新・台所太平記 ~桂木 嶺の すこやかな日々~

N響定期会員・桂木嶺の、家族の介護・闘病・就職・独立をめぐる奮戦記を描きます。パーヴォ・ヤルヴィさんへの愛も語ります。

【思い出話、うちあけばなし】なぜ、私が東宝をやめることになったか。(その3)(長文です)

2019-02-08 22:47:11 | 体調のこと。

私の東宝人生の中で、もっとも苦渋にみち、かなしく、大変だったこと、でも結果的には東宝のためになったことをお話します。

TOHOシネマズに、全国の支社、関連会社の劇場が解体され、吸収合併されるという、大機構改革が発表されたときです。

その第一報の情報は、髙橋専務とI総務部長が、総務部次長のYさん、そして、広報室長のTさんと私をひそかによんで、伝えてくださったのでした。

「いままで極秘にしていたが、明日これを社内に発表するので、社内的に混乱がおきるかもしれない。しかし、こちらとしては、会社の方針なので、まず社内のイントラネットと、社内報の『宝苑』に掲載し、社内の理解と協力を仰ぐことにする。なにか問題なり問い合わせがあれば、すぐに髙橋専務と僕(I総務部長)に報告するように」

私は、大変緊張しましたが、ついに来るものが来た、という実感を感じていました。全国のシネコンのサービスの均一化を図ることは急務でした。(お客様メール担当をして、その現状がよくわかったので、私達は全社内の管理職以上の人間にそれを報告していたのでした)

髙橋専務はこうおっしゃいました。

「松岡会長と、高井社長がご決断を下されたので、みんな協力してこれにあたってほしい。この事態に至るまでは、僕も非常に悩んだが、やはり断行すべきだと思う。いま、東宝が余力があるときに、この機構改革をやらないと、東宝の存亡にかかわる。僕は、日ごろ『経営とは何か』ということを考えているのだが、こういう決断を勇気をもって下すことが大切なのだろうと思うよ」

そういって、髙橋専務は口元をぎゅっと引き締められました。

髙橋専務やI総務部長の、悲壮きわまりない思いは無理もありませんでした。業績がある程度いいにもかかわらず、劇場や支社の余剰人員と呼ばれる人たちを、東宝全体で、大幅にリストラしなくてはならないからです。

私は「専務、よくぞご決断なさいました。」というのが精いっぱいでした。

が、これはなにがなんでも、頑張らなくてはならないだろうと、腹にずしんと重いものがくるのを感じていましたし、総務部の主要メンバーがみな大変緊張した面持ちでした。

そして、発表されました。もちろん、社内は大混乱に陥りました。それは、宣伝部で宣材の納品ミスが起きたときの騒ぎではありませんでした。全国の支社の、「宝苑パートナー」と呼ばれる人たちがみな私のところに問い合わせをしてきました。取材でお世話になった支配人からもメールがきました。

私はそれらの問い合わせを、すべて髙橋専務とI総務部長に見せ、指示を仰ぎ、事態の収集に奔走しました。髙橋専務は、経営企画部の太古部長(現・専務取締役)と連日長時間の会議と打ち合わせをし、全国に出張し、事態への理解を全国の支社・劇場にもとめました。労働組合にも協力をもとめました。組合は当然猛反発しましたけれど、髙橋専務は粘りづよく説得しました。

TOHOシネマズでは、当時、村上主税社長(現在は退任されています)が陣頭指揮をとり、この合併がスムースに行くように、全国行脚していました。

Tさんと私は、ひたすら、メール対応と、『宝苑』での告知をしていました。すると、ある女性の支社の宝苑パートナーの方が、大変な抗議文を送ってきました。「支社は本社の方針に納得できません!私達はつらいです!」と。私は、これはまずい、と判断し、髙橋専務にご相談しました。

専務は、「うん。そうだな。確かにつらいのはわかる。でも一番つらいのは、高井社長や僕かもれいないよ・・・」と言って、非常につらい面持ちで、私につぶやきました。

私は勇気を奮って言いました。「専務(ほんとうは当時は常務だったのですが、専務で統一しておきます)、おつらい気持ちはわかります。でも、私が思うに、この問題はイントラネットや『宝苑』で事務的に告知をするだけでは混乱する一方です。やはり、だれかが責任をもって、この問題についてインタビューにお答えになるべきだと思います。社内融和の必要性と、経営意思、そして社内の結束をきちんと社内に伝えるべきだと思うのですが」

専務が遠い目でお答えになりました。「とすれば、それをするのは、僕か、村上さんということになるね。どちらかがいいだろうね。・・・うん、ながたさん、考えてみるから待っててね」

そうおっしゃって、「ながたさんは、あまりこのことで悩まなくていいよ。ながたさんは『宝苑』のたのしい編集のことを考えなさい」といってはげましてくださいました。

しばらくして、村上さん(TOHOシネマズ社長、当時)から、「ながたさん、僕と一杯飲みに行こう」とお誘いをうけました。東宝本社の近くに、東宝社員いきつけの飲み屋さんがあり、そこでざっくばらんに飲もう、ということでした。村上さんもとてもやさしくしてくださる方だったので、ぜひにということで、伺いました。

村上さんは大変な紳士で、「ながたさんが、映画興行部だった時代から、TOHOシネマズのことに、気を配ってくれて、『宝苑』でも応援してくれていることは、本当にうれしいよ」と言ってくださいました。

「僕はね、ながたさん、この問題はもう不退転の決意で、僕の東宝人生をなげうってまで、最後までしっかりやり遂げようと思うんだ。全国行脚するとね、もう支配人たちも劇場スタッフも、支社の人間も怒号が飛び交って大変なのだよ。罵声も浴びせられることもしばしばある。しかしね、いま、この機構改革をやらないと、東宝100年の計が成り立たなくなってしまうと、僕は思う。だからがんばっているんだよ。そのことを、ちゃんと『宝苑』のインタビューで伝えられるのであれば、僕はインタビューに応じますよ」

私は、泣きながら「ありがとうございます。社長。ぜひ、社長の想いを、きちんと取り上げたいと思います」といいました。村上さんは「ながたさんは、本当に、東宝のことを想ってくれているね。ありがたいよ。そういう社員がひとりでも増えてくれるといいんだけどね」とにこやかに杯を傾け、私と乾杯しました。

そして、『宝苑』でインタビューが実現しました。結果は、賛否両輪でしたが、社内はその発行を機会に、一気に騒ぎは沈静化していきました。

しかし、まだまだ波乱はつづきました。ある日、人事のS重役が、「ながた、ちょっと診療所の会議室にくるように」と私をひそかに呼び出したのでした。

(つづく)



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