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悪魔について 2、聖書の教え

2018-09-05 03:26:54 | 悪魔
『悪魔について - その存在と活躍』アロイジオ・デルコル神父編

◆2、教皇パウロ六世の演説

2、聖書の教え

 だが、はたして、このビジョンは、完全であろうか?正確だろうか?世界には、これほど多くの不足があるというのに、それでもいいというのだろうか?

 わたしたちの存在には、不合理なこと、たとえば、苦しみ、死、悪意、残虐さ、罪、ひっくるめていえば、悪がつきまとっているのに、それでもなお、そんなことがいえるのだろうか?

 これほどのおびただしい悪が見すごされているのではないだろうか?

 何よりも道徳上の悪がこれほどはびこり、さまざまな手段を用いて同時に人と神を攻撃しているというのに、それでも楽観的でありうるというのだろうか?もしかして、この悲しい光景は、とうてい説明のおよばない奥義ではないだろうか?

 神のみことばを聞いて守ろうとするわたしたち、善をのぞみ、信仰に生きるわたしたちこそ、悪に出合い、経験するとき、だれよりも敏感になり、だれよりも悩まされるのではないだろうか。

 わたしたちは、悪を自然界にみているが、この自然界にあらわれてくるおびただしい悪こそ、自然のなかの一つの不秩序を訴えるものではないだろうか。ひるがえって、人間自身の世界にも、やはり悪がある。弱さ、衰弱、苦しみ、死は、この世につきものである。

 これよりも酷いのは、わたしたちのうちに、たがいに敵対する二つの法律のあることである。すなわち、一つは善を好み、他は悪に傾いている。

 この相反する二つの法律ゆえに人は悩み、この悩みは、人にとって、はずかしいことだと、聖パウロは、あきらかに述べている。だからこそ、救いをもたらすめぐみ、つまり、キリストから与えられる救いと幸福が必要だと、かれは証明するのである(ローマ7章参照)。


 あの昔、異教徒の古代詩人〔オヴィディウス〕も、そのことを次のようになげいている、「わたしは、より善いことを見て、これに承諾するのに、かえって、より悪いことに従ってしまう」と(MET7・P)。

 またわたしたちは、罪にしばしば出会う。その罪こそ人間の自由のだらくで、わたしたちをいのちの泉である神からひきはなしてしまう。このためにこそ罪は死の深い原因となるのである(ローマ5・12)。

 ところで、わたしたち自身のうちにも、わたしたちのこの世界にも、くらやみに包まれた敵意をもつ原動者である悪魔がいて、罪は、この悪魔の干渉によってはじまり、完成されている。

 すると、もう悪は、「単なる不足でしかない」などとはいえないのである。それは、れっきとした一つの存在物である。しかも、霊的で、だらくしており、他人をさえ堕落にみちびく生きた存在物、恐ろしい現実である! 奥義にみち、恐怖をまきおこす現実なのだ!

 もし、この現実を認めない人があるとしたら、その人は、聖書の教えからも教会の教えからも、はなれてしまったのである。

 あるいはまた、この存在物を、他の被造物のように神につくられなかった、それ自身が存在の独立した原因となっているものと考える人もそうである。さらにまた、この存在物を、いつわりの現実であるときめつけ、それがわたしたちの禍いの、まだ知られていない原因を説明しようとして、想像ででっちあげた抽象的なものの人格化にすぎない、などと考える人もまた、聖書と教会の教えから、はなれているのである。

 とにかく悪の問題は、ひじょうに複雑である。それでわたしたちの一方的にしか働かない理性で考えると、それは矛盾とさえ思われる。こうして悪の問題は、わたしたちの心の圧迫となってくるのである。

 悪の問題はまた、宇宙についての、わたしたちの宗教的な理解の第一の妨げなやとなる。聖アウグスティヌスもこの問題について長い間悩んだが、それも無理からぬことだった。

 かれは、こう書いている、

「わたしは悪がどこから来るのか、しらべたが、解決は得られなかった」(「告白論」7、5、7、11など。PL舘、鵬、㎜)と。

 したがって、悪の存在を認めることは、世界と、生命と、救いのキリスト教的教えを正しく理解するうえに、ひじょうにたいせつであり、重大なことである。

 では、福音書の歴史に目をとめ、公生活のはじまろうとするあのときのことを考えてみよう。ここでキリストが三度までも、いざないをお受けになったことを思い出さない人はいないだろう。ここには、ひじょうに深い意味がふくまれている。

 あくまでまた福音書に出る多くのエピソードに、キリストは悪魔と出会い、キリストご自身の教えの中にも悪魔が出ている。そのお話しの中でキリストは、三度までもご自分の反対者である悪魔を「この世のかしら」(ヨハネ13・31。14・30。16・11)と呼んでおられることを思い出さねばならない。
じつに新約聖書の少なからぬ箇所で、悪魔の存在と、この世における恐るべきその影響を注意しているのである。

 聖パウロは、悪魔を「この世の神」(コリント後4・4)とよび、わたしたち信者は、たったひとりの悪魔とではなく、なおさら恐ろしいことに、たくさんの悪魔というくらやみの力と戦いをいどまねばならないと次のように注意している。

「悪魔の企てに刃向かうために、神の武具をすべてつけよ。わたしたちが戦けつにくけんせいうのは、血肉ではなく、権勢と能力、この世の闇の支配者、天にある悪霊だからである」(エフェゾ6・11…12)。

 福音からも、悪魔がひとりでなく、たくさんいることが、あちこちに明らかによみとれる。たとえば、ルカ11・21。マルコ5・9などである。

 その中でもとくに目立っているのは、サタンと呼ばれるものである。サタンとは、反対者、つまり敵を意味する。かれの多くの仲間は、やはりみな神につくられたのに、神にそむいて天罰をうけたもの、堕落者である(DENZ.SCH. 800-482)。それこそ、すさまじい不幸最大の悲劇でめちゃめちゃになった奥義にみちたある一つの世界である。わたしたちは、この世界については、ほんのわずかしか知らない。



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