かなり唐突で突拍子も無いお話、MONさんあたりは腰ぬかしかねない、心して読むように。
とは言ったものの日本を発つ時に少しは話してきてあるし。
お家を貸していたのもこのあたりの布石だったりもしたわけでして、
ちょっと残念なことになってしまいましたが、関係が切れたわけでもありませんしね。
美甘は新たな一歩を踏み出します。
前の会社が解散した時に、このまま一生サラリーマンではいられないかもしれない、耐えられないそう思った。
でもそれは、親父が死んだ時にも漠然とあったものなのかもしれない。
物語はその辺りから始まっている。
それまでは、将来の夢は学校の先生とか考えていたような気がする。
ま、MONさんがそうであったし、他に特別何かって仕事の想像が付かなかった。
両親が通った大学に行って、大好きな鹿児島でのんびり子供たちに囲まれて・・・・・って思っていたような気がする。
てかそれしか想像できなかった。
親父の死は突然だった、ちょうど大学入試の時だった、
正月、合格祈願に行った岩津天満宮で父は真っ先に階段を駆け上っていった。
センター入試の日の朝、会場まで送ってもらった、家に帰ったらMONさんが途方にくれていた。
父が入院した、そう言っていた。ことが良く理解できなかった。
それから逝ってしまうまで約一ヶ月、怒涛のような日々であった。
思い返してみればもっと前から調子悪かったんだろうなと思う。
いらいらしていたんだろな、高校3年の一年間は喧嘩ばかりしていたような気がする。
その中で感じでいたのは、親父のような人生は嫌だな、であった。
傍から見たらごくごく普通のサラリーマン、何の不満もない、それなのに。
かなりまじめな人だったんだと思う、でもって不器用だったんだと思う。
やりたいことはもっと別にもあったんだとも思う。
でもそれをやりだすために、自分に与えられた仕事を投げ出すこが、あの人にはできなかったんだろうなと思う。
大学の学部からして、学校の先生に願書を変更され、本当は機械化にいきたかったのに応用科学になった、
そんな話しを聞いたことがある。
だから仕事も、本当にやりたかったこととはちょっと違っていたんじゃないかと思う。
こんなこと書くとMONさん否定するかな?
だから悪いってことじゃ無いんだ。
それでも一生懸命やっていたんだと思う。
だからこそ、糧にできる、それをこえてやろうといなくなった今でも思うのだ。
父は偉大であったのだ。
それは、こうやって自分が大人になるに連れ、さらに大きな重圧としてのしかかってくるのだ。
完全に勝ち逃げされた気分だ、卑怯だ(爆)
今ではそう思えるものの、大学に入学した当初は、かなり恨んだし、
自分自身のやっていることが、無駄なことのように思え、嫌で嫌で仕方がなかった。
このままで、満足がいく人生がおくれるのだろうかと、
大学を出て、学校の先生になったり、大きな会社に就職したり、それが果たして本当の意味で幸せなのかと、
親父のような人生になるだけなんじゃないのかと。
そして大学をやめ、模型メーカーに就職した。
しかしその後も職を点々とするのだか、それは別の話(汗)
当時は、模型と、音楽にはまっていた。
特に模型は、ほぼ毎日のようにショップに通い、そこに集ってくる常連さんと閉店後夜な夜な語り合った。
あげくの果てには、鹿児島全土を巻き込んで、モデラーズコンペティションなるものを開催するにいたった。
それは今でも、九州全土を巻き込みながら毎年開催されている。
だから、それを仕事にしたかった、これが本当にやりたいことなんだと思えた。
そして当時、今でも、今では一部お人形さんメーカーなんて批判も有るが、間違いなく日本一であったVOLKSを目指した。
そこの社長は今でも尊敬していて、当時社長が良く言っていた言葉
「未来完了系で感謝しろ!!!!!」
は今でも美甘の座右の銘となっていて、いつも心に刻みつけ、今までなんとかやってきた。
日本を発つ時に心に思い描いたもの、それはまだ漠然としていて、語るも恥ずかしい夢物語であったのだが、
それでも赴任が明け、日本に帰るときにはどうしたいと、ある程度は心に決めた。
それでもなかなか前に進めず、その気力も体力もなく
方法論さえもわからずに焦り、もがき苦しみ、矢のようにすぎる日々にいらいらしていた。
それがヤット、兆しだけでも見えてきた。
もちろんまだまだこれで軌道に乗れるわけでも無いし、一回こっきりで終わってしまうかもしれない。
それでもちょっと一歩踏み出せただけでも今までの美甘からしたら大きな進歩なのであった。
今までは、こういったことは、あまりにも個人的すぎて、ブログに載せるのはどうかと思いながら極力書き控えていました。
しかしそれでは前に進めない、人の反感を買うかもしれない、しかしそれを恐れていては前に進めない。
いつも書く、公表することによって公の力を借りる、しかしなかなか実を結ばなかった。てか自分がやらなかっただけ(汗)
だけど今度ばかりは真剣なのだ、本気と書いてマジなのだ。
皆さんの力をお借りしたい。甘えるしか無い部分も大すぎて恐縮なのだが・・・。
美甘は、近い将来独立して、「Mプロジェクト」を会社にします。(爆)
さしあたりの開業の目標は、3年後、今の赴任期間の満期をもって日本に帰国、そしたら正式に。
それまでは、個人販売の形を借りて、メール等で対応できる範囲で仕事を請けながら活路を切り開いていきます。
とりあえずは、先日も紹介した、Takeru Soft Wareさん 経由で個人的にお仕事をお受けするのがメインになるかと思います。
もちろん個人的にご依頼いただいてもOKです(爆)
本格的に軌道に乗り、上記の期間よりも早くめどが付くのなら、会社を辞めてでも日本に帰るかも知れません。
そのくらい本気です。
て、こんなこと書いちゃって本当によいのかな?
