医療と薬の日記

医療ニュース、薬など

日本における大衆薬の危険性と実現不可能な解決策

2015-03-31 18:02:23 | 日記
日経新聞に『処方薬を大衆薬に転用しやすく 店頭販売を拡大』という記事があった。

処方薬(医療用医薬品)を大衆薬(一般用医薬品)に転用することを「スイッチOTC化」というが、この要望を従来の製薬企業からのみではなく、消費者や健康保険組合からも受け付ける仕組みとすることで、転用を促進しようということらしい。
米国や欧州では、医薬品費に占める大衆薬の比率が軒並み20%を超えているが、日本では約10%と低い。転用が進むことで、製薬企業にとっては売り上げ増加が見込め、健康保険組合にとっては医療費抑制、消費者にとっても利便性が向上する、といった内容だった。

実際に多くの先進国では日本と比較してスイッチ化が進んでおり、公的医療費の抑制に効果を挙げている。日本でも、この動きは今後加速するとみられていて、病院での支払いの自己負担率を上げるといった受診抑制策と共に、公的医療費を抑制する方策の一つとなっている。

この件について、個人的には『日本の医療にとってあまりよいことはない』と思っている。

スイッチOTC化には、上で挙げたように各々の立場で異なった利害が生じる。どういった価値観を重視するかで制度の形も変わってくる。
製薬企業にとっての利益を考慮すれば、消費者がより積極的に医薬品を購入することが望ましいということになる。医療用医薬品と大衆薬、どちらの利益率が良いかは薬によって違うだろうが、例えば特許の切れた抗アレルギー薬などはジェネリックメーカーにシェアを奪われることが多いため、OTC化が望まれるかもしれない。健康保険組合にとっては、被保険者である国民が医療機関にかかることなく大衆薬で済ませる方が有難い。消費者にとっては、効果が良くて安全な薬を病院での待ち時間なしに購入できるなら歓迎ということになるだろう。
もちろん、どの立場の人も「転用するかどうかは、医薬品の安全性が前提」と言うだろう。だが残念ながら日本においては、それは上手くいかないのだ。

■ 大衆薬の「安全性」とは何だろう
医薬品を服用する上での安全性のポイントは2つ挙げられる。一つは「副作用」、もう一つは「選択の難しさ」だ。
副作用の観点から、相対的に安全な医薬品を選定することは不可能ではない。副作用症例を拾い上げて、使用頻度を考慮すればよい(注1)。だがもう一方の選択の難しさについては、日本で考慮されているとはいい難い。金銭を支払って購入するもの(商品)は自由に選択したい、検査せず薬を選ぶことはできない、薬剤師は医師ではなく薬を選ぶ能力はない、といった価値観が根強いのではないかと思われる。

実例を挙げてみる。
昨年の7月初旬、私の薬局に20歳代位の男性が頭痛薬を買いに来た。どんな症状か尋ねたところ、抵抗感はあったようだが、渋々答えてくれた。友人と久しぶりにサッカーをしていたところ、その友人が頭痛を訴えたため横にして休ませ、自分は薬を買いに来たとのことだった。
追加で幾つかの質問をし、熱中症を疑った。もし熱中症であれば、そもそもこの男性が購入しようとした頭痛薬には発汗を抑制する副作用を持つ成分が入っており逆効果になってしまうし、熱中症に伴う脱水症状は頭痛薬による急性腎不全の大きなリスク因子となる。
相談の結果、最寄りの内科診療所を受診することになった。診断はやはり軽度の熱中症とのことで、点滴によって回復し、薬は結局不要であった。

■ 薬剤師による介入の必要性
こういった要素は「薬剤師による介入の必要性」として、多くの国において、医薬品を分類する上で重視されている(購入の際には「ファーストジャッジメント」と呼ばれる薬剤師の機能として)。
医薬品の分類にあたり、「利便性や入手の必要性」、「副作用の危険性」、「薬剤師による介入の必要性」といった要素はどれも重要なものだが、その社会がどういった価値観を重視するかによって、その線引きは変わってくる。いわゆる先進国の中では、欧州やオーストラリアの分類が中庸とされ、北欧諸国は利便性・経済活動より安全性重視、アメリカは自己責任を重視し規制を極力設けない、といった特徴がある。
安全性が高く、薬剤師による介入の必要性も高くない場合には、薬剤師がいないスーパー等でも販売できる「自由販売医薬品」に分類される。もう少し注意が必要な医薬品だと「薬局販売医薬品」として、薬剤師が常駐する薬局において販売される(アシスタントによる販売も可)。さらに薬剤師のみが販売する「要薬剤師医薬品」、処方せんが必要な「要処方せん医薬品」、と段階的に分類されるのが一般的だ(国により名称などは異なる)。
これに合わせ医薬品の陳列方法にも段階的な規制がある。購入者が自由に手に取れる場所でのセルフ販売、カウンターの後ろ、購入者の目に付かない場所、といったものだ。製薬企業による消費者への宣伝方法も、分類に従って制限あるいは禁止されることになる。

日本での分類は、薬剤師による販売が必要な「要指導医薬品」と「第一類医薬品」、登録販売者による販売もできる「第二類医薬品」と「第三類医薬品」、自由に販売可能な「医薬部外品」となっている。要指導医薬品と第一類医薬品を販売しない薬局では、薬剤師の配置は必要ない。

