん丸くしました。

「私が・・・専務の愛人ですって?!」

私は泣き笑いしました。

「こんな色気のない、ぼーっとしてる私がですか?そんなわけないじゃないですか!」

髙橋専務が苦笑いしました。「そりゃそうだよね。全然僕たちの間にはなんにもない。僕と君は、上司と部下というだけだし、職場の仲間というだけだ。だが、世の中にはいろいろな見方をする人間がいるからね。注意しなければならない。君からもらうメールもそうだ。僕だけが見てるわけじゃないんだよ。ほかにも見ている人がいるんだ」

私はわっと泣きました。

「どうしたらいいんでしょう!ごめんなさい!ごめんなさい!」

髙橋専務は優しくいいました。

「いいんだよ。これから気を付ければいいからね。Sがどういう言い方を君にしたかは知らない。でも、僕は自分のメールを自由にみることのできない立場なのだよ。役員というのは、そういう責任も問われるからね。だから、メールを送ってはいけないよ、というのはそういうことなのだよ。君自身が誤解されてしまって、へんに嫌がらせをうけてはいけないからね」

私は泣くのをやめ、笑顔をがんばってつくりました。

「わかりました。専務にご迷惑をかけないように、がんばります。なるべく、自分で解決できるように、努力してみます」

専務はうんうん、とうなずきました。

「もちろん、君にはTという室長も、Y次長も、I総務部長もいるから、どんどん彼らを信頼して、相談していくことを努力するんだよ。始めは君のことを理解できないかもしれないが。でも、徐々に君のやりたいことがわかってもらえるようになる。サラリーマンはね、我慢が必要なんだよ。こんちくしょう、とおもったことが僕もたくさんある。でも、がまんするんだよ。時期が来るのを待ち、仲間をつくるんだよ」

そういって、「では、僕はこれで話をおえるよ」と会議室を出ていかれました。

私は、しばし黙考しました。そして、明るく笑顔で毎日対応していくことにしました。髙橋専務は笑顔になり、I総務部長もTさんもほっとしたようでした。

(つづく)


【思い出話、うちあけばなし】なぜ、私が東宝をやめることになったか。(その3)(長文です)

2019-02-08 22:47:11 | 体調のこと。

私の東宝人生の中で、もっとも苦渋にみち、かなしく、大変だったこと、でも結果的には東宝のためになったことをお話します。

TOHOシネマズに、全国の支社、関連会社の劇場が解体され、吸収合併されるという、大機構改革が発表されたときです。

その第一報の情報は、髙橋専務とI総務部長が、総務部次長のYさん、そして、広報室長のTさんと私をひそかによんで、伝えてくださったのでした。

「いままで極秘にしていたが、明日これを社内に発表するので、社内的に混乱がおきるかもしれない。しかし、こちらとしては、会社の方針なので、まず社内のイントラネットと、社内報の『宝苑』に掲載し、社内の理解と協力を仰ぐことにする。なにか問題なり問い合わせがあれば、すぐに髙橋専務と僕(I総務部長)に報告するように」

私は、大変緊張しましたが、ついに来るものが来た、という実感を感じていました。全国のシネコンのサービスの均一化を図ることは急務でした。(お客様メール担当をして、その現状がよくわかったので、私達は全社内の管理職以上の人間にそれを報告していたのでした)

髙橋専務はこうおっしゃいました。

「松岡会長と、高井社長がご決断を下されたので、みんな協力してこれにあたってほしい。この事態に至るまでは、僕も非常に悩んだが、やはり断行すべきだと思う。いま、東宝が余力があるときに、この機構改革をやらないと、東宝の存亡にかかわる。僕は、日ごろ『経営とは何か』ということを考えているのだが、こういう決断を勇気をもって下すことが大切なのだろうと思うよ」

そういって、髙橋専務は口元をぎゅっと引き締められました。

髙橋専務やI総務部長の、悲壮きわまりない思いは無理もありませんでした。業績がある程度いいにもかかわらず、劇場や支社の余剰人員と呼ばれる人たちを、東宝全体で、大幅にリストラしなくてはならないからです。

