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スチャラカランナーの日々

運動部経験なし、40代マラソンランナーの趣味日記。ランニングも趣味のひとつですから。

「ラブリーロード」夜久 弘/著

2006年03月25日 | 
 「ラブリーロード」夜久 弘/著読みました。京都シティハーフマラソンの受付会場でサイン会を行っていたので、そこで買いました。「心優しきジョガーたち」の改題復刻と言うことのようです。(若干足した部分があるようです)

 著者の夜久さんは1945年の生まれだそうですから、現在61歳と言うことになるのでしょうか?
 あとがきを読む限りではどうも昨年6月のサロマでサロマンブルーを達成したようです。どうもおめでとうございます。

 本書はもしかしてそのお祝いの復刻だったりして・・・。

 この作品は著者が走り始めた頃からのことを書いています。その当時走っていたコースは私が以前東京にいた時に走っていたコースの皇居で、スタート地点も同じだったようです。

 走り始めてからのいろいろな体験や素直な気持ちが書かれていて、共感することも少なくないが、走り始めたきっかけは良く分からない。それは著者にも分からないのかもしれない。

 著者はこの本の中で走るノルマと言うことを語っていて、つまり人が走るのはその人が運命的に走る距離のノルマが決められていて、つまりはそのノルマに従って走っているのではないかと言う。
 その人は結局走る運命にあったと言うことですね。

 私の場合もたまたま転勤して、その職場で誘われた「かすみがうらマラソン」に話のネタにでもと思って走ったのがきっかけで、何となく参加した「ニューヨークシティマラソン」のツアーに参加した時の出会いから、今に至っている。
 私の誘った職場の同僚たちはほとんど走っていないから、運命と言えば運命としか言いようがない。

 いろいろな出会いが本書では語られるます。特別ノウハウが身に付くわけではありませんが、たまにはこういう本もいいですよ。

 トップの写真にある小さな色紙(名前を書いてくれました)と一緒にサイン即売会をしていました。

 それにしても「富士登山」の頂上までの参加資格は年齢制限45歳があったとは。余り時間がないではないか。

『「感動」禁止!』八柏 龍紀/著

2006年03月24日 | 
 『「感動」禁止!「涙」を消費する人びと』八柏 龍紀/著読みました。

 帯には「感動をありがとう!」って気持ち悪い!! とある。この所いろいろなスポーツの中継があるたびに発せられ「感動をありがとう」というコメント、特に観客の人たちやたとえばスポーツバーなどで見ている一般の立場の人のコメントには違和感がある。

 結果として我々が感動することは当然あると思うが、スポーツなどを見て感動をありがとうと言うのは少し違うのではないか。別にあなたを感動させようとしてプレーしたのではない、そんなものではないか。

 プロの場合はもちろんそれが感動であれなんであれ、何らかの形である種のカタルシスを与えることで、結果として観客の動員などに繋げることでビジネスになっているわけだから、広く考えれば感動を与えようとしているとしていると言えなくはないが、通常考えれば勝利やパフォーマンスの発揮を目指す過程で結果的に感動させると言うものでしょう。

 そういう点からするとどうしても違和感を感じてしまう。

 ところで、昔は「感動をありがとう」という台詞はあまり聞いたことがないフレーズだったような気がします。

 ではこの本がそういう現象の考察かと言うとそうでもなくて、感動と言うものがどう変質してきたかというような本でした。
 私が勝手に思ったものなので著者には何の責任もないといえばないのだが、「感動」というものとこの中身のとは余りマッチしていないような感じです。

 勝手にタイトルから中身を想像してしまったこととは別として、余り参考になることはない本でした。

 薦めはしませんが、気がむいたらどうぞ。

 

「封印作品の謎2」安藤 健二/著

2006年03月24日 | 
 「封印作品の謎2」安藤 健二/著読みました。

 で扱われた作品はほとんどが差別問題と表現の微妙な兼ね合いに基づくものだった。

 今回取り上げられているのは、「キャンディ・キャンディ」「ジャングル黒べえ」「サンダーマスク」「オバケのQ太郎」の4作。

 「オバケのQ太郎」が封印作品になっているとはかなり意外でした。「キャンディ・キャンディ」の原作者と漫画家の対立はそういえば何かあったということをこの作品を読んで思い出しました。

 上記の2作に比べると「ジャングル黒べえ」「サンダーマスク」の2作はこの本で取り上げられなければ、封印作品というより単に営業上の問題、というか人気がない作品程度の認識でしかなかったと思います。