■ 日本における大衆薬の危険性
ここまで読んで、もう理解したという人も多いかもしれない。日本は「制度は中庸、実態はアメリカ型」を志向している(「本音と建前」を使い分ける国だ)。大衆薬をOTC医薬品と呼ぶのは、そもそも「Over The Counter」、つまり大衆薬を購入する際の標準的な購入方法(カウンター越しに薬剤師と相談し薬を選択する)に由来している。日本において、これに近いものは要指導医薬品と第一類医薬品ということになるが、その数は全体の1%に満たず、消費者への宣伝も制限されない。実態は購入者が指名する医薬品について薬剤師が書面で説明を補足するという形であり、購入者からの相談に応じて薬剤師が薦めるものではない。厳密にいえば、日本にOTC医薬品というものはないということになる。

「薬剤師から買う必要がない大衆薬は安全だ」という意見を耳にすることがあるが、これは誤解だ。第三類医薬品と医薬部外品には確かに安全性が高いものが分類されているのだが、第一類と第二類は、そもそも副作用の危険性で区別されている訳ではない。
実際に厚労省による説明においても、副作用に関する記述はどちらも「その副作用等により、日常生活に支障をきたす程度の健康被害が生じるおそれがある医薬品(注2)」と、全く同じ内容となっている。薬剤師から購入しなければならない面倒さを嫌う消費者と、制限のない自由な販売を求める企業側、規制緩和による活発な経済活動を求める国の利害が一致した、ある種の詭弁といえるかもしれない。
同様の誤解に「大衆薬で治まる症状であれば大丈夫。治らなければ病院に行けばよい」というものもある。
ちゃんとした労働基準法がありながら、サービス残業やブラック企業がまかり通る日本において、医薬品の販売制度はマトモだと考えるのは、ちょっと楽観的過ぎるかもしれない。欧州での価値観から日本の様子を見れば「こんな制度は不誠実だ」ということになるだろうが、近年の日本の価値観でいえば、「自己責任」、「情弱(情報弱者)」といった表現で片付けられるのだろうか。
結局のところ、利便性や経済活動のために、どの程度であれば「正しさやモラル」を放棄できるかという、社会的合意ということなのだろう。これにより、ドラッグストアは全国至る所に出店しているし、品揃えは豊富で営業時間も長い。大衆薬の値引き販売が禁止されている国もある中、日本の値引き合戦は魅力的だ。薬剤師からあれこれ質問されることもなく、思いのまま大衆薬を選べることも魅力だろう。
その反面、アメリカでは、一般的な、たった一種類の大衆薬によって毎年数百人の死亡例が報告されている。日本では副作用被害の集計が十分ではないため比較は困難だが、アメリカの制度を志向している現状を考えると、少なくとも同じ方向へ進んでいることは確かだろう。

■ 安全な大衆薬にするための解決策
もしも現状の大衆薬制度を変更することなく(実際問題、不可能だ)、「大衆薬の安全性」を重視するのであれば、私は「処方箋医薬品以外の医療用医薬品」の利用拡大を挙げたい。

「医療用医薬品」は病院などで処方される医薬品のことだが、この医療用医薬品はさらに「処方箋医薬品」と「処方箋医薬品以外の医療用医薬品」に分類されている。
「処方箋医薬品」には、高血圧治療薬や糖尿病治療薬など、病院で実施される検査値などによる判断が不可欠なものが多く分類され、誤った使用による不利益、副作用も大きい。厚生労働省も、処方箋医薬品については、大規模災害などの場合を除き、処方箋なしでの販売を固く禁じている。
一方の「処方箋医薬品以外の医療用医薬品」は、処方箋医薬品よりは幾分副作用等の危険性や検査値による判断の必要性が低い、大衆薬に近い分類だ。実際に、これまでスイッチOTC化された、あるいは今回の記事でスイッチ化の候補とされている成分は概ねここに分類されている。
処方箋医薬品を患者に直接販売することは固く禁じられている一方、「処方箋医薬品以外の医療用医薬品」の販売については、「処方箋に基づく薬剤の交付が原則である」としつつ、多くの条件を付けたうえ、限定的に認められている。その条件は、使用者本人への販売、販売数量の限定、適切な受診勧奨、陳列・一般向けの広告の禁止、十分な服薬指導の実施といったものだ。
これは実質的に、欧州でいうところのOTC医薬品に近い。実際に、この分類を使って制度を運用する国もあり、日本でこの分類を設定したのは、将来的な運用可能性を模索したものといわれている(あるいは、保険償還から外すことで公的医療費を節約する方策として)。

■ ただし、それは不可能だ
だが、そのような選択肢があったとしても、実現可能性は極めて低い。
製薬企業からすれば、この制度を進めたところで医薬品の使用量が増える見込みもなく、利益率も低い。CMによって売り上げをコントロールすることもできない。健康保険組合にとっては反対する理由はないが、日本医師会は嫌がるだろう。
何より、国民が納得するかという問題がある。上で挙げたような、豊富な選択肢から自由に選ぶことができない。薬剤師に相談しなければならないという煩わしさ、そもそも相手の薬剤師が信用できるのかという疑問、(実現するとすれば)値引きが禁止される可能性も高い。