私は「専務、よくぞご決断なさいました。」というのが精いっぱいでした。

が、これはなにがなんでも、頑張らなくてはならないだろうと、腹にずしんと重いものがくるのを感じていましたし、総務部の主要メンバーがみな大変緊張した面持ちでした。

そして、発表されました。もちろん、社内は大混乱に陥りました。それは、宣伝部で宣材の納品ミスが起きたときの騒ぎではありませんでした。全国の支社の、「宝苑パートナー」と呼ばれる人たちがみな私のところに問い合わせをしてきました。取材でお世話になった支配人からもメールがきました。

私はそれらの問い合わせを、すべて髙橋専務とI総務部長に見せ、指示を仰ぎ、事態の収集に奔走しました。髙橋専務は、経営企画部の太古部長(現・専務取締役)と連日長時間の会議と打ち合わせをし、全国に出張し、事態への理解を全国の支社・劇場にもとめました。労働組合にも協力をもとめました。組合は当然猛反発しましたけれど、髙橋専務は粘りづよく説得しました。

TOHOシネマズでは、当時、村上主税社長(現在は退任されています)が陣頭指揮をとり、この合併がスムースに行くように、全国行脚していました。

Tさんと私は、ひたすら、メール対応と、『宝苑』での告知をしていました。すると、ある女性の支社の宝苑パートナーの方が、大変な抗議文を送ってきました。「支社は本社の方針に納得できません!私達はつらいです!」と。私は、これはまずい、と判断し、髙橋専務にご相談しました。

専務は、「うん。そうだな。確かにつらいのはわかる。でも一番つらいのは、高井社長や僕かもれいないよ・・・」と言って、非常につらい面持ちで、私につぶやきました。

私は勇気を奮って言いました。「専務(ほんとうは当時は常務だったのですが、専務で統一しておきます)、おつらい気持ちはわかります。でも、私が思うに、この問題はイントラネットや『宝苑』で事務的に告知をするだけでは混乱する一方です。やはり、だれかが責任をもって、この問題についてインタビューにお答えになるべきだと思います。社内融和の必要性と、経営意思、そして社内の結束をきちんと社内に伝えるべきだと思うのですが」

専務が遠い目でお答えになりました。「とすれば、それをするのは、僕か、村上さんということになるね。どちらかがいいだろうね。・・・うん、ながたさん、考えてみるから待っててね」

そうおっしゃって、「ながたさんは、あまりこのことで悩まなくていいよ。ながたさんは『宝苑』のたのしい編集のことを考えなさい」といってはげましてくださいました。

しばらくして、村上さん(TOHOシネマズ社長、当時)から、「ながたさん、僕と一杯飲みに行こう」とお誘いをうけました。東宝本社の近くに、東宝社員いきつけの飲み屋さんがあり、そこでざっくばらんに飲もう、ということでした。村上さんもとてもやさしくしてくださる方だったので、ぜひにということで、伺いました。

村上さんは大変な紳士で、「ながたさんが、映画興行部だった時代から、TOHOシネマズのことに、気を配ってくれて、『宝苑』でも応援してくれていることは、本当にうれしいよ」と言ってくださいました。

「僕はね、ながたさん、この問題はもう不退転の決意で、僕の東宝人生をなげうってまで、最後までしっかりやり遂げようと思うんだ。全国行脚するとね、もう支配人たちも劇場スタッフも、支社の人間も怒号が飛び交って大変なのだよ。罵声も浴びせられることもしばしばある。しかしね、いま、この機構改革をやらないと、東宝100年の計が成り立たなくなってしまうと、僕は思う。だからがんばっているんだよ。そのことを、ちゃんと『宝苑』のインタビューで伝えられるのであれば、僕はインタビューに応じますよ」

私は、泣きながら「ありがとうございます。社長。ぜひ、社長の想いを、きちんと取り上げたいと思います」といいました。村上さんは「ながたさんは、本当に、東宝のことを想ってくれているね。ありがたいよ。そういう社員がひとりでも増えてくれるといいんだけどね」とにこやかに杯を傾け、私と乾杯しました。