 今回の2では主に権利関係がその封印の原因になったと推測されているもので構成されている。

 差別表現ばかりに意識が行っていたが、コミックやアニメが単に印税レベルではなく、キャラクターやビデオなどこれほどのビジネスになれば、その周辺にはいろいろな事情が絡み、単に好きだけでやっているものではなくなってくる。
 友情とお金の問題などなかなか哀しいものがあります。
 
 安彦良和さんと富野由悠季さんが虫プロ出身だとは、この本で知りました。単にすっかり忘れていただけかもしれないのだけれど。

「高学歴ノーリターン」中野 雅至/著

2006年03月21日 | 
 「高学歴ノーリターン」中野 雅至/著読みました。著者は同志社大学卒業後、地方公務員を務め、国家公務員試験を受けて官僚(厚労省)になり、現在は兵庫県立大学で助教授を務めているそうです。1964年生まれということですので私とほぼ同じ世代ということになります。

 まずこの本で語られる高学歴というのは基本的には高学校歴と言い換えた方がより的確にその意味合いが伝わるのではないかと思います。東大に象徴される難関大学を卒業したこと、入学までに払った勉強に対する努力やコストに対して現在の社会の体制は見合った待遇を与えられていない、というのが考えのベースにある。勉強に対する努力に見合った結果(主に報酬)が伴わなければ努力をする人がいなくなるというのがその主張で、その対策なども提案している。

 また一方でスポーツ選手は報われすぎと主張もある。あくまで相対的にということでしょうが。

 考えからのスタンスとして共通していると思われるのは、努力が報われるべきだということ。
 ただ、現在の状況に対する捉え方などはまったく違う。また、見合っているのかどうかということに対する認識はずいぶん違う。

 この方が地方公務員、官僚というのが経験のベースなので、そこでの経験や見てきた待遇がそのベースになることは当然です。

 東大と中心としたキャリア官僚の勤務実態や待遇が、その努力に見合ったものかどうかということに大いに疑問を持っているようです。

 実際高校時代の友人からは若手官僚の恐ろしく長い勤務などの話は聞いたことがある。この本でも実際その勤務の長い点や仕事の中身の馬鹿馬鹿しさ(コピー取りなどの凡そその優秀さが必要とは思われない仕事の中身)も語られているが、私も確かにその点では疑問があるがそれは2つの点で、つまりその馬鹿馬鹿しい業務を相対的には待遇が悪いとしても将来的なものも含めれば高コストの人を使っていることで、その分をもっとコストのかからない人を使い、もっと官僚といわれるような人を減らした方がいい。
 地方の役所などの窓口業務など、かなりマニュアル化が進められるような単純作業に今のような公務員が必要なのか。もっとコストの安い(生涯コスト)人を多く雇って雇用対策の一環にして、ジョブローテーションで土日も開けてください。

 著者はこの本の中でいわゆる学歴とビジネスの成功との相関関係は非常に薄いと語っている。
 優秀といわれるようなものでいうと知識的な面と、知能的な面がある.学歴という面で言えば、そこで測ることのできる能力は知識的な面が大半である。

 この本では中盤からやたらと100円ショップの茶髪のオーナーという存在がたとえとして語られる。ちゃらちゃらした運だけで成功し、必死に勉強した者が豊かとはいえないサラリーマンに過ぎないと比較するが、どうだろうか?

 もちろんこの100円ショップのオーナーが単に親の会社を引き継いだような形というのならば話は別になるが、通常そのビジネスが軌道に乗るにはある程度の時間がかかる。また、よく語られることに企業寿命は25年程度といわれる。
 長期に繁栄している企業はその業態や中身は当初のものではなくなっているということにもなるでしょう。
 ビジネスがある程度成功するまでにはある程度の期間がかかるから、仮にうまくいってもその果実を得る期間はそれほど長くない。また、もし起業するということであれば個人保証などを金融機関は要求するから背負うリスクはかなり大きい。