「どのような制度にすべきか、医薬品の安全性が前提」とは、どの立場の人も口を揃えて言う。
だがどの立場の人も、
「ただし、利益の最大化という優先事項は譲れない」
「ただし、自分たちの利益が減らない限り」
「ただし、便利で心地よい購買行動を制限しない限り」
という価値観を手放すことはできない。

こういった諸々の事情を考慮すると、この方向へと進むことは考えづらく、徐々にスイッチOTCを進め、同時に病院を受診しづらい状況とすることで、公的医療費の削減を図ることになるだろう。
ただ本稿で説明したように日本でのスイッチOTC化には、他の先進国とは異なる、独特の危険性がある。多くの方はこういった危険性について実感することは少ないかもしれないが、薬剤師として仕事をしていると、このような失敗(医療者が行えば裁判もの、あるいは誤った選択による健康被害、適切な治療機会の喪失など)は日常的にみられるものだ。

この点について、ご注意頂ければと願う。日本はもはや、弱者のための国ではない(注3) 。



注1)言ってしまえば簡単なようだが、実際には難しい面がある。報告するのは服用した本人か、薬を渡した(販売した)立場か、副作用の治療にあたった医療者か。特に日本ではこの機能は弱いと指摘されることがある。過去にスイッチ化された医薬品では、スイッチ前に年間数十例報告されていた副作用が、OTCでは副作用が殆ど報告されない安全な(?)薬になった例も。「副作用は暗数としてのみ存在する」という名言がある。
注2)「日常生活に重大な支障をきたす健康被害、死亡例、選択の誤りによって健康寿命が損なわれるおそれはない」とは書いていない。
注3)本稿の場合、弱者とは「不幸にも副作用被害に遭ってしまった人」を指せばよいのだろうか。大衆薬の選択を誤った人、医師への受診のタイミングを誤る人、適切な受療行動を取れなかったことで得られるはずの健康寿命を失ってしまった人も弱者とするならば、強者であり続ける人をほとんど見ない。思慮深い医師、ある程度優秀な薬剤師くらいか。
この点について、精神科医でもあるブロガーのシロクマ氏が度々指摘している
http://blogos.com/article/108998/?p=2

規制改革会議で「医薬分業」見直し?

2015-03-24 09:59:17 | 日記
3月12日、内閣府規制改革会議が主催する公開ディスカッションにおいて、「医薬分業における規制の見直し」が議論された。
主な論点は二つ、一点目は「利便性の問題」として、現行法で定められている医療機関と薬局との一体的な構造を禁止する規制の是非について、二点目は「コストとメリットの問題」として、院内処方より院外処方が高コストになるもののメリットを感じにくい、国民にとってよりメリットのある医薬分業を実現するためにはどうすればよいか、というものであった。


< 規制緩和としての門内薬局 >
医薬分業制度では、医療機関と薬局とが経済的・構造的な繋がりを持つことを禁じている。これを担保するため、医療機関から薬局に移動する際には、公道(もしくはそれに準じる通路)を通ることと規定され、駐車場を通って直接薬局に移動できるような場合には、一旦公道を通るようフェンス等を設置しなければならなかった。
この規制は確かに杓子定規に過ぎる感がある。総務省は昨年、同省に寄せられた行政相談を受け、「保険薬局が保険医療機関から経営上独立していることが十分に確保されている場合には、構造上の独立性に関する規定は緩やかに解釈するのが相当であり、身体が不自由な者等の利便に配慮する観点から規定の解釈を見直す必要がある」とのあっせんを通知した。

この動きを受け、今回規制改革会議が議論の俎上に載せたのが「門内薬局」、つまり病院内の売店や喫茶店のようにテナントの形で薬局を入居させたとしても、経営上の独立は確保できるのであるから、それが可能となるよう規制緩和してはどうかというものだ。

議論に先立ち、召集された専門家によるプレゼンテーションが実施された。


< 各専門家の見解 >
【 厚生労働省 吉田審議官 】
医薬分業とは、医師・薬剤師が業務を分担し国民医療の質的向上を図るもので、欧米では広く一般的。残薬解消・後発医薬品推進により保険財政にも貢献している。
薬学的管理を行うためには、服用中の医薬品、副作用歴等の患者情報を一元的に把握する「かかりつけ薬局」が必要であり、門内薬局では、構造的に一体となっている医療機関の調剤を行うと予想される。今後の方向性として、普段から気軽に相談できる「かかりつけ薬局」を作る体制の構築、セルフメディケーション、地域包括ケアの推進が挙げられる。

【 日本医師会副会長 今村氏 】
医療機関と薬局とが一体的な経営を行うことを禁止することは前提だが、物理的な隔壁があれば防げるというのは疑問。患者が薬局を選べることは重要。コストに見合ったサービスという点では、そもそも患者が制度をどこまで理解しているかという問題があり、医科も同様。日本では薬剤師、薬局数が多く、病院の前に薬局が立ち並ぶことは不適切。
医薬分業は面分業(特定の医療施設でなく、多施設の処方箋を受け付ける)、地域のかかりつけ薬局を増やすことが重要であり、国民への制度の周知、政策的な誘導策が必要。

【 健康保険組合連合会副会長 白川氏  】
医薬分業はあるべき姿だが、負担に見合う効果が発揮されているか疑問。医療機関との連携、在宅業務、後発医薬品使用促進、残薬解消、健康情報拠点としての役割について、さらなる取り組みが必要。
その他の課題として、チェーン薬局の問題、医療機関による特定の薬局への誘導、その見返りとしての利益供与の禁止は遵守されているか、(複数回使用できる)リフィル処方箋導入の検討が必要。

