カトリック情報 Catholics in Japan

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「教会の外に救いなし」と発言した司祭が解任される

2024-07-10 02:09:01 | 教会ニュース
この聖なる司祭は、司祭がしなければならないことをしたために解任された。

ジェフ・ファッシング神父は、「教会の外に救いなし 」というカトリックの教えを宣べ伝えただけで、司教から2つの小教区の主任司祭を解任された。







9-7-5 西欧化異聞

2024-07-10 02:03:22 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
7 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革
5 西欧化異聞

 ピョートルは西欧文化をまねたが、盲従者であったわけではない。
 彼は、西欧にたいしてむしろ不信感をいだいていたが、ロシアが、そこでは軽蔑され、嫌悪されていることを知っていたからである。
 彼は語っている。
 「我々に西欧が必要なのは、せいぜいここ数十年間のことで、その後にはこれに背を向けなければならない。」
 すなわち、ピョートルにとって西欧は手段であって、目的ではなかった。
 外遊してはじめてヨーロッパを見たピョートルをおどろかせたのは、工業のすばらしい発展であった。
 そこで彼は、ロシア経済の発達のために、当時の西欧に流行していた重商主義政策をとりいれる必要を痛感した。
 「わがロシアの国は、多くの外国よりも資源に富み、金属や鉱物にめぐまれているが、いかんながら今日まで、たんねんに調査されていない。」
 「よいこと、必要なことでも、新しいこととなると、わが国民は強制しないとやらない。」
 これがピョートルのえた結論であった。
 そして官営工場の設立、私的企業に対する保護、交通の改善、保護関税など、重商主義政策に力がそそがれた。
 そのころロシアに駐在したあるプロシア公使館書記官は、ピョートル治下の工場建設について報告書を残している。
 その一節を引用すると、「ピョートル一世は、その家臣の多くをイギリスやオランダに派遣し、そこで使われている生産技術を学ばせた。……
 彼はその治世中にさまざまな工場を発達させたので、留め針、兵器、麻織物などの商品は、国内の需要を自給できるようになり、とくに海軍が必要とする帆布は、外国に掛け売りするほどになった。
 シベリアの鉱山も開発されたので、もはやロシアはスエーデンから鉄や銅を輸入しないでもよくなり、かえって外国に輸出するようになった……。」
 ところでピョートルがやつぎばやに行なった西欧化のなかには、古い夢をむさぼっていたロシア人の生活を根底からゆさぶるようなものもあった。
 まず彼らを仰天させたのは、暦の改正である。
 ロシアの紀年はこれまで、ギリシア正教のカレンダーにしたがって、「世界創造」を紀元元年とし、新年は九月一日であった。
 これをピョートルは西欧式にかえた。
 すなわち、「キリスト生誕」を紀元元年とし、新年を一月一日としたのである(しかしロシアでは革命まで、西暦であるグレゴリオ暦ではなく、露暦が使用きれた)。
 ついで不評をまねいたのは、ひげそりと洋服着用の命令である。
 これにはつぎのようなエピソードがある。
 ピョートルが外遊から帰ると、大貴族、将軍、政府高官たちがご機嫌うかがいに伺候した。
 新築の宮殿のテーブルの上にご馳走の皿がならび、室内にはタバコの煙がたぢこめているなかでピョートルは、ロシア人とは思えない異様なかっこうをしている。
 薄いサージのハーフコート、首には婦人用のレースをまき、先がピンとはねあがった鼻ひげ、頭には金髪のかつらといったいでたち。
 しかも、その足もとには、羊毛刈りのはさみをもった二人の小人がうずくまっている。
 そのころのロシアの貴族たちは、いずれも長いあごひげが自慢であったが、ピョートルは、あいさつに出てくる彼らを片っぱしからつかまえては、かたわらの小人に命じて、あごひげをちょん切らせた。
 また、あごひげに税金をかけたことも有名である。それも身分によって差異があり、貴族と官吏には六十ルーブル、大商人は百ルーブル、農民と寺男は三十ルーブルといった具合であった。
 しかしこのあごひげ排撃政策は、とくにギリシア正教側のつよい反対にあった。
 ロストフ大主教のもとに「上流の人たち」があつまって論議したあげく、「あごひげをそりおとせば、キリストと同じ容貌でなくなる」という結論がだされ、各都市に檄文を発して、「あごひげ擁護に立ちあがれ」とよびかけることになった。
 ピョートルが世界の終末に登場する「アンチ・クリスト」であるといううわさも、ここからひろまったらしい。
 ピョートルはまた、ロシア語のアルファベッドを簡素化して活字体を制定し、はじめて新聞を発行させ、劇場をつくらせ、多くの初等学校・実業専門学校をおこし、またペテルブルグ市長に命じて定期的に夜会をひらかせ、貴族たちが夫人同伴で出席することを義務づけた。
 西欧式エチケットが要求され、違反すれば罰金をとられた。
 そこでこの時代にはエチケットにかんする本が出版され、そのひとつ『青年の鏡』(「日常交際の手引き」という副題がつく)は、ベストセラーとなり、たちまち三版を重ねたという。その内容の一部を紹介すると。
 「青年貴族たるものは親切で、従順で、礼儀正しく、外国語、乗馬、ダンス、フェンシングを学び、雄弁術にすぐれ、読書家で、事にあたっては大胆、かつ勇敢でなければならない。……
 街を歩くとき、頭をたれ、目をふせていてはならない。
 人に流し目をくれてはならない。
 知人と出会ったときは三歩手前で帽子をとり、通りすぎてからふりかえってはならない……。」
とあり、また、とくに注意すべき事項として、
「長靴をはいて踊らないこと、人前でつばをはかないこと、音をたてて鼻をかまないこと、指で鼻くそをほじらないこと、食後に手で口をぬぐわないこと、ナイフで歯の掃除をしないこと、食事中には豚のように口をならさないこと」
などがあげられている。