 もちろん持つものと持たざるものとの不平等という意味ではその通りだが、起業して成功するという意味ではそれこそ戦後であろうがその状況は実は変わりないのではないか。

 スポーツの部分で語られる視点はまったく的外れであると思います。著者は甲子園出場者と東大入学者で比較をしているが、東大に入学している人数は甲子園出場者と比較にならないほど多い。そもそも東大入学レベルと甲子園出場校の4番を比較することは私に言わせれば、はっきり言って失礼。せめて理3と比較して欲しい。
 しかも著者が考えているような報酬を得ているものは甲子園で4番を打ったというようなレベルではない。
 しかも残念なことに野球としか比較していないようです。柔道でオリンピックで金メダルを取った人はどうですか。サッカーにしろプロになっただけではプロというだけでJ2レベルではアルバイトをしていたり、どこがプロかわからない。
 ほどんど超高収入といえるような報酬を得ているようなスポーツ選手は日本レベルなのではなく、世界的なレベルであるか、キャラクターがたっているなどの付加価値がある人だけです。(しかも人気種目)

 例えば荒川静香選手は子供の頃から、受験勉強と比較しても恐ろしく長い期間を、しかもコストを掛けてスケートに費やし、ついに金メダルを取った。もしかすると日本選手権のわずかな違いや浅田選手の出場が認められればオリンピックに出られなかった可能性もある。

 フィギアで言えば、世界的にも有数なレベルにある他の選手は学校職員であったりというレベルに過ぎない。しかもこれが人気種目なのである。
 より熾烈な競争のスポーツ界でというようなことを書いているが、それは成功するという意味であって努力を評価するということとは別でしょう。それは東大に入ったこと(入ったという努力)を評価するということと同様に考えればいい。

 著者は高学歴がビジネスに役立たないと書き、努力が大事だと書きながら、スポーツの努力はまったく評価しようとしていないように見える。
 勉強では東大に入った努力を評価し、甲子園には出れば成功が約束されているように書いている。

 おそらくスポーツにおける努力はこの著者にとっては、遊びの延長に見えているのでしょう。プロレベルやオリンピックレベルに行くということはそんなに甘くはない。

 大体例えば阪大を出れば年収2000万円を保証するなどが必要だと書いているが、そんなことをしたら、阪大の卒業生は雇わないなどの状況が出るのではないだろうか。そうならないとすれば、恐ろしい受験競争が起きて今以上にコストを掛けて教育を受けないと勝ち残れないような状況になると思われる。勉強ならスポーツのように故障もない。

 また、受験勉強に費やした努力はもし仮に東大に入れなくても、旧帝大、早慶、6大学、関関同立など段階的にリスクがヘッジされている。
 だからこそ努力に見合ったものをという主張なのだと著者は言うだろうが、企業に入ってからの努力で置き換えられないのだろうか?

 現実には出身大学により就職での有利不利は存在するし、景気回復が言われているがこの10年で収入が増えたのはいわゆる大企業で、その他は実は所得は減っている。
 転職に際しても正社員で働いていたか、担当していた業務などは問われ、就職時のアドバンテージはそれほど小さくない。

 社会人になってからの入学などにも触れいるが、これは反対しないが現実には、それだけの余裕があるものがより有利になるというのが、たぶん実態になるでしょう。大変残念ですが。
 著者が国家1種に受かることができたのは、はっきりいってよほど優秀か、公務員が暇だったからでしょう。普通の企業で新人がそんなにまともに勉強する時間がありますか、年収数百万の人が就職してから勉強して、学費まで貯めることが考えられますかね。
 
 マラソンでレベルの高い大会に行くと公務員比率の高さにびっくりしますよ。年代別表彰ではなくて、公務員部門と他にしてもらいたいくらいですね、私は。

 つまりは会社を辞めるにはそれだけの財力が必要ということです。

 官僚といわゆる金持ちとの世間の敬意の変化についても書いているが、私も優秀な官僚がそれほど多くない給与で必死に働いているのはすごいと思っていました。
 ただ、最近の報道を見る限りでは天下りや渡りなど利権を作るためにもその労働の時間や力は使われいるようです。
 もはや高潔なイメージがなければ誰が尊敬するでしょうか?尊敬と安定と高収入とすべてを得ようのはそれは虫が良すぎるというものでしょう。しかもそれで国は借金漬けというのですから、要するに自業自得です。

 開業医だって昔ほど、誰にもお医者様とは思われていないし、機材や医学部への投資、大病院への集中など経営的な感覚がなければうまく回らなくなってきている


 もっとも厳しい方、条件が悪いほうにそろえてもしょうがないが、安い労働力の国と競争するグローバルな競争になった結果の側面で、学歴で何かを保証するということは社会主義にでもならないと無理でしょう。

