思い出のネイビーブルー - 私の海軍生活記
読んだのは図書館の文庫版(1994/02)
海兵68期、全卒業生288名、戦死者数202名。
(序は例によって阿川弘之さんw)
第1部 兵学校生活
第2部 海軍生活
第3部 戦争参加
謎の短歌会・軽巡 ”かとり派” の歴史 (月刊惟宗ユキ10月)|彰往テレスコープ
「天(あま)かける飛行機」「音のする大砲」「水くぐる魚雷」「火花散る電信」wwwwww
この本の注釈にビックリするような情報が小さい字で書かれていた。この短歌に詳しい謎の軍人・横尾大尉は、なんと尾崎紅葉の孫だったのだそうである。マジかよ。
もうこれは素人ではない手練れの書き手。
財団法人水交会(旧海軍の士官クラブ水交社の後継組織)の月刊誌「水交」寄稿の書籍化だそう。
全卒業生288名、戦死者数202名の生き残りということで、強運の持ち主。
卒業席次が107/288ということなので、中の上というところかね。
41.4/1少尉>香取>陸奥>榛名>古鷹>那珂乗員
42.3/16中尉
43.11/1大尉44.4/1名取通信長8/18名取沈没/31カッターを指揮してミンダナオ島に到達>舞鶴鎮守府付9/20葛城艤装員10/15通信長45.5/20内海航空隊(>岩国基地)通信長
乗艦が3回撃沈された経験を持つ~3回目が軽巡名取で経験したカッター漕走譚。
第15話 太平洋戦争 後半 - 海軍大尉 松永市郎から若い人へ。(胡志明(ホーチミン)) - カクヨム
私は、この戦争中3度、乗っていた艦を沈められた経験があります。
1回目は昭和17年(1942年)10月11日、古鷹という巡洋艦に乗っていたときガダルカナル島沖の海戦で撃沈されました。
2回目は昭和19年(1944年)2月17日、私が次に乗艦していた那珂という巡洋艦が、トラック島に停泊している時に、敵の飛行機によって爆弾を投下されて撃沈されました。
3回目が名取という巡洋艦で、フィリピンの首都マニラから南洋諸島のパラオに輸送任務についている途中をアメリカの潜水艦によって魚雷攻撃を受けて沈没したのです。
ほかにも危ういところで死地に赴くところを免れている。
「那珂」通信長に転勤したら、マキン守備隊の増援として特別陸戦隊を指揮する任務を予告されたが、直前に中止。
葛城 (空母)~戦艦大和の沖縄突入作戦では「葛城」が囮艦として随伴することも検討されていたが、実施されなかった[本書の記述がwikipediaの根拠]。
などは死神の腕がスーッと伸びてきたが、肩をたたかれる直前に引っ込んだ感じか。
まあ終戦まで生き残った人々は、多かれ少なかれこのような寸止めというか、紙一重でかすめた経験があるようだ。
戦記ではなくて、兵学校(海軍の兵科将校の養成学校)生徒から、少尉候補生を経て、任官後の生活記といえよう。
(なので、サブタイトルが生活記ね。)
自慢話に類するものがないわけではないが、戦闘での手柄を誇るものではなくて、甲板士官(町内会長と公民館長を兼ねたような副長の補佐なので、町内会事務局の事務長だと説明)として、人間の本質を見て難題を巧みに捌いた系のありがたいお話だが。
ありがたや。
著者とウマが合ったという機関学校出身の栗田春生=戦後に設立した栗田工業のカリスマ創業者(独創的な発想で知られた)は、戦時中に著者から名取短艇隊の話を聞いて、たいへん参考になったと感謝した由。
ありがたや。
メコンプラザ | 栗田工業創設者殺人事件 ←これは知らんかったわ!
著者の父は有名な将官。
WW1時は地中海に船団護衛に派遣されている。
著者は父親の欧州派遣中の1919年の生まれ。
もしかすると、マルタに遺伝子を継いだ方がおられたりするかも?
著者の異母弟とか、異母妹とか、今はその次や次の次の代。キャハ
日本海軍地中海遠征記 若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦 片岡覚太郎 著 - 真似屋南面堂はね~述而不作
蒙古斑!
松永(納富)貞市Matsunaga Sadaichi(兵41、8/118佐賀).中将.
人名事典まつな〜.The Naval Data Base.
