登場人物が子役から大人(北村匠さん、今田美桜ちゃん)に代わったのが、
第2週の最終日(金曜)の最後でした。
子役の時代から「8年」の月日が経ったことになっており、
田舎道を登校する嵩と千尋の背後から忍び寄り、すれ違い様に「変顔」の今田美桜ちゃんの登場が鮮烈でした。
この時のナレーションによると、
この時昭和9(1934)年、
のぶは「高等女学校の4年生」。
(ということは、言われてないけど同い年の嵩は「旧制中学」の4年生。史実では、やなせさんがこの年に通っていたのは、「高知県立城東中学校⇨現・高知県立高知追手前高校」)
ということは、
これもドラマではあまり描かれてないけれど、
この田舎道の時点でのぶも嵩も、そして弟の千尋(旧制中学1年の設定か)も、
既に全員高知市内まで「汽車通学」していたということになるのではないでしょうか?
(※高等女学校も、旧制中学も、ごめん町にはなく、たぶん…(^◇^;)高知市内。)
(史実と照らしてばかりだとまたも野暮ですが、個人的に興味があるので分かる限りで記録しています。ドラマのストーリーとの違いに混乱または幻滅?しそうな方はスルーをお願いします(^◇^;) ドラマと区別するために、実際の状況を青字で書きます。)
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大正期から戦中にかけて、
日本の学制はとても複雑だったようです。
加えて、
これもハッキリ書くと知らない皆さんを幻滅させてしまうけれど、
やなせさんと奥さんの暢さんは、やなせさんが復員後27歳の頃に勤めた「高知新聞社」で出会っているのであり、「幼なじみ」という設定はそもそもフィクション。
(あ、でもここの部分は、今田美桜ちゃんに免じて⁉︎ご一緒に大いに夢を見ましょうね\(^o^)/)
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その、ドラマのフィクション部分と現実、それに実在/劇中の校名(しかも、学制と学校名が次々変わった時代)などは入り組み過ぎています。
そもそもドラマに出て来る学校が、
「全くのフィクション」なのか、「実際あった学校をモデルにしているのか」。
これについては、現実にやなせさんは県内で学校に行っているわけなので、
だいたいモデルがあるようです。
やなせさんの通った学校は、
「高知市立第三小学校」(現・高知市立はりまやばし小学校。でもこれはドラマのストーリー上出てこない。)
↓
「後免野田組合尋常小学校」(現・南国市立後免野田小学校)
↓
「高知県立城東中学校」(現・高知県立高知追手前高等学校)
また、当時その地を知る者でないと、
当時のそこの土地の人たちが、
例えば小学校を出たあとはどこのどんな学校に行く選択肢があったのか?
(距離的に可能だったのか、も含む。)
そしてその学校は今のどこに存在していたのか、
など、私自身実際見聞きした材料が少な過ぎて、
実は考えようとしただけで大混乱を来していたここ数日ですf^_^;
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調べた限りでは、
やなせさん大正8(1919)年2月の早生まれ。
なので学年は大正7年生まれの人と同じはずで、
一方の暢さんは、大正7(1918)年の大阪生まれです。
そこから、「嵩とのぶは同級生」は正しい。
暢さんと高知とのつながりは、
高知の安芸(あき)市出身だったお父さん(ドラマでは加瀬亮さん)が鈴木商店という商社の高知支店に勤めていたこと、
女学校卒業後に東京で出会った最初の結婚相手が高知出身の小松姓の人で、終戦を高知市内で迎えたこと。
そして、出身校は、大阪の阿倍野高等女学校(現・大阪府立阿倍野高等学校)だというのが、最近(この『あんぱん』を機に?)わかったようです。
(参照→
Wikipediaおよび下は高知県発行のリーフレット、阿倍野高校の同窓会誌からお借りしましたm(_ _)m)
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学制の話に戻ると、
大まかには、
初等教育では今の学校制度と同じく、
・6〜12才まで小学校(嵩の時代は「尋常小学校」で、まだうちの明治生まれの祖母などの時と同じ呼称。後にこれは「国民学校」と名前を変えます)。
・その後13才〜は、
男子は「旧制中学(4年制または5年制)」、
女子は「高等女学校(これまた4年または5年の幅が?)」に(行く人は)行く。
しかし、この「または」というのが曲者で(と、私が思っているだけかもしれませんが)、
4年だけ行って上の学校(これまたいろんな種類に分かれる)を受験する人もあれば、
5年間行ってから受験する人もある。
ドラマでは、
のぶと嵩は、5年生の終わりの冬(昭和11=1936年)に、