 この本がいうギャンブル社会というより、持たざるものが希望を持てない「希望格差社会」ということに問題があるのでは?
 起業して成功するといっても成功し続けるという点ではギャンブルばかりではないと思います。
 努力が報われない社会ではダメだという意見にはまったく賛成なんですけどね、なんか違和感のある本でした。

 「下流社会」などとくらべると話題にならなかったことは分かりますね。

 そう言えば東大の大学院生は学部生よりも在籍者数が多いんですよね。ちょっとした学校は大学院の枠が必ずしも多くないため、出身の大学の大学院へ進学するよりも、東大の大学院に行くほうがやさしい例もあるらしい。
 

「ランニングの世界」

2006年03月15日 | 
 「ランニングの世界」2号が届きました。
 この本はもともとハウツー本ではなく、ランニング文化を根付かせるたうというのが趣旨の本です。従っていわゆる実用的な走りに関する練習法などに関する中身はほとんどありません。

 ちょっと学術書っぽいつくりで、写真などがほとんどないことも含め、教科書のような感じです。

 スポーツの文化が一概に知識的なものが必要であるとは思いませんし、マラソンの歴史的な側面を知ることが必要だとも思いませんが、そうしたことを知る事や知ろうとする事が無駄だとも思いません。

 ランニングがスポーツ的な要素が強いからと言って何でもかんでも実用書的ハウツー本というのも余り面白くない。私はいろんなことの雑学や薀蓄が結構好きなので。

 ただし、この本はちょっと薀蓄と言うよりハイブローな感じの記事が多く、もう少しくだけたものもあっていいかなとも思います。

 冒頭の記事の、猿人と人間との違いという面で、2足で走るかどうかが大きな違いと言うのはなかなか興味深かった。2足歩行が現在の人間に大きな影響与えたことはよく知られているところだが、歩くと走ると言うことの間にも大きな違いがあることはなかなか面白い。

 まずは走ることが罰則ではなく、楽しみであるという認識が一般的になることが入り口ですかね。

 ちょっとハウツーだけに飽きてきた人は一度どうぞ。

「田原総一朗よ驕るなかれ」左高 信/著

2006年03月10日 | 
 「田原総一朗よ驕るなかれ」左高 信/著読みました。

 著者のいろいろな連載やコラムを取りまとめた本で、必ずしも表題だけの中身とは言えませんが、割合が高い事は高い。

 実は田原総一郎さんが司会をする「朝まで生テレビ」は結構好きで大概見ています。言いっ放しで、ほとんど討論にならないところはとても面白い。

 「○○さんが好きだから言うんだ・・・」「そんなだから○○はダメなんだ・・・」という振りで強引にほとんど自分の言っている通りに発言をもっていたったり、討論をしているようでやっぱり討論にならず、実は田原総一郎さんの主張番組だったりする。また、「一言で言って○○はどうなの・・・」のような発言も多く、「説明が足らない」といいつつ「そんな難しい話は分からない」などで、ワンセンテンスポリティックスを一方で推し進めていたりする。

 この本で意外だったのは、著者と杉浦日向子さんが思いのほか仲が良かったようで、荒俣宏さんとの離婚問題では荒俣さんに別の女性が・・・というくだりで、美人漫画家として認知されていた杉浦さんはきっと江戸風俗の資料見たさに結婚したのではないかと話をしたことがあり、離婚も資料を見終わったに違いないなどと思っていたので、女性問題?という理由がでていたことだった。
 全く持ってイメージが合わない。

 ほとんど一貫した姿勢でいろいろなことを批評しているが、表題に関心を持って買うと少し当てが外れるかもしれません。




「グッドバイ・ゾンビーズ」ベンジャミン・フルフォード/著

2006年03月09日 | 
 「グッドバイ・ゾンビーズ」ベンジャミン・フルフォード/著読みました。

 著者はアメリカ経済誌「フォーブス」のアジア太平洋支局長だった人ということです。国籍は良く分かりませんが、カナダで生まれ、現在はフリーで日本に在住。親日派ということでベンジャミン・古歩道と名乗っているらしい。