ミサでは跪け アッシジの聖フランシスコ

2024-07-10 01:59:02 | 格言・みことば
司祭によってミサの犠牲が祭壇上で捧げられ、ホスチアまたはぶどう酒の形色のもとに運ばれる時には、すべての人がひざまずいて、生ける真の天主なる主に賛美と栄光と誉れを帰さなければなりません。

アッシジの聖フランシスコ




ゴルクムの聖殉教者    Sts. Martyres Gorcomienses 

2024-07-10 00:22:52 | 聖人伝
ゴルクムの聖殉教者    Sts. Martyres Gorcomienses     記念日 7月 10日


 オランダはもとドイツ帝国の一部で、それからスペインの領土となったが、その頃住民の一部はカルヴィンの異端に迷わされ、国の独立を計って反乱を起こした。これは政治上の争いでもあり、同時に宗教上の争いであったとも言えよう。何となれば叛軍の大部分はカルヴィン教徒であるのに、カトリック教徒はいずれも国王方であったからである。

 戦争の結果はカルヴィン派が勝利を得、その後長くカトリック側を圧迫した。否、この圧迫は、既に右の戦争中から始められ、カルヴィン派側の手中に帰した地方のカトリックで、棄教を肯じぬ者は少なからず殺戮された。有名なゴルクムの聖殉教者もその時の犠牲に他ならぬ。ゴルクムの聖殉教者と呼ばれるのは総数19人で、内11人はフランシスコ会員、他はドミニコ会員一人、ノベルト会員二人、アウグスチノ会員一人。世俗司祭4人という割であった。

 これらの人々はもちろん敵の意に従いさえすれば、生命を失うには及ばなかったのである。しかし彼等はあらゆる手段を以て棄教を迫られ、殊にカトリックの二大教義、御聖体の秘蹟に主イエズスの籠もりましますことと、教皇の首位権とを否定するように強要された時に、皆あくまでこれを拒んで、真理を擁護した為に殺されたのである。
 今その次第を物語れば、戦況は前に述べた通り、カルヴィン派の優勢裡に進められた。けれどもオランダはまだことごとくは異端化せず、カトリック信者もなお多数存在したし、住民の大部分がカトリックである町や村もない訳ではなかった。人口五千のゴルクム市もやはりそういう一つであった。
 この町は国王方の軍が極く少数で守備しているばかりであったから、敵はその虚に乗じて攻撃して来た。市民も必死に防戦したが、食料弾丸が欠乏したので長く支えることが出来なかった。それで必ず悪いようにはせぬとの敵将の言葉を信じて降伏したところ、入場するや彼は約束を破ってカトリック教徒を捕らえた。ある人々はそこですぐに殺され、その家宅財産を没収された。しかし司祭達は例外であった。まずフランシスコ会のニコラオという一修院長が入牢したのを始めとして、彼等は次々と獄に投ぜられたのである。
 その修院長は財宝の隠してある場所を言えと執拗に迫られた。けれども隠した宝などは一つもないのであるから、白状の仕様がない。すると敵はそれを強情で口を割らぬと思い、鞭打ちその他あらゆる拷問にかけた。修院長はあまりの苦痛に耐えかね、その場に悶絶してしまった。人々は彼が死んだものと思ったが、やがて息を吹き返したので、再び司祭達の牢内に下げた。他の司祭達も聖教を棄てよとさまざまに苦しめられた。
 その内に捕虜を釈放すべしとの布告が発せられた。けれども敵将はその命令に従わず、彼等をブリエレに送り、その途中も棄教を強いては虐待の限りを尽くし、食物すら満足に与えなかった。ために彼等は疲労の極に達し、そのまま今にも倒れて死ぬかと思われるほどであった。が、兎にも角にもブリエレに着くと、彼等はもう一度信仰を捨てるが否かを訊問され、ついに縛り首に行われることとなった。
 戦火に焼かれた一修道院の廃墟で、ゴルムクの殉教者達は相並んで絞殺された。時は夕方に近かったから、彼等の死体はそのまま晒しものにされたが、悪人達はその耳を切ったり手を切ったり、或いは斧で体をばらばらに打ち砕いたりして殉教者に凌辱を加えた。
 見るに見かねたあるカトリック信者は、番兵に金を掴ませて彼等の遺骸を葬らせようとした。すると兵士等は絞首台の下に一つの穴を掘り、殉教者の栄えある屍を無造作に埋めてしまった。
 このゴルクムの殉教者が崇敬されるようになったのは、それから間もない事であった。その仮の墓は開かれて遺骸はブリュッセルに移された。そして1866年等しく聖人の列に加えられる光栄をになったのである。

教訓

 御聖体にイエズスの籠もり在すこと、及び教皇の首位権に対する信仰はカトリック教の基礎的真理である。これ無くしては聖会は一日も立っていかない。それ故教敵はややもすればこの二教義に攻撃の鉾先を向けたがる。ゴルクムの聖殉教者達はその信仰を守り通す為に生命を献げた。我等も御聖体の秘蹟を深く尊敬し、しばしば教皇の為に祈ろう。そうすれば我等の信仰はいよいよ堅固になり、死しては天国の永福を恵まれるに相違ない。