「高知縣立高智高等師範学校」(瀧内公美さんが恐い先生のとこf^_^; 高知が敢えて「高智」の字になっているのが、史実だったような気もするし、フィクションであることを表しているのか。これについては個人的にはまだ調査中f^_^;)と、
「高知第一高等学校(ドラマでは「高知高校」とも呼んでいる?)をそれぞれ受験し、
のぶは受かって、嵩は不合格。
しかし実際には、やなせさんは、
旧制中学の「4年生の時に高知高校を受験したが、予想通り不合格だった」と書かれています。(『アンパンマンの遺書』)
そして、翌年(旧制中学の最終学年の5年次)に受けたのは、「美術学校師範科」と「京都高等工芸図案科」であったらしいので(結果は不合格)、
のぶと嵩が、2人とも5年次、同時にそれぞれの学校を受けた、
というドラマのストーリーは、
部分的にフィクションであるようです。
旧制中学の4年次で上の学校を受験することが可能らしいというのは、
優秀な弟の千尋が「4年で高知高校を受ける」
という、柳井医院の伯母さん(戸田菜穂さん)のセリフでも出て来ました。
(この「高知高校」というのが、現在高知市内に実在する、甲子園でも馴染みの「(私立の)高知高校=高知学園」とは別物らしいのが、却って私たち地元民には混乱の元?(⌒-⌒; ))
以下ご参考まで↓
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たぶんそもそも、
当時はそんな上の学校に行くのがまだそれほど一般的ではなく、
いろいろな実業学校や、(なんちゃらの)「予科」とか「(師範学校の)予備科」など、
ちょっと私の個人的知識を超える複雑な道がいろいろあったにはあったようです。
個人的で恐縮ですが、
一般論ではわかりにくかったので、
自分の身近な例で考えてみました(^◇^;)
ちょっと時代は先、
学校制度は途中(昭和22年)で大きく変わるのですが、
たとえば昭和2年早生まれ(やなせさんの8学年下)の亡父は、
「国民学校」→「実業学校」林業科(現・県立農業高校)の後、
やなせさんと同じ中国上海で終戦を迎え、
これまたやなせさんと同じ昭和21年に復員しています。
(まさか同じ便とかではないと思うけどf^_^;)
(船から見た広島が焦土だった、と父が言っていたのと同じことをやなせさんが書かれていました。)
戦後もう上の学校に行き直せるような世相ではなかったので、父はそのまま公務員に。
一方母の方は、
空襲などのひどかった高知市を避けて、
昭和20年の春に、県西部の「高等女学校」に入学しました。
高知市にそのままいたとしたら、
母が行ったかもしれないのは、ドラマでのぶが行ったことになっている(と思う)高知の高等女学校なのでしょうが、
私がそれを言うと母は、
「高知(市内)と幡多ではレベルが違う」
と、一応謙遜しています(^◇^;)
(まあ、中央と地方の違い、県都と郡部との違い、今でも、何でも当然ありますねf^_^;)
「駐在さん」だった父親の相次ぐ転勤で四国山地の田舎を転々とし、
小学校(母たちの時代は「国民学校」)だけで6回も転校している母の家族f^_^;
母たちは田舎の学校の優等生だったようですが、
母と一つ違いの伯母は、12歳の時に受けた「第一高女(高知高等女学校)」(当時、高知県内で女子が行く最難関の女子高等学校。たぶん、ドラマでのぶが通っていたのはこれ?)には不合格になり、
1年浪人するつもりで「高等小学校」というところに籍を置いていたようです。
しかしその間に怪我をして、脚の大手術となり、生涯脚が不自由なままだったのは、
前からブログを読んで下さっている方にはちょっとピンと来るかも。
(すみません、前年までの日記は今のところだいたい非公開にしています。)
母が高等女学校の2年の時(昭和22=1947年)に学制が変わり、
母は3年次で「新制中学」の3年生扱い、
その後、同じ場所で同じ学校が、
男女共学の県立の「高等学校」になりました。
昭和22年に発布された新学制では、
学校の仕組みはほぼ今と同じにシンプルになっていますが、
数年間(昭和25=1950年まで)は「移行措置」の期間があったようで、
「高等女学校」に6年間在籍の人、
途中から「編入」で入って来た人など、
母の時代には中等&高等学校に在籍した年数が、人によって「とてもまちまち」なのだそうです。
というわけで母の場合は、
戦後の学校制度の変わり目の前後、
「高等女学校」(現代の中学校)1年から、「高等学校」3年まで、
時代に翻弄されながらフルに6年間在籍したクチ、
ということになります。
そのような話を、以前から母に聞いてはいましたが、
あまりに複雑すぎるのもあって今ひとつピンと来ていなかった私です。
(いや、数字の計算は苦手なので、いまだに勘違いしている部分があるかも、というのは不安ですがf^_^;)
今回『あんぱん』で、
まさに今進行中の、登場人物の進路選択。
(そして時代が戦争に向かいそうなのは辛いけど。)
引き続き注目して観たいと思います^_^