 さて、タイトルのゾンビーズというのは小泉首相とその周りで主要な役割を果たしている竹中大臣などのことのようです。

 本書を信じるならば、そして本当らしく見えてしまうのだが、暗澹たる将来がわれわれを待っているようです。

 この本の中で語られるほど国民に不利益を与えようという選択は一体どんな動機、あるいは力によるものなのか判然とせず、釈然としないものを感じる。

 基本的な話としてはアメリカの言いなりの政策を中心とした政策を取ることで、日本は大きな犠牲を払っていく。

 その理論的な展開は十分分かるような気がするのだが、一体その選択を行う小泉政権の動機が十分に説明されていない。もしくは私の理解力が足りないものか。

 ただ、テレビを見ているとイギリスに留学していたという小泉首相が単なる英単語を並べただけの英語を話す(と言えるのか)姿を見たり、竹中大臣がささやかれていた住民票をアメリカに移して節税を図っていたなどの疑惑を聞くに突け、胡散臭い気はしているのですが。

 本書で出てくる「中丸薫」さんという方の名前の出ている本「この国を管理/支配する者たち」の新聞広告を見かけて思わず買ってしまいました。
 冒頭では9・11の疑惑の写真が載っています。何となく怪しさたっぷりの本ですが、この本については後日。

 いずれにしても財産権の云々で国会議員の年金は下げるの下げられないのと議論があるのに、国民の年金には財産権も何も適用にならないのでしょうか?

 いずれにしてもなんか幸せに暮らせそうになさそうです。

『「ニート」っていうな!』

2006年03月04日 | 
 『「ニート」っていうな!』読みました。

 1部 本田由紀さん
 2部 内藤朝雄さん
 3部 後藤和智さん
      の共著です。

 基本的なスタンスは、ニートという言葉に対して引きこもりなどのネガティブなイメージをつけて、社会的な雇用問題を働くサイドの若者の責任にしているということと、労働問題と教育問題をすり替えている(誤ってとらえている)とことといっていいでしょう。

 共著ということですから、基本的な論点は共通かと思うのですが、1部の本田さんの主張は、当初NEETという言葉はそもそもイギリスの16歳から18歳という限られた若者の就職・教育に関して民族的などの理由で機会を得ることができない問題に関する言葉だったものが、日本に入ってきて15歳から34歳という非常に幅広い対象に変化していることや、言葉の使い方が労働問題から教育・意欲の問題に置き換えられていることを指摘している。

 しかしながら、途中からその中身において専門性の高い教育が不可欠なのではないかと語ったり、学問は学問であるべきというような主張をしつつも、仕事に対するスキルのつく学習内容が必要というようなことを主張したりする。

 また、新卒からの就職の場合、学校と実績のある企業との関係による就職機会が発生するために不平等になっているから、カリキュラム内容でその機会を与えるべきと主張しているが、カリキュラムにせよ結局は学校もしくは教授などの関係で機会が変わることになり、学生に責任がないところでその機会に不均衡が生ずることには全く変わらないのでは?

 さらに新卒で就職するのではなく、一定の就業の後に(アルバイトなどを想定してるようですが)採用されるべきという主張もある。一見もっともらしいのだが、問題はフリーターの人たちがこれによって救われると想定していることにある。
 しかしこれにより新卒者は1度フリーター的な道(インターンシップよりも一段と実践的な仕事経験という位置づけ)を通ることなり、結局基本的に求人需要が増えなければ、現在よりも大量のフリーターの中から就職していくということには変わりない。
 当然、大量な中からアルバイト採用の選別が行われると想定される。社員になる段階での選別の前に、アルバイト採用段階での選別が行われることになる。
 問題点はもうひとつあり、アルバイト段階では担当できる仕事の中身はかなり限定的なものになる。
 多くの場合、アルバイトに任せている仕事には大きな偏りがあると思われます。
 また、会社の限定的な仕事や長期に仕事を体験できるとしているが、それに合わないと考えた場合次々と仕事を渡り歩くのだろうか?

 この人が挙げている成功例にもかなり恣意的なごまかしが感じられる。
 1名は技術系の若手の転職例で、はっきり言って現在一定のレベルの技術者であれば、技術者を欲しがっている中小企業であればそりゃ就職できるでしょ。一番採用が厳しい分野ですから。

 さらに1名はカメラマン。もともとフリーや見習いからつくことが珍しくない業界でむしろ当たり前のルートを取っただけ。

 この方は余程状況を知らないか、別の意図があるのでしょう。

 内藤朝雄さんが指摘する凶悪犯罪の統計上の指摘については、何かでも指摘しているのを目にしたことがある。
 実際、横溝正史さんの小説などでの猟奇的な殺人事件が描かれているということはおそらくそれがありそうな事、あってもおかしくないこととして世間的に認知されていたという背景があったのでしょう。

 ただ、ちょっと後半からの政治的な記述はこの本の趣旨と照らしてどうなのでしょうか?