【 日本薬剤師会副会長 森氏 】
医薬分業は薬物療法における安全確保と質の向上に役立つ。調剤業務は時代と共に変化しており、業務範囲は拡大している。分業制度は利便性より安全性を重視したもので、疑義照会される処方箋は全体の3%、患者の生活なども踏まえた照会によって医療安全に寄与する他、年間82億円の医薬品費節減効果がある。地域包括ケアシステムの中で薬剤師が貢献する上で、かかりつけ薬局の推進が必要。

【 東京医科歯科大学大学院教授 川渕氏 】
門前薬局は多いが、院内薬局もよいのではないか。薬局によって薬の値段が違うのはよくない、一物一価であるべき。医薬分業になり、待ち時間は減ったか、薬の説明は充実したか。ポイントカードはメリットがある。薬局では株式会社の参入を禁止していないのに、競争がない。薬剤師の養成数、薬局数は厚労省が考慮すべき。

【 日本在宅薬学会理事長 狭間氏 】
薬剤師は、薬を渡して終わりではなく、服用した後の変化についての専門家であるべき。薬学教育で学ぶ知識と実際の業務内容には乖離がある。医師と薬剤師が連携して業務を行うことで、医師は多くの患者を診ることが出来、薬剤費の減額、多剤併用の解消、薬の有害事象による入院例の減少といった効果がある。薬剤師の活用は、新しい治療戦略だ。


< 医療提供側の共通認識 >
意外であったのは、厚労省、薬剤師会のみならず、医師会や報酬支払い側である健康保険組合連合会までもが、口を揃えて「かかりつけ薬局」や「薬剤師の役割拡大」に同意したことだ。先日報道された大手調剤薬局チェーン薬歴不記載問題でも明らかなように、日本の医薬分業制度においては過度の商業化や制度の歪みによる悪影響が顕在化している。迷走の時代を経て、関係者の問題意識が一致したことは意義深い。
勿論、各団体の主張は自らへの利益誘導に偏らざるを得ず、医師会は門内薬局の制度化を歓迎している。今後の分業制度・薬剤師の職域について議論する際も、「総論賛成・各論反対」といった議論の紛糾・膠着が予想される。


< 規制改革会議の問題点と限界 >
その後のディスカッションでは、規制改革会議の委員側から、「医療機関と薬局とが独立しているなら門内薬局は可能ではないか」、「病院内にコンビニが入居していても、経営の独立性は保たれている。患者のメリットを考えるべき。」、「院内、門内に薬局があれば便利。場所が同じだと経営で癒着が生まれるというのは思い込み。」等の意見が出された。
非常に残念であったのは、冒頭のプレゼンテーションの内容を踏まえた上での、さらに突っ込んだコメントが殆どみられなかったことだ。各々の専門家は、立場は違っても医薬分業の趣旨に同意した上で、現状に問題があり、修正が必要であると述べている。一方で委員側の多くは、機能不全を起こしている現状を土台に、二度手間・患者負担の解消を主張した。現状の門前薬局において、薬剤師が医師に異論を唱えられないとすれば、それは門内であっても同じだが、規制(経済的、構造的な独立性)はそもそも、薬剤師の職能を発揮させるべく、医師とは「独立した立場」を誘導しようとしている。病院内のコンビニエンスストアは、医師の治療内容に異を唱えたり、他の病院に行くべきだと患者に助言したりはしない。
他の先進国がどうであろうが、日本にそのような薬剤師の職能は不要だとこの国が同意するのであれば、医薬分業政策を撤回すれば済む話だ。診断名によって検査や処置、処方する薬剤費を包括払いとすれば、二度手間、医師の過剰処方といった問題は直ちに霧散する。
会議に専門家を招集したとしても、話を理解する気がない、そもそも持論を手放す気など毛頭ない、というのであれば初めから呼ばない方がマシだ。

この会議によって図らずも明らかとなったのは、経済刺激を念頭に規制の緩和・撤廃を命題とする規制改革会議側と、それぞれ志向する形は違えど、適正な医療のためどのような規制が必要であるかを考慮する医療側との姿勢の違いであった。
これを踏まえれば、広告収入への依存から経済界への配慮を手放せない大手メディアが今回の会議について、判を押したように『医薬分業に多くの否定の声が上がった』と表現することにも合点がいく。
理念やモラル、日本人の国民性を蔑ろにし、偏った主張を繰り返す大手メディアの姿勢が、国民のテレビ離れ、販売部数の減少に繋がっていることはメディア自身そろそろ自覚すべきだろう。

両者のスタンスの違いは、竹中平蔵氏とノーベル賞受賞経済学者ジョセフ・E・スティグリッツ氏との対比を連想させる。竹中氏は、どの分野を規制緩和すればよいかなど分からないから、全ての分野について緩和すべきと主張し、スティグリッツ氏は「目指すべきは規制緩和などではない。議論すべきは、適切な規制とは何か、ということである。規制なしで、機能する社会はありえない。問うべきなのは、どんな規制が良い規制なのか、ということである。」と主張する。
本来であれば、ここで国民的議論を提起するのはメディアの役割であろうが、残念ながら現状では望むべくもない。


