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悪魔について 1-2、人の疑いは、神の教えを覆し得ない

2018-09-03 01:06:54 | 悪魔
『悪魔について - その存在と活躍』アロイジオ・デルコル神父編

◆1-2、人の疑いは、神の教えを覆し得ない

 しかし、教皇パウロ六世は、明らかにこう述べておられます。

「もし〔悪魔の〕現実を認めない人があるとしたら、その人は、聖書の教えからも教会の教えからも、はなれてしまったのである。あるいはまた、この存在物〔=悪魔〕を、他の被造物のように神につくられなかった、それ自身が存在の独立した原因となっているものと考える人もそうである。さらにまた、この存在物を、いつわりの現実であるときめつけ、それがわたしたちの禍いのまだ知られていない原因を説明しようとして、想像ででっちあげた抽象的なものの人格化にすぎない、などと考える人もまた、聖書と教会の教えから、はなれているのである」(以下15-16ページ参照)と。

 この小冊子を発行するわたしは、悪魔なるものが存在していて、世界に禍なやいをもたらしたり、あわれな人々を苦しめたり悩ましたりすると考えることを決してはずかしく思わないのです。なぜなら、神の教えを信じるのは、決してはずかしいことではなく、かえってこの上もない知恵であり、救いの源であると思うからです。

 悪魔とは、第一級のまどわしの教師で、人間のさぎ師などとは比べものにならないほど巧みなやり方でまどわすものです。かれは、表面に出ないで、かくれて、ひそかに働きかけます。つまり、くらやみの存在であるかれは、影にかくれて働くのです。では、じつに功妙なそのたぶらかしのねらいは、どこにあるでしょうか?それは、かれの計略を信じないどころか、その存在さえも否定することをもって賢明のしるしと考えさせることにあったのです。

 このために、悪魔の罠に一番かかりやすいのは、学者ぶった人、自分こそ知者だと自負する人、はては、自分が学者のなかの学者だとうぬぼれている人たちです。

 じつに、始末におえない悪魔のずるさは、「悪魔なんか、本当はいないんだ」という考えを人間の頭にたたきこむことにある、といえます。

 それは、まったくその通りで、悪魔のその存在も、その活躍も否定する人は、そのときから、悪魔の虜になるチャンスを、悪魔に自ら提供しはじめるのです。

 わたしたちは、決して悪魔の虜には、なりたくないのです。それで、地上におけるキリストの代理者として、信仰・道徳について教えるときに、不可謬権の特権によってまちがうことができない教皇の教えを神の教えとして受けいれて、教皇パウロ六世の、一九七二年一一月一三日の演説を、注意ぶかく読みましょう。




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