 ともかくこの本の主張の本来のニート問題は失業問題として対応すべきという(ように捕らえてますが)主張は十分理解できる。
 また、全体に私もイメージ的には近い部分はありますが、フリーターとニートが若干ごっちゃに考えがちということはある。
 ただ、就業問題として考えた場合に、フリーターを就業者として捕らえるかどうかは、統計的に就業者として捕らえるべきなのか、就職への保留としてのものなのかは、本人がどういう考えでアルバイトをしているのかにより違ってくるのではないかと思う。

 本人の責任と社会の状況の両者の要因の結果と思うが、就職が厳しくなりフリーターやニートになることへの精神的なハードルは低くなってきているような気がします。友達も就職できないから・・という理由で本人のいいわけ的なものになり、家族も止むを得ないものとして承認しやすいものになってきている。

 また、働きたい気持ちがあることに関しても、~なら働きたいという、「~なら」という職種などの条件が以前より強くなっている気はする。
 もちろんこれが一概に悪いといえることでもないが。何でもかんでも働けばいいというのも言いにくいものを感じます。

 ニートとして取り上げている中身が非常に多様で、言葉だけが独り歩きしている、過大に見ていることはまったく賛成だが、若年者の就職の問題に対する提言部分には非常な違和感を感じるのも事実。

 ほかの人がどう考えるかはよくわかりませんが。
 参考になることもありますが、私には違和感が多い本でした。 

「他人を見下す若者たち」速水 俊彦/著

2006年02月27日 | 
 「他人を見下す若者たち」速水 俊彦/著読みました。会社の後輩がこの著者の授業を受けたことがあるらしい。

 仮想的有能感という言葉を中心に置いて他人を見下すという行為について説明をしています。
 この主張については非常に頷けるものでした。社会的にも評価を得ることが難しい中で、潜在意識として防御的に自らを評価する、何者かであるという作用というのは、特に若者にとっては必要なものでもあるように思える。
 問題は他者に行為としてどう出てくるか、ということかと思います。

 この本での指摘で興味深かったことは、子供が他者との相対的な評価がなくなっていく中で自らの長所(短所もということになるのでしょう)を気づく機会が失われているという指摘で、自分の長所や得意なことをあげられない子供が増えいているらしい。 

 ただ、生活レベルが上流ということはないにせよ、中流の上くらいと思っているのではないかとか、中の上の学校にいるとほとんどの学生が考えているのでは、という考え方は全く賛同できない。
 生活レベルについては一般的ないろいろな最近のアンケートに関する(主に格差拡大とか)報道を見る限りでは、むしろ中の下という自己評価なのではないか。

 また、学校レベルの件も著者は入学試験の多様化などを挙げて主張を展開しているが、依然として偏差値などの指標はあり、むしろレベル差を認識しつつ、入試制度の問題から自分は必ずしも優秀さで劣っているものではないと、考えている(ようとしてる)のではないだろうか。

 例えば、落ちつつある不安感こそが、仮想的有能感という精神作用で自分の精神の合理化を図っているのいうのが実像という気がします。 

 この本では萎縮型、自尊型などの区分も出てきますが、まさに萎縮型は上記の合理化をうまく行えなかった結果なのではないでしょうか?

 社会的に落ちていく、漠然とした不安感への過剰防衛的な反応というのが背景にあるような気がします。

 ただこの本に関しては、頷けることがある反面でその現象が今日的な特徴なのか、その根拠があるのかというとちょっと・・・。
 だから、それで?って感じの本でした。

 この本で一番面白いのは、本の帯の漫画ですかね。

「MLBが付けた日本人選手の値段」鈴村 裕輔/著

2006年02月26日 | 
 「MLBが付けた日本人選手の値段」鈴村 裕輔/著読みました。これも北海道出張の移動の飛行機内です。

 著者はアメリカ野球愛好会代表補佐という意味があるのかないのか良く分からない経歴です。別に経歴で買っているわけでもないので、どうでもいいですが。

 本が出版されたのは2005年の秋のようで、城島選手がアメリカに行くことが決まった頃です。情報としてはアメリカに行くことは情報として入っています。

 現在の日本人選手がメジャーリーグではどんな役割を求められているかという面から、またどんな選手が評価されるのかという点を念棒による評価という形で示しています。

 年棒と見合わなくなるのでほとんどありえませんが、「マネーボール」の著者でアスレチックスのGMビーン氏などの評価があるようだと面白いが(例えばほしい選手とこれくらいならという想定年棒)、この著者の評価が実際に正しいものかは何年か待つ必要があります。