18.5/1第2特務艦隊司令部付10/1桂乗員
第二特務艦隊 - Wikipedia
戦前に旧海軍の社交倶楽部であった水交社とその建物(国内のもの)について調べている。国立国会図書館の蔵... | レファレンス協同データベース
水交社は各地に自前の施設を持っていたが、本拠地レベルの軍港ではないが寄港はしばしば(航空基地があるなども)という港町では、旅館と契約して水交社扱いで使った事例もあったと本書で知る。
松山がその旅館契約パターンで、著者は内海航空隊勤務(松山基地で通信長)の当時、人手不足で旅館経営者夫妻(旦那出征中)の赤ん坊が放っておかれているのを見かねて、しばしば子守を買って出たという。
戦後の昭和42年、娘3人を連れての四国旅行の際、当該旅館に泊まったところ、おかみさんは物故していたため、応対した女中頭に往時の思い出を語った。
昔の赤ん坊が娘さんとなっていて(何度も子守をしたのにその赤ん坊が男女どちらだったのかを認識していなかったという甚だ奇妙な発言でびっくりさせてくれちゃうけど)、会話を交わす。
時間がなくて十分に交流できなかった心残りが語られるが、関連した「末娘」の無邪気な指摘が紹介される。←この三女が松永真理女史だわね(当時13歳の計算)!
[時代の証言者]iモード編集者 松永真理<13>発想の「転換力」 祖父譲り
話題によっては、AとかBとかの匿名表記もあるが、多くの話題は兵学校同期やコレス(海軍系他校の同期生のことだそう)、上官や部下らがフルネームで紹介される。
また、それぞれの対象者の海軍当時の写真も掲載。
戦後の交流が紹介されるケースもあるものの、多くが「〇〇で戦死」というパターンなのだった。
ちょっとこう、アメリカン・グラフィティ(1973)のエンディングを思い出したりして。
アメリカン・グラフィティ(1973) オープニング&エンディング
酒酔い運転車事故で死亡、ベトナムで戦闘中行方不明、保険代理業、カナダで作家。(これはまあ作り話なわけだが)
「保険外交員」よりも「保険代理業」(または保険代理店)とかの方がかっこいいと思うけどな。
読んだのは図書館の文庫版(1994/02)
海兵68期、全卒業生288名、戦死者数202名。
(序は例によって阿川弘之さんw)
第1部 兵学校生活
第2部 海軍生活
第3部 戦争参加
謎の短歌会・軽巡 ”かとり派” の歴史 (月刊惟宗ユキ10月)|彰往テレスコープ
「天(あま)かける飛行機」「音のする大砲」「水くぐる魚雷」「火花散る電信」wwwwww
この本の注釈にビックリするような情報が小さい字で書かれていた。この短歌に詳しい謎の軍人・横尾大尉は、なんと尾崎紅葉の孫だったのだそうである。マジかよ。
もうこれは素人ではない手練れの書き手。
財団法人水交会(旧海軍の士官クラブ水交社の後継組織)の月刊誌「水交」寄稿の書籍化だそう。
全卒業生288名、戦死者数202名の生き残りということで、強運の持ち主。
卒業席次が107/288ということなので、中の上というところかね。
41.4/1少尉>香取>陸奥>榛名>古鷹>那珂乗員
42.3/16中尉
43.11/1大尉44.4/1名取通信長8/18名取沈没/31カッターを指揮してミンダナオ島に到達>舞鶴鎮守府付9/20葛城艤装員10/15通信長45.5/20内海航空隊(>岩国基地)通信長
乗艦が3回撃沈された経験を持つ~3回目が軽巡名取で経験したカッター漕走譚。
第15話 太平洋戦争 後半 - 海軍大尉 松永市郎から若い人へ。(胡志明(ホーチミン)) - カクヨム
私は、この戦争中3度、乗っていた艦を沈められた経験があります。
1回目は昭和17年(1942年)10月11日、古鷹という巡洋艦に乗っていたときガダルカナル島沖の海戦で撃沈されました。
2回目は昭和19年(1944年)2月17日、私が次に乗艦していた那珂という巡洋艦が、トラック島に停泊している時に、敵の飛行機によって爆弾を投下されて撃沈されました。
3回目が名取という巡洋艦で、フィリピンの首都マニラから南洋諸島のパラオに輸送任務についている途中をアメリカの潜水艦によって魚雷攻撃を受けて沈没したのです。
