(私たち人間の生活は、彼らの犠牲の上に成り立っている。大量生産、大量消費で効率的な社会をつくることが善とされてきたが、果たしてそれは正しかったのか?)
鶏は機械ではないが、機械と同じ扱いを受けている。生きものをそんなふうに扱って、まともなはずがない。
それに気づかないのは、消費者が現場を見ないからであろう。
現場を見ている人は、商売だから競争上やむをえないとか、経済効率だとか思っているに違いない。
経済効率を優先したときの鶏の姿がああだということは、同じく経済効率を優先した社会の人間の姿がああだということである。
なぜそれに気づかないか、そのほうが不思議だというしかない。
--養老孟司談 新潮社季刊誌「考える人」2004年春号より
http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/high/high25.html
鶏は機械ではないが、機械と同じ扱いを受けている。生きものをそんなふうに扱って、まともなはずがない。
それに気づかないのは、消費者が現場を見ないからであろう。
現場を見ている人は、商売だから競争上やむをえないとか、経済効率だとか思っているに違いない。
経済効率を優先したときの鶏の姿がああだということは、同じく経済効率を優先した社会の人間の姿がああだということである。
なぜそれに気づかないか、そのほうが不思議だというしかない。
--養老孟司談 新潮社季刊誌「考える人」2004年春号より
http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/high/high25.html
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