 本の評価はそのときということでいいですかね。

 ただ、選手に関する考え方やカルチャーはなかなか勉強になりました。
 デッドボールの場面での謝る、謝らないの考え方を昔聞いてそんなものかと思ったことがありましたが、それに似ていますね。




「陽気なギャングが地球を回す」伊坂 幸太郎/著

2006年02月25日 | 
 「陽気なギャングが地球を回す」伊坂 幸太郎/著読みました。

 丁度文庫版が出ていたので、札幌から小樽へ移動の折、コインロッカーを使用する関係で小銭が必要になり札幌駅の本屋で購入しました。

 嘘を見抜く男、天才的なスリ、時間の感覚が異常に鋭い女などなどで作られた銀行強盗団の話です。

 いつもどおり、登場人物たちの会話は会話だけで十分楽しめる作りで、面白く読ませます。結構ウンチクにあふれた会話でいろんな意味で楽しいものになっています。
 また、ストーリー面でもどんでん返しも用意されて、大きな驚きがあるとは率直に言ってありませんが、愉快に楽しめます。この人の作品は主人公が淡々としている為か、後味が悪くならないのもいいところですね。この作品の後味が悪いということでは全くないですが。

 ただ、この作品ではキャラクターが特異な能力を持っているなど、それぞれが特徴のあるキャラのせいと思われますが、ちょっと類型的というか駒という感じはしました。

 気軽に楽しめる本です。映画も製作中で、5月公開予定。

 その他このブログの「伊坂幸太郎」さんの作品は以下

「死神の精度」
「ラッシュライフ」
「グラスホッパー」

「リアルワールド」桐野 夏生/著

2006年02月24日 | 
 「リアルワールド」桐野 夏生/著読みました。気流の関係だと思いますが、千歳空港から中部国際空港は、その逆よりも1時間くらい時間が余分にかかったので、その機内。

 女子高生の仲間4名と、殺人を犯した男子高校生1名がふとしたことでかかわりを持ち、それぞれの視点で物語りは描かれていきます。

 例によって、子供の心の闇を描いたとかそんなことで、薦められていますが、物語は物語で本当に描かれているというより、本当らしく描かれているというべきで、そのことが賞賛されるというのが本筋だと思います。
 フィクションなんですから。

 「OUT」で海外でも評価の高い著者ですが、この作品でも4名の女子高生を中心に、それぞれの女子高生の気持ちや考えが多様に描かれて興味深く、しかもリアリティをもって読むことができます。

 ただ、最終的にリアルな現実に引き戻された後のようすは、それ程現実感というか、実感のリアルさは私には迫ってきませんでした。

 全体にはとても面白く読めた作品でした。基本的な実力がある作家の作品という感じですね。

「ケータイ・ストーリーズ」バリー・ユアグロー/著

2006年02月22日 | 
「ケータイ・ストーリーズ」バリー・ユアグロー/著読みました。



 親日家の著者が来日した折に、ケータイのキーボードで素早くメールを送るさまを見て(当時ケータイを通話のための手段として使うという点では、アメリカでも十分ケータイは普及していたものの、メールやネットの端末としての利用はほとんどなかったらしい)驚き、新潮社からの依頼でケータイに合わせた形式で作品を書いたそうです。
 新潮ケータイ文庫への書き下ろし作品(日本向けの書き下ろし)です。




 一編あたりの文章量はほぼほんのページから2ページで構成されています。内容は寓話的な(勝手に作品の中身から教訓を得そうな皮肉の効いた)作品です。

 昔なら奇妙な味のショートショートといわれたところで、アメリカの作家では既に亡くなっていますが、リチャード・ブローディガン(「アメリカの鱒釣り」が有名)の文章量も大体本の見開き程度でした。

 カテゴリーとしては、ショートショートという言い方が最も適切かと思いますが、最近ではほとんど流行らないのでそういった表現が付かなかったものでしょう。
 
 →「ショートショートの世界

 私が学生の頃は、星新一さんを筆頭にそれなりに本が出ていた。最近また星さんの作品は新装刊されてきています。

 ただ、この本に関しては星さんの作品のような「オチ」というようなものを最後に用意したような作品ではなく、ナンセンスで皮肉の効いた作品集になっています。

 そういえば、その後欧米ではフルキーボード型のスマートフォンが出たり、メールへの機能を大幅に強化が進んでいる。一方で日本では先日WILLCOMからフルキーボードの製品が出たが、相変わらずテンキーの機種でメールを打っている。
 メールの量や頻度はその後欧米ではどうなっているのだろうか?