そして、『宝苑』でインタビューが実現しました。結果は、賛否両輪でしたが、社内はその発行を機会に、一気に騒ぎは沈静化していきました。

しかし、まだまだ波乱はつづきました。ある日、人事のS重役が、「ながた、ちょっと診療所の会議室にくるように」と私をひそかに呼び出したのでした。

(つづく)


【思い出話、うちあけばなし】なぜ、私が東宝をやめることになったか。(その2)(長文です)

2019-02-08 22:06:47 | 体調のこと。

ことは、2006年1月に実施された、「徒歩帰宅訓練」に端を発します。消防署からの要請で、東宝総務部に、災害時を想定して、徒歩帰宅訓練を社内で実施するように強い要請があったのでした。私は総務部長のIさん(当時。現在は退職されています)に呼ばれ、この訓練に参加するようにと言われ、張り切っていました。2005年4月に課長職(MS)に昇格した私は、なんでも意欲的に取り組もうと、がんばっていたのでした。

訓練の模様も社内報で掲載することにし、社内の参加メンバーにも原稿を依頼し、髙橋常務(のちに専務。現・東宝サービスセンター社長。「午前十時の映画祭」プロデューサーも歴任されました)ご自身も、I部長も参加されるということで、いやがうえにも盛り上がっていました。

こと、髙橋専務は、みんなを励まし、鼓舞し、ときどきジョークも交えて、映画談議をするなど、社内のムードメーカーでもいらっしゃり、大変立派な方でした。私はとてもそんな専務を信頼し、ご尊敬申し上げていました。

ところが、急に私の周りがおかしくなりました。東宝の診療所の産業医(慶応大学から派遣された方でした。M先生といいます)から私はひそかに呼出をうけ、診療所に行きました。M先生は切り出しました。

「ながたさん。あなたは徒歩帰宅訓練に参加しないでください。あなたは、ずっと隠しておられますが、統合失調症ですね?」

私はビックリしました。このことは社内ではひた隠しに隠し、周囲には「パニック障害です」とお話していました。周りもそれで理解を示してくれていました。

「ながたさん、あなたの飲んでいらっしゃる薬や、あなたが遅刻・早退をされるときに訴えている症状で、こちらはわかるんですよ。あなたは統合失調症であることをかくしていらっしゃいますね。」

私は、「いいえ違います。私、違います!」と叫びました。

M医師は続けました。「いえ、ながたさん。それが悪いとはいいません。統合失調症は社会的な偏見の大きな病気ですから、あなたが隠したいと思うのは、無理もないのです。でも、徒歩帰宅訓練は、統合失調症にとって大敵です。遠いところまで(あなたのご自宅は横浜ですが)深夜までかかって徒歩で帰宅するのは、あなたのご病気の症状からいって無理です。『周りの建物が襲い掛かってくるようにみえる』というのは、あなたが発作を起こした時、訓練の途中で事故に遭う可能性もあります。ですから、僕としては、医師として、この訓練を断固認めるわけにはいかないのです。」

私は、非常に困り果てました。髙橋専務のお優しい笑顔が目に浮かびました。I部長の嬉しそうな顔が目に浮かびました。せっかくいただいたチャンスなのに、お二人の厚意を無にしたくなかったのです。

私はいいました。「わかりました。でも、これは総務部主催のイベントです。私が欠席するとわかったら、社内の士気にかかわります。その欠席は上手に社内に根回しできますか?」

A先生は、「わかりました。ながたさん。では、僕からはI総務部長にご報告しましょう。あなたのご病名はもちろん伏せておきます。」としずかにいいました。

私はとても悲しみに暮れていました。せっかく私の実力を買ってくださっている髙橋専務に、この事実をご報告しなければならないと思うと、専務の落胆する顔が目に浮かんで、ずっと帰り道、泣きじゃくりながら、会社まで帰ったのを覚えています。

I部長は翌日、M先生から話を聞き、仰天しました。「ながたさん、体調が悪いんだって?それはつらかったね。無理しなくていいよ。総務からは髙橋専務と僕と、若い社員が参加するから十分だし、気にしないで、当日はお休みしていなさい」となぐさめてくださいました。