ほかにも危ういところで死地に赴くところを免れている。
「那珂」通信長に転勤したら、マキン守備隊の増援として特別陸戦隊を指揮する任務を予告されたが、直前に中止。
葛城 (空母)~戦艦大和の沖縄突入作戦では「葛城」が囮艦として随伴することも検討されていたが、実施されなかった[本書の記述がwikipediaの根拠]。
などは死神の腕がスーッと伸びてきたが、肩をたたかれる直前に引っ込んだ感じか。
まあ終戦まで生き残った人々は、多かれ少なかれこのような寸止めというか、紙一重でかすめた経験があるようだ。
戦記ではなくて、兵学校(海軍の兵科将校の養成学校)生徒から、少尉候補生を経て、任官後の生活記といえよう。
(なので、サブタイトルが生活記ね。)
自慢話に類するものがないわけではないが、戦闘での手柄を誇るものではなくて、甲板士官(町内会長と公民館長を兼ねたような副長の補佐なので、町内会事務局の事務長だと説明)として、人間の本質を見て難題を巧みに捌いた系のありがたいお話だが。
ありがたや。
著者とウマが合ったという機関学校出身の栗田春生=戦後に設立した栗田工業のカリスマ創業者(独創的な発想で知られた)は、戦時中に著者から名取短艇隊の話を聞いて、たいへん参考になったと感謝した由。
ありがたや。
メコンプラザ | 栗田工業創設者殺人事件 ←これは知らんかったわ!
著者の父は有名な将官。
WW1時は地中海に船団護衛に派遣されている。
著者は父親の欧州派遣中の1919年の生まれ。
もしかすると、マルタに遺伝子を継いだ方がおられたりするかも?
著者の異母弟とか、異母妹とか、今はその次や次の次の代。キャハ
日本海軍地中海遠征記 若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦 片岡覚太郎 著 - 真似屋南面堂はね~述而不作
蒙古斑!
松永(納富)貞市Matsunaga Sadaichi(兵41、8/118佐賀).中将.
人名事典まつな〜.The Naval Data Base.
18.5/1第2特務艦隊司令部付10/1桂乗員
第二特務艦隊 - Wikipedia
戦前に旧海軍の社交倶楽部であった水交社とその建物(国内のもの)について調べている。国立国会図書館の蔵... | レファレンス協同データベース
水交社は各地に自前の施設を持っていたが、本拠地レベルの軍港ではないが寄港はしばしば(航空基地があるなども)という港町では、旅館と契約して水交社扱いで使った事例もあったと本書で知る。
松山がその旅館契約パターンで、著者は内海航空隊勤務(松山基地で通信長)の当時、人手不足で旅館経営者夫妻(旦那出征中)の赤ん坊が放っておかれているのを見かねて、しばしば子守を買って出たという。
戦後の昭和42年、娘3人を連れての四国旅行の際、当該旅館に泊まったところ、おかみさんは物故していたため、応対した女中頭に往時の思い出を語った。
昔の赤ん坊が娘さんとなっていて(何度も子守をしたのにその赤ん坊が男女どちらだったのかを認識していなかったという甚だ奇妙な発言でびっくりさせてくれちゃうけど)、会話を交わす。
時間がなくて十分に交流できなかった心残りが語られるが、関連した「末娘」の無邪気な指摘が紹介される。←この三女が松永真理女史だわね(当時13歳の計算)!
[時代の証言者]iモード編集者 松永真理<13>発想の「転換力」 祖父譲り
話題によっては、AとかBとかの匿名表記もあるが、多くの話題は兵学校同期やコレス(海軍系他校の同期生のことだそう)、上官や部下らがフルネームで紹介される。
また、それぞれの対象者の海軍当時の写真も掲載。
戦後の交流が紹介されるケースもあるものの、多くが「〇〇で戦死」というパターンなのだった。
ちょっとこう、アメリカン・グラフィティ(1973)のエンディングを思い出したりして。
アメリカン・グラフィティ(1973) オープニング&エンディング
酒酔い運転車事故で死亡、ベトナムで戦闘中行方不明、保険代理業、カナダで作家。(これはまあ作り話なわけだが)
「保険外交員」よりも「保険代理業」(または保険代理店)とかの方がかっこいいと思うけどな。