< 医療提供側の課題 >
とはいえ、医薬分業を推進しながらその法令化について精彩を欠く厚労省(市販薬ネット販売訴訟において、規制を「省令」で行うことが不適切と判示され敗訴したことは記憶に新しい)、利権争いに終始し適切な医療制度への合意を一向に纏められない各医療職能団体に大きな問題はあろう。個々の医療者が患者から受ける信頼に比べ、各団体が同様の信任を国民から得ているとはいい難い。
院内薬局が解禁となれば、医療機関側にとって多額の家賃収入を見込めることは確かに魅力的だろう。だがこの制度化が、医師会も同意した「かかりつけ薬局」の理念とは正反対であり、双方が両立しえないことは、医師会自身よく理解している筈だ。
会議中、足の悪い患者が院外の薬局に向かう困難さについて医師会側から意見が出たが、これは現行法でも処方箋を発行せず院内調剤が可能だ。何よりこの論理を用いるならば、医療機関の多くで実施されている無診察投薬(診察を行わずに処方箋を発行すること、日本医師会は「お薬外来」と表現している)の存続に拘泥するより、リフィル処方箋の導入に合意すべきだといえる。多くの場合、医療機関より薬局の方がアクセスは良く、ネックとなるのは利益の調整だけだ。

今回の会議では、門内薬局解禁を求める意見の他、医薬分業の理念を具現化するための制度化、マイナンバーを初めとするICT活用、リフィル処方箋制度の進捗状況を問う声など、業界内で膠着している種々の問題への意見もみられた。
関係者はこういった声を「素人による、取るに足らない意見」と突き放すのではなく真摯に受け止め、「信任に足る今後の医療の形」を自ら提示して欲しい。

医薬分業元年とされる昭和49年から、もう40年も経っているのだ。

調剤薬局、薬剤師バッシングについて

2015-03-06 14:29:50 | 日記
先日、報道された大手チェーン調剤薬局の薬歴不記載問題に端を発し、日本では再び医薬分業、あるいは薬剤師に対する批判が高まっている。
これが二年に一度行われる診療報酬改正での議論を見越したプロパガンダではないかとの見方を持つ医療者は少なくない。だが、実際に多くの国民が医薬分業制度に対して疑問を持っていることは紛れもない事実だ。
医薬分業批判に関する特集の中で、一昨年にテレビ番組「とくダネ!」内で放映された特集『医療の常識を疑え 院外薬局増の裏側』は医薬分業への疑義について、非常によくまとまっていた。
内容を振り返り、日本における制度設計について私見を述べてみたい。

内容は概ね以下の通りであった。


30年ほど前から国が推し進めた「医薬分業」政策により調剤薬局が乱立、現在その数はコンビニより多い。

《東京医科歯科大学 川渕孝一教授》
「分業により、院内比1.3~3.8倍のコストがかかる。分業政策には、薬剤師が職能を生かして薬剤費を節約する意図があった。薬漬け医療が社会問題化したことで分業政策が進められたが、逆に薬剤費は増加している。」

2001年から2009年の薬剤費の推移グラフを紹介、薬剤費は増加している。

《匿名の薬剤師インタビュー》
「用量の上限を超えたり、適切な用法に反する処方を行う医師もいるが、疑義照会を実施しないことが多い(筆者注:処方せん内容に疑義がある場合、薬剤師は医師に照会を実施し、その疑義が解消しない限り調剤してはならないという規定がある)。これは薬局の社長の指示であり、何も疑問を持つなと言われている。調剤薬局は処方する病院がないと成り立たず、立場上言いづらい。」

《元厚生省医薬分業担当 山本章氏》
「分業の推進にあたってコストは発生する。たくさんお金がかかろうが、私は知らんという立場だ。薬剤師による管理、他院での重複薬剤の発見は患者さんのメリットなのだから、費用(5~10%増)を気にするより、美味しいものや上等の服をやめ、私のようにボロい服を着てはどうか。」

《厚労省》
(医薬分業への批判について)「薬剤師が説明や相談応需をこれまで以上に丁寧に行うべき。」

《医療ジャーナリスト 伊藤隼也氏》
「現状のシステムで本質的な医薬分業は不可能。薬剤師が疑義照会しづらいのはシステム上の問題であり、門前の医師に異議を唱えるのは勇気がいる。薬の単純な間違いはチェック出来るかもしれないが、もっと大きな問題、複数の医療機関による多剤併用などは解決できない。分業にはコストもかさむ。病院の中に薬局を設置する(門内薬局)、あるいは医療機関に薬剤師が入りチームで患者に対応すべきだ。」



この番組内容は薬剤師の業界でも話題となり、伊藤氏を批判、あるいは中傷する多くの意見が渦を巻いた。日本薬剤師会もテレビ局に対し公開質問状を送付し、番組内容の誤りの指摘、処方せんの3%余りについて疑義照会を行っている等の批判を行った。

政策レベルにおいても、医療費逼迫への対応策の一つとして、これまでの分業推進政策を方向転換する動きがある。
昨年4月の診療報酬改定では、地域包括診療料(複数の慢性疾患を持つ患者に対する包括的な診療料)について原則院内処方との条件が出され、先日の日経新聞でも、従来禁止されていた病院内の薬局開設を許可するかどうか政府が検討するとの報道があった。
今月12日に行われた規制改革会議の公開ディスカッションにおいても、医薬分業の規制について取り上げられ、多くの委員から分業制度への不満が相次いだ。


