戦時下のドイツ大使館 - ある駐日外交官の証言
ヴィッケルト,エルヴィン【著】〈Wickert,Erwin〉/佐藤 真知子【訳】
中央公論新社(1998/01発売)
若きドイツ外交官の目をとおして第二次世界大戦当時の日本を政治・外交の面から見つめた貴重な証言。著者はのちにドイツ作家協会会長もつとめた名高い東洋通の歴史小説作家。
目次
第1章 再び日本にて
第2章 真珠湾以前の日本
第3章 悲劇の転回点
第4章 気の毒な「カミ」
第5章 炎上する船
第6章 解任された友
第7章 つらい敗北
第8章 やるかやられるか
第9章 緩慢な崩壊
第10章 戦争はまだ終わってない
第11章 河口湖の生活
第12章 恐怖の輝き
第13章 戦後
第14章 帰郷
Erwin Otto Humin Wickert (* 7. Januar 1915 in Bralitz; † 26. März 2008 in Remagen) war ein deutscher Diplomat und Schriftsteller.
Erwin Wickert
現在国立国会図書館東京本館が建っている土地は、戦前はドイツ大使館であった。
大使館内の力関係のぐちゃぐちゃも詳述。
吉野文六元ドイツ大使ご推薦
『帰れなかったドイツ兵―太平洋戦争を箱根で過ごした誇り高きドイツ海軍将兵』 (新井恵美子さん)
『横浜港ドイツ軍艦燃ゆ』(石川美邦さん 1995年)
なんと、このドイツ船爆発事件の当日、仮装巡洋艦(本書では補助巡洋艦と記載)の見学に同僚らとともに招待されていて、ランチを振舞われて記念写真を撮るなどしていたらドカンときた!
甲板から海に飛び込んで九死に一生を得た筆者。
これは詳しい!
スヴァラ歯科!
昭和20年5月25日の山の手空襲の際、渋谷の外国人向けコンパウンド内の自宅や近隣の同僚宅に落ちてきた焼夷弾の消火に努め、当初は何とか抑え込むことに成功するが、やがて町中が炎の地獄と化し、防空壕内で扉の冷却に努めて鎮火を待つなど。
南面堂が山の手空襲に関する記録でこれまで読んだ中で最も詳細。
その他登場人物:
著者と本音の情報交換をしていた日本外務省の若手外交官。
ラジオ室を発案し、組織化したのは、外務省情報部調査 3 課の樺山資英(1907 − 1947)外務事務官であった
戦前、ラヂオプレスの前身となる外務省情報部ラヂオ室を創設したのは、情報部調査三課事務官樺山資英である。このひとは、欧州帰りのアマチュア無線愛好家で、VOA(Voice of America)などの諸外国の中短波放送を傍受するラヂオ室が外務省内に誕 生したのはひとえに彼の先見の明によるといってよい。先見の明と言うのは、戦争末期に連合国のポツダム宣言受諾の呼びかけのラジオ放送をモニターすることになるのもラヂオ室であるからだ。
戦後、占領軍は外務省の耳ともいえるラヂオ室を取り潰そうとしたが、これに抵抗し、存続させたのも樺山だった。彼はラヂオ室を外務省の外に出し、海外放送受信専門の民間通信社としてかろうじて生き残らせたのである。かくして、46年1月にラヂ オプレスは事業を開始した。
オイゲン・オット(Eugen Ott, 1889年4月8日‐1977年1月23日)はドイツの軍人、外交官。
DR. SORGE Рихард Зорге
Eugen Ott
シュターマー
中村綾乃『東京のハーケンクロイツ──東アジアに生きたドイツ人の軌跡』
マイジンガー、ワルシャワの殺戮者
エーリッヒコルト
へええ!
ヴィッケルト,エルヴィン【著】〈Wickert,Erwin〉/佐藤 真知子【訳】
中央公論新社(1998/01発売)
若きドイツ外交官の目をとおして第二次世界大戦当時の日本を政治・外交の面から見つめた貴重な証言。著者はのちにドイツ作家協会会長もつとめた名高い東洋通の歴史小説作家。
目次
第1章 再び日本にて
第2章 真珠湾以前の日本
第3章 悲劇の転回点
第4章 気の毒な「カミ」
第5章 炎上する船
第6章 解任された友
第7章 つらい敗北
第8章 やるかやられるか
第9章 緩慢な崩壊
第10章 戦争はまだ終わってない
第11章 河口湖の生活
第12章 恐怖の輝き
第13章 戦後
第14章 帰郷
Erwin Otto Humin Wickert (* 7. Januar 1915 in Bralitz; † 26. März 2008 in Remagen) war ein deutscher Diplomat und Schriftsteller.
Erwin Wickert
現在国立国会図書館東京本館が建っている土地は、戦前はドイツ大使館であった。
大使館内の力関係のぐちゃぐちゃも詳述。
吉野文六元ドイツ大使ご推薦
『帰れなかったドイツ兵―太平洋戦争を箱根で過ごした誇り高きドイツ海軍将兵』 (新井恵美子さん)
『横浜港ドイツ軍艦燃ゆ』(石川美邦さん 1995年)
なんと、このドイツ船爆発事件の当日、仮装巡洋艦(本書では補助巡洋艦と記載)の見学に同僚らとともに招待されていて、ランチを振舞われて記念写真を撮るなどしていたらドカンときた!
甲板から海に飛び込んで九死に一生を得た筆者。
これは詳しい!
スヴァラ歯科!
昭和20年5月25日の山の手空襲の際、渋谷の外国人向けコンパウンド内の自宅や近隣の同僚宅に落ちてきた焼夷弾の消火に努め、当初は何とか抑え込むことに成功するが、やがて町中が炎の地獄と化し、防空壕内で扉の冷却に努めて鎮火を待つなど。
南面堂が山の手空襲に関する記録でこれまで読んだ中で最も詳細。
その他登場人物:
著者と本音の情報交換をしていた日本外務省の若手外交官。
ラジオ室を発案し、組織化したのは、外務省情報部調査 3 課の樺山資英(1907 − 1947)外務事務官であった
戦前、ラヂオプレスの前身となる外務省情報部ラヂオ室を創設したのは、情報部調査三課事務官樺山資英である。このひとは、欧州帰りのアマチュア無線愛好家で、VOA(Voice of America)などの諸外国の中短波放送を傍受するラヂオ室が外務省内に誕 生したのはひとえに彼の先見の明によるといってよい。先見の明と言うのは、戦争末期に連合国のポツダム宣言受諾の呼びかけのラジオ放送をモニターすることになるのもラヂオ室であるからだ。
戦後、占領軍は外務省の耳ともいえるラヂオ室を取り潰そうとしたが、これに抵抗し、存続させたのも樺山だった。彼はラヂオ室を外務省の外に出し、海外放送受信専門の民間通信社としてかろうじて生き残らせたのである。かくして、46年1月にラヂ オプレスは事業を開始した。
オイゲン・オット(Eugen Ott, 1889年4月8日‐1977年1月23日)はドイツの軍人、外交官。
DR. SORGE Рихард Зорге
Eugen Ott
シュターマー
中村綾乃『東京のハーケンクロイツ──東アジアに生きたドイツ人の軌跡』
マイジンガー、ワルシャワの殺戮者
エーリッヒコルト
へええ!