私は、唇をかみしめながら、ぐっと涙をこらえました。「はい、ご期待にそえず、申し訳ありません。」

髙橋専務にもご報告にいきました。専務は大変驚かれて、「ながたさん、そんなに具合がわるいって、どんなご病気なの?」と聞かれました。私は、余人はともかく、髙橋専務に、私の病名を知られるのは、死ぬよりも恥ずかしいし、情けないことでした。「はい、申し上げられませんが、実はメンタル系の持病があります。ご心配をおかけして申し訳ありません」と申し上げると、専務は、はあっとため息をつかれ、「そう。つらかったね。では、あまり無理をしないでね」とちいさくつぶやかれました。明らかに、私に対して落胆しているように見受けられました。

となりには人事のフロアがありました。当時の人事の担当役員は、Sさんとおっしゃいました。Sさんは私が宣伝部で休職した際、親身に相談に乗ってくださっていたのですが、そのSさんに、女性の若い社員がけらけらと笑いながらこういいました。

「ながたさんって、お脳の調子がおかしいから、徒歩帰宅訓練を休むんでしょ。ほんとに迷惑ですよね!」

すると、S重役は、けらけら笑いながら、「ま、そういうことだな」といって女性社員としばしおしゃべりをしていました。すると、ほかのとなりの部の、大先輩のお局さまが、「わたしだって、そばに、ながたさんがいるのはいやだわ。こっちが鬱病になってしまいそうだわ(笑)」といって、ゲラゲラとわらいだしました。お局様は、人事出身でした。

私はその言葉が聞こえてきて、真っ青にになりました。

M先生も、人事も、私の病気を社内中に、ばらしている!!!

髙橋専務も、I部長も真っ青になりましたが、「ながたさん、きょうは早退していいよ」といいました。私は、泣きながら早退しました。くやしくて、かなしくて、なさけなくて、この怒りと悲しみを誰にぶつけていいか、わからないほどでした。前の夫にも話したのですが、「だから東宝の人事はダメなんだって!ま、ともちゃんも、あまりくよくよしないで、気にしないで、明日は早く会社に行くんだね」としかとりあってくれませんでした。

そして、徒歩帰宅訓練が実施されました。つつがなく、だれもトラブルなく、全員無事にできました。でも、髙橋専務はI部長に、こうおっしゃったそうです。

「もう消防署からこういう要請が来ても、ちゃんと断ろう。悲しい目に遭う社員がでてきてしまうのは、たくさんだ!」

でも、そこで助け船をだしてくださったのは、広報室長のTさんでした。徒歩帰宅訓練の翌日は、実は三谷幸喜さんの「THE 有頂天ホテル」の初日舞台あいさつがありました(2006年1月14日、土曜日でした)。

Tさんは、「もし出られるようだったら、三谷監督にご挨拶がてら、初日においでよ」とやさしくおっしゃってくださったのでした。私は、もちろんうかがうことにしました。

実は、社内報「宝苑」で、この「THE有頂天ホテル」を取り上げたのでした。プロデューサーは、フジテレビの重岡由美子さんで、大変いいインタビューになったと好評でした。監督と脚本をつとめた三谷幸喜さんは、雑誌「テアトロ」で私が劇評を書いて以来、とても親切にしてくださり、何かと気にかけてくださっていましたし、またプロデューサーの石原隆さん(現・フジテレビジョン取締役)は、テレビ部時代からずっと私と懇意にしてくださっていたのでした。

私は翌日、笑顔で、Tさんに会いにいきました。Tさんは大変喜んでくれ、「よかった!元気そうだね。映画も大ヒットしたよ!興収60億円といっているよ!」とくしゃくしゃの笑顔で迎えてくれました。重岡さんも三谷監督も石原さんも、「ながたさん、『宝苑』でこの映画を取り上げてくださってありがとう!おかげさまで大ヒットしましたよ!」と喜んでくださり、私は、前日までの悪夢のような思いが、すーっと消えていくのを感じました。

月曜日。私は笑顔で出社し、髙橋専務とI部長に「大変ご心配をおかけしました!もう全然元気です!『THE有頂天ホテル』は大ヒットでしたよ!」とご報告しました。

おふたりの顔がパーッと明るくなり、「そうか!そうか!それはよかったね!」と、初日に出勤したTさんと、私をねぎらってくれたのでした。

 