医療制度、中でも報酬制度に関する議論の殆どは「金と権限」の奪い合いに関するものだ。日本医師会、日本薬剤師会といった医療職能団体は基本的に、自らの権限や経済的利益を手放すような主張はしない。各職能団体は各々政治団体(〇〇連盟)を擁し、選挙協力や寄付を行っている。医療政策や報酬制度の立案に関わる厚労省にも医系官僚、薬系官僚が存在するとされ、政府系の会議に出席する有識者や学者の多くにも、職能団体や製薬企業等の影響があるといわれている。このような様々な利害関係者の影響の下、日本の医療制度は成り立っている。
加えて、世論を喚起し議題を設定すべき新聞やテレビといった大手メディアに、中立的・中長期的な視点を持ったジャーナリズムがほとんど存在していないことは、この国の医療にとっても大きな損失を与えている。

いわゆる先進国において、医薬分業がスタンダードな医療制度であることを耳にしたことがある方は多いだろう。実際、G7諸国はいずれも「完全」分業制を採用しており、日本のように「医師の任意による不完全分業」を採用している国はない。
医薬分業制度はヨーロッパが起源であり、日本では戦後、GHQの働きかけにより医薬分業法案が作成されたものの、朝鮮戦争の影響による担当者の交代もあって法案は骨抜きにされ、実効性を失ったという経緯がある。

医薬分業の意義は大まかに次の二点が挙げられる。一つは医師と医薬品との経済的な関連性を絶つこと、もう一つは医師のミス、あるいは不適切な処方が患者被害に繋がらないよう、専門家たる薬剤師が監視することだ。

医薬分業の導入を拒否した日本は、残念ながらその後、海外から「薬漬け・薬害大国」との揶揄を受ける状況に陥った。公的保険医療において、医師の技術料は診療報酬制度によって定められているが、薬価差益(保険請求する薬の価格〈薬価〉と仕入価格の差)は診療報酬とは独立した利益となる。医師にとって、多くの薬剤を処方する経済的インセンティブが生じると共に、医師・製薬企業にとって高い薬価(大きな薬価差)は共通の利益であり、圧縮は困難であった。
日本における医薬分業は、専らこの問題の解決のために推進されたといっていい。分業を促す方策として、院内での調剤手数料よりも処方せん料(処方せん発行にかかる技術料)を高額とする方法が採用された。昭和49年のことであり、分業元年といわれている。

「医薬分業の推進は、院内調剤手数料と処方せん発行料の傾斜配分ではなく、法律によって誘導すべきだった」という意見がある。確かに、院内調剤料が「調剤に必要な設備や人件費等の対価」と説明されていたことを考慮すれば、処方せん料をそれより高額とすることに論理的な整合性はない。何より院内調剤から医薬分業への制度変更を受け入れざるを得ない患者側の金銭的負担を考慮すれば、新たに薬局での技術料を支払うことになる上、病院での支払いまで高くなる制度には問題がある。
この意見に対する反論もある。院外処方せんを発行するようになったからといって、それまで調剤に関わっていた従業員を整理解雇する訳にはいかず、十分な猶予期間は必要だ。病院側が得ていた薬価差益に代わる利益を手当てする必要もある。(またこれは非常に重要なことだが)診療報酬は、個々の技術や設備を評価する一方で、報酬の総額を調整する面もある。短期的に割高になったとしても、長期的には埋没することになる。
ただこのような経緯を考慮すれば、患者の二重負担を理由に医師会側が一方的に分業を批判するのは不適切だろう。

分業推進による効果はあった。30~40%台が珍しくなかった薬価差益は、消費税分を考慮すれば、現在は数%にまで圧縮されている。もし院内調剤を主流としたままであれば、その分の喪失利益は診療報酬等で補填する必要があり、医療費の削減効果は減弱していただろう。
国民医療費に占める薬剤費(薬剤費比率)は昭和40年代には40%、50年代に30%を超えていたものが、現在では20%台前半にまで下がっている(算出方法が国によって異なることもあり、他の先進国に比較すると未だ高い水準であるとの指摘もある)。薬剤費は1993年に6.94兆円であったものが2009年に8.0兆円と上昇しているが、この間に国民医療費が24兆円から36兆円と1.5倍になっていることを考慮すれば、医薬分業を利用した薬剤費の圧縮は成功したといえるだろう。
ちなみに、医薬分業に関わる調剤薬局の技術料は現在1.8兆円ほどだが、もし国民医療費と連動して薬剤費も増加していたと仮定すれば、その額はこれを上回っていることは申し添えておきたい。こういった医薬分業の経済的な側面もまた、欧米で否定論が起こらない理由の一つだ。