「愛するスケートに何が起こったのか?」渡部絵美/著

2006年02月17日 | 
 「愛するスケートに何が起こったのか?」渡部絵美/著、中部国際空港から千歳空港への移動の機内で読みました。

 発行のタイミングに関してはいろいろ言われることはあるだろうが、話題性を考えるとまあしょうがないでしょう。

 テレビの解説者などもコメントを聞いていると選手の名前をファーストネームで呼んでいることも多く、それだけ人間関係が濃い業界だといえると思われるし、派閥などができやすいともいえるでしょう。

 私のような素人の目でどの演技がより難しいく価値があるのかということは良くわかりませんが、全日本でのポイントが海外での大会のそれよりも明らかに高くなっているのは、採点方法が変わりより客観性が高くなったとはいえ、主観が入る余地があるとも言えます。

 1年前からの大会でのポイントから加えていくことの是非はあるが、当初からのルールどおりなわけだから、これはしょうがないでしょう。1年前のポイントは半分にするとかルールの決め方はいろいろあったと思います・・・。
 そういう方式がどういう意味があってせっていされているのか、どんな合理性があるのかということが問題ですね。
 選手としてはルールがあるわけだからそれにあわせて調整するだけのことです。本書でも書いてあるように、ピークを選考大会の最後にある全日本にピークを持ってくると間が開くため難しいというようなことが書いてあるので、その配慮でしょうか?

 マラソンではオリンピック前年の世界選手権の日本人トップでかつメダリストはオリンピック代表に決まるというルールで、野口選手は実際それを生かし調整、金を勝ち取った。

 それにしてもオリンピックは一発勝負だから一回の大会で決めるべきという考え方もあるが、それに対する弊害の指摘もある。制度での利点欠点はあると割り切るより仕方がないでしょう。ルールがいい加減だとか、変更されてしまうということがない限りは。

 さて、浅田選手に関しては、連盟が交渉をすべきだとは思うが、ルールだということならポイントは浅田選手につける必要はないのではないだろうか?はなから資格がないということならば。

 年齢で参加資格がないのは不条理といえば不条理だが、ジャンプや複合のようにルールの変更で有利不利ができたり、当然参加できなくなったり、不条理なことはあるとしか言いようがないですね。もちろん連盟が浅田選手にこれをいったらおしまいという気がしますが。

 昔はこの手の揉め事はなかったのでしょうか?マラソンなんかずっともめ続けのように思いますが。

 さて、スポルトを見ていたら、私が応援している荒川選手が練習で肩を痛めたという報道があった。がんばってほしい。

 いつの間にか投稿後の表示が変わっていた。最近また不安定になってきています。この所投稿がうまくされないことが頻発します。

「キタイ」吉来駿作/著

2006年02月16日 | 
 「キタイ」吉来駿作/著読みました。

 第6回そして最後のホラーサスペンス大賞の受賞作だそうです。昨年の受賞作の「九月が永遠に続けば」沼田まほかる/著もこのブログでは取り上げております。

 何度も書くようですが、往々にして小説はデビュー作(特にこの分野の作品は)が最も面白いことが多いと思っています。

 巻末の論評で綾辻行人氏が書いているがパワーを持った作品であると書いているが、全くその通りで、これはデビュー作の何ともいえない気負いとでも言うものがあるのだと思う。
 文章に関しても多少触れているが、これに関しては綾辻さんのデビュー作と比べれば、100倍はうまいと言わせてもらいましょう。

 葛西とキタイなど案外細かなところも凝っていたり、設定もなかなか面白い。

 8人の症状の差や何故トカゲをあちこちに見る症状が出ているのか納得しがたいところもあるし、葛西の性格に関しても納得しづらいところもあるが、面白い小説であることは間違いない。

 ホラー小説、ミステリ系の小説が好きな方にはお奨めできる作品です。

 ホラーサスペンス大賞がなくなるのは残念です。