やっぱり、東宝は、映画と演劇で、夢を売る会社なのだ、と思いを新たにした瞬間でもあったのでした。

(つづく)

 

 

 

 


【思い出話・うちあけばなし】なぜ、私が東宝をやめることになったか。(その1)(長文です)

2019-02-08 21:05:18 | 体調のこと。

いま、明日・明後日のコンサートのために、ハンス・ロットのことをいろいろ調べています。調べれば調べるほど、ハンス・ロットと私が罹患した「病気」が、すごい辛い体験や、人生の裏切り、かなしみに遭遇したときに発症してしまうのだなと思いますね。でも、ハンス・ロットの人生を通じて、私は、彼を反面教師として、これからは、つよく前向きに、希望をもって生きていこうと決意しました。

それは、パーヴォのおかげでもあるし、NHK交響楽団のみなさまのおかげでもあるし、このブログを応援してくださる、たくさんのみなさまのおかげでもあるし、諸先生方のおかげでもあり、お医者様のおかげでもあるし、FB仲間や、学生時代のお仲間、家族のおかげであると感謝しています。

みなさんは、「東宝時代の思い出」を読んでくださっているとおもいますが、「なぜチコちゃんは、こんなにたのしく東宝ですごしていたのに、会社を辞めることになったの?」とおもっておられるかもしれませんね。本当なら、このブログでいうべきことではないかもしれません。でも、この事実をきちんと書いて、心の整理をして、これから新しい人生を切り開き、力強く歩んでいこうと思います。

音楽療法という形で、パーヴォがくださった人生の大きなチャンスを、大事にしていきたいです。

2002年8月、私は統合失調症を発症しました。非常につらい理由が重なったのですが、なるべく客観的に書いてみます。

その前年。東宝社内で、大きな機構改革の動きがあり、私の宣材制作の仕事も無縁ではありませんでした。先述のY嬢とともに、広告制作室を作ろう、という動きがあり、私をその初代スタッフメンバーに推挙してくださる宣伝部内の動きが活発化していました。私は、テレビ部(現・映画企画部)のプロデューサー職に戻らないか、というテレビ部の元上司からの要請を丁重にことわって、広告制作室の誕生に心血を注いでいました。

ところが、当時の石田社長(故人)が、広告制作室の誕生に、難色をしめしたたのでした。もちろん、この話は頓挫してしまいました。私はそのことを、矢部さんとY嬢から知らされ、わんわんと号泣しました。2001年の年末も押し迫った、深夜の六本木でのことでした。深夜の2時半まで矢部さんは私を慰めてくれましたが、私は、悲しみにずっとくれるばかりでした。広告制作室の誕生は悲願だったからです。

Y嬢だけ、宣伝プロデューサー室に異動になり、私は、宣材制作の業務をいつも通りこなしていました。そこへ私の直属の上司として着任したのが、東京国際映画祭で辣腕をふるったS女史でした。S女史は、私の業務での負担を楽にしたいというお考えで、いろいろ業務の改善に取り組みました。

しかし、それは実は(S女史には申し訳ないのですが)逆効果でした。宣材の印刷会社をすべて一つの会社に一本化して、私の業務を楽にし、印刷会社の売り上げ(それは東宝の関連会社でした)を倍増させる・・・・というプランでした。だが、実際は公開作品の数が多くて、複数の印刷会社で回さなければとてもではないけれど、やっていけない状況でした。しかし、S女史は、中川さんからの指示であるといって、断行したのでした。

しかし、それは無理な話でした。関連会社の印刷会社は、あまりに膨大な印刷量に、とうとう2002年の7月、重大な納品ミスをおかしてしまったのです。夏休み公開作品に合わせての宣材制作に、この納品ミスは大打撃でした。社内中大混乱に陥りました。

事態の収拾を、S女史は図るといって、対応しようとしましたが、実際の支社や劇場は、宣材制作の担当者である私に、事態の解決を求めてきたので、私は必死で支社や劇場への連絡や印刷会社との交渉を続けていました。

