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WIR SIND EIN VOLK 追記

2009-08-09 | ベルリン旅行 090516~
WIR SIND EIN VOLK
このキーワードを検索して私のブログに来て下さる方も多い。
ベルリン旅行から帰って来たばかり、興奮の中で書いた記事。
この間にもベルリンの壁崩壊までの出来事を調べたり
関連するTV番組を見たりして得た情報があるので
追記して見ようと思います。




1989年10月7日、DDR建国40周年の式典の様子↓
これが最後の建国記念式典となりました。
ドイツの国旗は黒、赤、金(黄色ではないんです!)の三色。
黒は勤勉、赤は情熱、金は名誉を意味しています。
さらにDDRのシンボル、コンパスは英知を ハンマーは労働を
それを囲む稲穂は実りを表しているのだそうです。



DDRのシンボルの下に
ミハイル・ゴルバチョフエーリッヒ・ホーネッカーの姿が見えます。



「東ドイツには失業者もホームレスもいない」
そう言ってなお体制を自画自賛するホーネッカーに対して
ゴルバチョフは「世の中は動いているということを理解しなければならない」と
これを痛烈に批判し 民主主義を容認する発言をしたそうです。
これは人々の中に社会主義の終焉を感じさせる出来事でした。



さて「WIR SIND EIN VOLK 」、「我々はひとつの民族だ」という言葉。
これは1989年10月9日にライプチヒで7万人を動員した反政府デモで声高に叫ばれた
「WIR SIND DAS VOLK」がのちに変化したものだそうです。
「WIR SIND DAS VOLK」とは「我々こそ人民だ」という意味。



↑ハンガリーの様子です。



↑ポーランドの様子です。

「我々こそ人民だ」という日本語訳がやや堅苦しい気がしていましたが
実はこれ、当時 東ドイツ人民警察が市民に対して威嚇的に使っていた
「我々は人民警察だ」というのを逆手にとったスローガン。
「我々こそが人民だ、あなた達政府ではない」という
強い、強い強い意味が込められています。

7万人のデモに対して政府は8000人のシュタージと軍隊も動員し対抗します。
この際、ホーネッカー↓は「必要なら銃器の使用を」と命じたそうです。
人民警察は同じライプチヒ市民に銃口を向ける様な、
人民警察の夫がデモに参加する妻子を撃つかもしれない様な危機にさらされました。




このハンガリーやポーランドで高まる民主化運動に刺激された
ライプチヒでの度重なるデモは 20万から30万人、最終的には57万人に膨れ上がり
やがて↓ベルリン、アレクサンダー広場での100万人のデモに繋がっていきます。
(しつこい様ですが右の高層ビルが私が宿泊したホテル
その最中、10月19日にホーネッカーが失脚。
この頃の政府には 市民の言論を抑圧する力も、
シュタージに弾圧を命じる力も残っていませんでした。







市民による大きな民主化運動のうねりに負け 国境が開放され
DDRが1961年、有刺鉄線やブロックから作り始めたベルリンの壁が
ついに崩壊します。
このベルリンの壁は西への亡命者が後をたたない理由から
地区によっては更に高く、更に厚く、そして二重構造に、と
1980年までの間に4回もの強化工事が行われました。
一番強化された所の壁は 地上からの高さ3.6メートルを超えていたり、
トンネルを掘られない様に地下2メートルも埋め込んだり、
分厚い所では厚さが1.2メートルにも及んだそうです。
このため壁が崩壊した際の良く見る映像で
ブランデンブルグ門付近の壁には何人もの人が登ることができたのです。





これまたしつこい様ですが、
ベルリンの壁は、ある日突然 崩壊したわけではなく
隣国ハンガリーやポーランドの影響や
1980年代後半からソ連で始まっていたペレストロイカ
そして何よりも、
抑圧の中で勇気ある小さな一歩を踏み出した市民の功績なのだと思います。



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