当然のことながら、医薬分業によって薬剤費問題の全ては解決しない。製薬企業は従来よりも高価な新薬を市場に投入しようとするし、院内調剤ではない医師には在庫の負担がなく、新規薬剤を処方しやすいという面もある。国には新薬の認可や薬価設定の権限があり、国内市場における製薬企業の利益調整を担っている。
薬局の責に帰すべきではない薬剤費の動向についてまで、薬局批判に利用するのは控えて頂きたい。議論の混乱や紛糾は一般にも珍しくはないが、医療についての議論では特定の利害関係者寄りの主張が特に多いと感じる。
特集での川渕氏の指摘については、データを正しく読もうとするより持論が先行している印象がある。彼は以前、日本医師会総合政策研究機構主席研究員を務めていたと聞く。その関係で医師会寄りの意見に固執しているとは思わないが、本当にそのような理解なのであれば、医薬分業政策に造詣のある研究者はもっと他にいたのではないか。表現は少々乱暴だが、元厚生省医薬分業担当の山本氏の説明する「5~10%増」の方がよほど視野は広い(もっとも、仮に医薬分業を完全撤廃するとしても、今度は院内調剤にかかるコスト増を考慮する必要がある。削減分は1.8兆円から大きく下回り、医療費全体からみれば数%程度だろう)。

医療は結局のところ、各々の医療者がその専門性をもって患者の治療や健康維持に貢献する「労働集約型産業」だ。日本では検査や薬といった「モノ」に対するウエイトが大きい反面、多くの医療者は多忙に喘ぎ、患者に対応する時間も限られている。医療者の待遇も他国に比べ恵まれているとはいえない。この点において、製薬企業や医療機器メーカーと医療者は対峙する形だが、それを認識していない医療者は多い。
医療の軸足を「モノ」から「患者と医療者」へと移すことは、医療者自身が主張する必要がある。


しかしながら、日本の医薬分業が上に挙げた二点のうち、前者のみを考慮したものであることは度々指摘される。後者、つまり「患者の薬物治療適正化のための薬剤師によるチェック機能」はどうなっているのだという批判だ。

この批判は的を得ている。伊藤氏が指摘するように、調剤薬局の経営は隣接する医療機関の処方せんのみに大きく依存している上、処方せんを発行するか否かは医師の自由だ。用法や用量、氏名や保険番号の記載誤り、患者からの症状の聞き漏れ、といった単純なミスを指摘することはできても、医師が行っている治療内容に対し批判的な見解を示す、他の治療薬の選択を薦める、患者に対し他医受診を促すといった本質的な介入を行うことは困難だ。
私の周囲でも、医師を批判したり意に沿わなかったという理由から、配置転換を余儀なくされたり、処方せん発行を中止され薬局を廃業した、あるいは経営を他人に移譲せざるを得なかった事例があった。全国的に見れば、かなりの数に上るだろう。医師の顔色を窺いながら業務を行う、事なかれ主義の薬剤師が少なくないといった批判の裏には、このような背景がある。
日本薬剤師会が反論で用いた疑義照会率は、伊藤氏が指摘する「所詮は表面的な照会に過ぎないのではないか」との疑問に答えていない。問題は、二度手間とそれだけのコストを掛ける必要性が医薬分業にあるのかどうかだ。

以前、離れた地域にある総合病院の処方せんを調剤した際、副作用回避の観点から修正すべき処方内容があった。病院に対し疑義照会を行ったものの、処方内容は変更せず、理由についても説明しないとの回答だった。
その後の患者との会話から、医師が認識していたのは、以前にスタンダードとされていた判断基準であると推察された。再度連絡したものの、病院側は「変更しない」の一点張りであった。患者にはそのリスクについて説明し、主治医とよく話し合うよう勧めた。
次の受診時、処方内容は変更されたものの、地域の薬剤師会を通じ、病院に来て謝罪するよう求められた。「院外薬局は病院の指示通りに薬を用意すればよいのであり、一度回答した内容について再度照会するなど、もってのほか。」との言い分であった。医薬分業の趣旨を説明しても一向に聞く耳を持たない。その病院の周囲には複数の調剤薬局が存在していたが、高圧的な病院に逆らうことが出来ず(もしくは、そもそも積極的に職責を果たそうとする気概もなく)、粛々と消極的な患者指導を行っていたのかもしれない。
「では県薬剤師会や地元新聞社にも声を掛け、皆で話し合ってはどうか?」と提案したところ、一方的に電話は切られ、連絡は途絶えた。
当該診療科における、その薬剤の処方頻度と副作用発生率の高さから考えれば、私が経験した以外にも同様の事例は多数あったのかもしれない。患者が安易に門前薬局を利用せず良心的なかかりつけの薬局を持ち、被害が未然に防がれていることを祈るばかりだ。

医薬分業を否定的に解釈して院内処方を行う医師が、誰の指摘を受けることもなく時代遅れの処方を続けている事例も散見する。「二度手間・割高」といったキーワードで医師と患者が共感していたとしても、問題のある治療でも構わないという覚悟まで患者にあるとは思えない。
程度は様々だが、同様のケースは決して珍しいものではない。医療裁判の多くは、原告本人若しくは家族が医療関係者であるとの指摘があるように、病状の悪化や死亡の原因が治療の瑕疵によるものかどうかの判断は、患者側には難しい。

医薬分業を実施しても、あるいはしなくても、結局のところ患者にとってこのような問題は回避することは不可能なのだろうか。
そうではない。本来は避けられる筈だった。

諸外国では、分業制度に関する規制として「法律による強制分業、病院と薬局との地理的・経営的な近接性の禁止、薬剤師以外による経営の禁止、経営する薬局数の制限」を重視している。独立性を担保し過度の商業化を避けることは、薬剤師の職能を発揮し患者のために行使させるためには重要な要素だ。
日本では、関係団体との利害調整の難しさから、そして医薬分業を医療ではなく商業として経済活性化の糧とするために、「敢えて」上記の規制を採用しなかった。多くの国において国民が当たり前に享受している薬剤師の機能が「日本においてのみ」発揮されないのは、単に制度設計の不備が現実化しているに過ぎない。日本独自のアレンジを加えた分業制度は、薬剤師に対し「患者最優先ではなく、医師の逆鱗に触れぬように行動せよ。経済的利益の最大化を目指せ。」というメッセージを送っている。