当然、連日、ストレスは増大し、私は不眠状態にになりました。次第に、周囲が私の悪口を言っているように思えてきて、掲出しているポスターの宣伝コピーも、私のことを悪く言っているように思えてきたのです。完全に、幻聴であり、幻覚であり、被害妄想の症状でした。

ここで矢部さんが、私に「心療内科を受診して、休養をとるように」と言ってくれました。私は一度心療内科を受診したのですが、医師は「それは社内のいじめである」といって、病気という診断を下しませんでした。私はビックリして、だれも信用できない状態になりました。

矢部さんとS女史は、そこで、私に、有給休暇をとるようにいいました。私は「大丈夫です」といったのですが、前の夫が「そうしなさい」といって、私を休ませました。しかし、8月上旬、無理をおして出社し、そこで完全に幻聴とサトラレ状態になったので、早退し、以後休暇をとったのでした。

家にいても、症状はひどくなるばかりでした。横浜にすんでいましたが、京浜東北線に乗ると、乗客全員が私の悪口を言っているように思え、渋谷の街を歩くと、広告がすべて私の悪口をいっているように見えたのです。盗聴されている、という思いが抜けず、そして、2002年8月16日、なぜか創価学会のお経の音が私の頭の中で鳴り響きました。私は大パニックにおちいりました。

前の夫があわてて、夏休みにもかかわらず、唯一開いていた、横浜のメンタルクリニックを、私に受診させ、付き添いました。私はクリニックにいた、あまたの精神病患者をみて仰天し、泣きだしました。その様子をみた精神科医は、即座に前の夫に「残念ですが、奥様は統合失調症です。しばらく自宅にて療養し、薬を飲んで治療していきましょう」といいました。

クリニックから、薬をいただいて、すこし様子が落ち着いてきましたが、会社には統合失調症の事実は、当初内緒にしましょう、と当時の主治医と確認していました。やはり偏見と差別がひどかったですし、東宝に知られたらどうなるのか、私も前の夫もとても不安だったからです。

2か月の休職後、私は人事面談を経て、会社の資料室に復職しました。業務自体は宣伝部時代に比べれば非常に軽く、資料室のおじさまたちにも大変親切にしていただきました。いただいた薬の副作用がひどかったので、おじさまたちが励ましてくださったり、私を休憩させてくださったり、早退させてくださり、非常に助かりました。でも、資料室でも、演劇の批評の活動を続け、「演劇界」には劇評を掲載させてくださり、東宝の資料室の台本や資料を読み放題という、非常に恵まれた環境に置かせていただいたのでした。

1年後。2003年10月、私は、東宝の本社の総務部広報課(のちに広報室。そして現、広報・IR室)に復帰しました。上司のみなさんは非常に優しく、体調に気遣ってくださいました。歓迎会も開いてくださり、つつがなく業務が行えるように、新しくパソコンを買ってくださったり、InDesignという編集ソフトのセミナーに通わせてくださるなど、非常に恵まれた環境の中で、仕事をすることになりました。当時の上司は、大女優・山田五十鈴さんの付き人も務められ、演劇部に長く在籍した、鈴木七渡さん(現在は退職されています)。鈴木さんは演劇への情熱が大変熱い方で、すぐに私と意気投合し、たのしくお仕事をさせていただき、幸せな毎日が続きました。

その1年後。こんどは2004年6月に、総務担当役員として、髙橋昌治常務が着任されました。髙橋常務も、そして、当時の総務部長・Iさんも、私をいろいろ活躍させたいとお考えで、まず私を、社内報編集だけではなく、企業広報ができる人材として育てようと、いろいろ鍛えてくださいました。

翌2005年4月には、あたらしく上司として、T氏が着任され、広報課は、広報室に昇格しました。社史編纂、東宝の公式ホームページの運営管理の業務や、お客様メール対応、IR、あるいは株主総会の運営補佐・・・と、飛躍的に業務は増え、私の責任もずいぶん増しました。

髙橋専務は、私に新聞のクリッピング作業をさせました。その切り抜いた記事の内容が、経済・芸術・医療・福祉など多岐にわたるのを見て、私を企業広報担当者に育てようとお考えになったようでした。

髙橋専務とIさん、Tさんの愛情あふれるご指導のもと、私はスクスクと企業広報と社内広報にやりがいを感じ、これを一生の仕事と考えるほどになったのでした。病気のことも次第に忘れていくほど、私の心の傷は癒えていったのでした。

ところが、好事魔多し。2005年10月から暗雲が立ち込めます。(つづく)


パーヴォ、どうしてるかな?明日は雪だそうですね。

2019-02-08 10:22:53 | PJのこと。

いま、母がお風呂の介護サービスを受けているので、パソコンを片手に、近くのファミリーレストランに来ています。

きょうはやることがないので、リヒャルト・シュトラウスの予習をして、明日のパーヴォのコンサートに臨もうと思っています。

いまごろ、パーヴォはどうしているかなぁ・・・。

美味しいコーヒー、ホテルで飲めているのかな。

東京のすがすがしい朝を、満喫できたかな。

それとも、リハーサルにそなえて、楽譜を予習したりしているのかな。

いろいろ想像をめぐらせています。

すべては、明日になれば、大好きなパーヴォに会えるのだけど!

明日が、ほんとに待ち遠しいな。

明日、パーヴォに会えたら、泣いてしまいそう😢

この2か月、あまりにもいろいろなことがありすぎました。

パーヴォに会ったら、ずっと張りつめていた気持ちが、

ぷつんと切れてしまいそうです。

でも、しっかりパーヴォの美しい姿を見て、

ステキな音楽をきいて、

元気をたくさんいただこうと思います。

 

パーヴォ、花粉も飛んでいるし、明日は雪だそうなので、

どうぞご自愛くださいね♡

あなただけの体ではありませんので♡

大好きです♡

 

チコより

 


パーヴォの、インタビュー動画です!あいかわらず、美しいパーヴォに一安心♪

2019-02-08 01:15:17 | PJのこと。

@ClassicFMさんのツイート: https://twitter.com/ClassicFM/status/1093526547040997377?s=09

Twitterをチェックしていたら、パーヴォがパリ管弦楽団と一緒に録音した、シベリウス交響曲全集のことでインタビューに応じておられたので、こちらに掲載いたします。

英語で翻訳がついていませんが、各自みなさまがんばって訳してみてくださいね。

私もこれからゆっくり拝見します~(^^)/

あいかわらず、美しいパーヴォに一安心♪

 

※いま拝見したのですけど、意味は実はよくわからず・・(あとでゆっくり訳します)。

でも、パーヴォの美しい瞳、理知的な広い額、高いお鼻、素敵な唇、みんな素敵

ひくくよく通るバリトンのお声は最高!歌を歌ってもきっと素敵でしょうね

母にも動画を見せたら、「ほんとになんて素敵なパーヴォかしら」と

母もニコニコ。

ああ、あと一日で、このうつくしいパーヴォに会えるのですね・・

待ち遠しいな、明日が!

 

昨日から、NHK交響楽団とのリハーサルで、

ハンス・ロットの交響曲第1番の練習に臨んでいるパーヴォ

きょうもリハーサルだと思いますが、

がんばっていただきたいですね!

幸い、東京はお天気なので、どこかで、すがすがしく、東京の空気を

満喫されますように

さて、みなさまにご参考までに、パーヴォのNHK交響楽団での、

インタビュー動画も併せてお届けします♪

「マーラーを好きな方には、ちょっと動揺されるかも。

マーラーに大きな影響を与えた、ハンス・ロットです」と

その魅力を大いに語っておられます!

http://www.nhkso.or.jp/library/videolibrary/index.php?v_id=109&mail=20190201

チケットもまだ残席があるようです。みなさま、この機会にぜひどうぞ♪

9日も参りますが、10日も両親の許しがでましたので、

行ってこようと思います!

http://www.nhkso.or.jp/concert/search_concert.php

まずはみなさま、パーヴォの魅力と、未完の大器、ハンス・ロットの魅力に

触れていただいて、

ぜひ、それぞれの豊潤な芸術を味わっていただけたら幸いです♪

 

パーヴォ、世界で一番、あなたを愛します