具体的に制度のどの部分に問題があるかは分からずとも、このような日本特有の医薬分業制度について多くの国民が疑問を持ち、批判するのは当然だ。

もし日本薬剤師会がこういった日本の医薬分業の問題点と危険性について素直に認めるとともに、それを国民に対して隠すことなく伝え、信頼に足る薬剤師がいる「かかりつけ薬局」を持つことがその回避策であることをはっきりと提示していたならば、国民は何十年もの間、医薬分業について疑問を抱え続けることはなかったのではないか。
また調剤報酬制度についても、月2回目以降来局者の負担額を軽減する等のインセンティブを設定し、マンツーマン型分業からの脱却を図っていたならば、多くの患者の受療行動は変容していた筈だ。
薬剤師会幹部の多くは中小チェーン調剤薬局の経営者だといわれている。もしそういった幹部たちの経済的利益を守ろうとするがゆえに、マンツーマン型薬局の経営維持に腐心していたのだとすれば、伊藤氏でなくとも日本薬剤師会を「利権団体」と批判するのは当然だ。


現在、日本医師会は、はっきりと医薬分業制度に疑問を呈している。無診察投薬を「お薬外来」として合法化するよう国に働きかけ、服薬管理は医師の業務であると主張し、門内薬局を推進すれば医療費が節約できると提言する。

医療費の逼迫に悩むのは諸外国も同様だが、対応策は違う。
厚労省が導入を検討しているリフィル処方せん(複数回使用できる)は既に多くの国で導入されているし、薬局での高血圧等の慢性疾患のフォローアップも広がりつつある。日本で昨年導入された微量採血検査も海外では実施済みだ。
もし日本の世論が「薬剤師は薬を渡すだけの役割であり、尊重すべき専門職ではない」という認識から脱却できるのであれば、薬局を活用することでコストを削減しつつ、医師の忙殺を防ぎ医療の質を保つことは出来る。患者の状態に合わせた療養指導等は医師にしか行えない。制度的には実施されていることになっているものの、現実的には一人の患者に十分な時間を割くことができず困難を抱えていることは、多くの医療者が同意するところだろう。こういった問題を放置するべきではない。


日本特有の分業制度の問題点とその責任についても検証しないまま、分業そのものについて医師会の求め通り否定しようとする現在の状況について、私は大いに疑問を持っている。
医師のみを重視する日本特有の医療文化の問題点は、ディオバン問題でも指摘されていたところではなかったか。東京女子医大でのプロポフォール事件においても、薬剤師は医師に対し、過量であることを指摘している。
各々の医療者が自律して職能を発揮すると共に、互いを尊重する制度設計は不可能ではない。

日本の医療職能団体が報酬を奪い合い、仕事を抱え込もうとする理由は報酬制度にあるとも指摘される。日本の制度は過度の経済的インセンティブによってがんじがらめになっており、医師から薬剤師への業務委譲は、医師報酬の減額に直結する恐れがある。
前述したように、各々の報酬項目は医療技術や設備を評価する一方で、報酬総額を調整する面がある。報酬総額の調整はあくまでその医療職能の報酬が高過ぎないか、あるいは低すぎないかで判断され、各項目に落とし込むべきであって、逆の手順が利用されるべきではない。
このような報酬制度の歪みと膠着が、論争に政治を持ち込み、プロパガンダとも指摘されるバッシング報道に繋がっている。英国において医師会が薬剤師の職能拡大を支持した上で、プライバシー保護の必要性と施設の整備を付言したことを考慮すれば、日本の状況は異常だ。


テレビ局、新聞等の大手メディアは、顕在化している問題点について、軽薄な薬局バッシングに矮小化せず、これからの医療の形を考慮した、社会の木鐸に相応しい本質的な議論を提起して欲しい。医師会側の要求、そして薬剤師会側からの要求を並列し、他の先進国の状況と比べることで、多くのものが見えてくるだろう。
経済成長の鈍化と超高齢化社会を迎える日本において、今後の医療制度設計は特に重要度が高い。旧態依然とした水面下での交渉や、政治力による方向付けは不適切だ。

薬局・薬剤師に関する制度設計は、専門的であるが故に、これまで国民の関心が低い中で進行してきた。その結果、市販薬・調剤・健康食品いずれの分野においても、先進国でトップクラスの経済活動優先・国民保護軽視の制度が導かれたことは、大きな問題だ。
こういった危険性について、メディアもほとんど注意喚起することはない。大手メディアには、広告収入の関係からか、新自由主義的な規制緩和については歓迎を評するものの、社会民主主義的な緩和について興味を示さない傾向が見て取れる。
特に医療においては、医療者が持つ専門性は患者に対して用いられるべきものであり、不都合な情報を隠して経済的利益に繋げるべきではない。この原則を軽視してはならない。

メディアの成熟と、多くの国民の監視の下で、適切な制度設計がなされることを願っている。