言ってしまったぞ、やってしまったぞ爆弾発言、これで後に引けなくなったぞ(汗)
とりあえず会社にはまだ秘密、てかばれるとやばいし・・・・・(汗)
とは言ったものの日本を発つ時に少しは話してきてあるし。
お家を貸していたのもこのあたりの布石だったりもしたわけでして、
ちょっと残念なことになってしまいましたが、関係が切れたわけでもありませんしね。
美甘は新たな一歩を踏み出します。
前の会社が解散した時に、このまま一生サラリーマンではいられないかもしれない、耐えられないそう思った。
でもそれは、親父が死んだ時にも漠然とあったものなのかもしれない。
物語はその辺りから始まっている。
それまでは、将来の夢は学校の先生とか考えていたような気がする。
ま、MONさんがそうであったし、他に特別何かって仕事の想像が付かなかった。
両親が通った大学に行って、大好きな鹿児島でのんびり子供たちに囲まれて・・・・・って思っていたような気がする。
てかそれしか想像できなかった。
親父の死は突然だった、ちょうど大学入試の時だった、
正月、合格祈願に行った岩津天満宮で父は真っ先に階段を駆け上っていった。
センター入試の日の朝、会場まで送ってもらった、家に帰ったらMONさんが途方にくれていた。
父が入院した、そう言っていた。ことが良く理解できなかった。
それから逝ってしまうまで約一ヶ月、怒涛のような日々であった。
思い返してみればもっと前から調子悪かったんだろうなと思う。
いらいらしていたんだろな、高校3年の一年間は喧嘩ばかりしていたような気がする。
その中で感じでいたのは、親父のような人生は嫌だな、であった。
傍から見たらごくごく普通のサラリーマン、何の不満もない、それなのに。
かなりまじめな人だったんだと思う、でもって不器用だったんだと思う。
やりたいことはもっと別にもあったんだとも思う。
でもそれをやりだすために、自分に与えられた仕事を投げ出すこが、あの人にはできなかったんだろうなと思う。
大学の学部からして、学校の先生に願書を変更され、本当は機械化にいきたかったのに応用科学になった、
そんな話しを聞いたことがある。
だから仕事も、本当にやりたかったこととはちょっと違っていたんじゃないかと思う。
こんなこと書くとMONさん否定するかな?
だから悪いってことじゃ無いんだ。
それでも一生懸命やっていたんだと思う。
だからこそ、糧にできる、それをこえてやろうといなくなった今でも思うのだ。
父は偉大であったのだ。
それは、こうやって自分が大人になるに連れ、さらに大きな重圧としてのしかかってくるのだ。
完全に勝ち逃げされた気分だ、卑怯だ(爆)
今ではそう思えるものの、大学に入学した当初は、かなり恨んだし、
自分自身のやっていることが、無駄なことのように思え、嫌で嫌で仕方がなかった。
このままで、満足がいく人生がおくれるのだろうかと、
大学を出て、学校の先生になったり、大きな会社に就職したり、それが果たして本当の意味で幸せなのかと、
親父のような人生になるだけなんじゃないのかと。
そして大学をやめ、模型メーカーに就職した。
しかしその後も職を点々とするのだか、それは別の話(汗)
当時は、模型と、音楽にはまっていた。
特に模型は、ほぼ毎日のようにショップに通い、そこに集ってくる常連さんと閉店後夜な夜な語り合った。
あげくの果てには、鹿児島全土を巻き込んで、モデラーズコンペティションなるものを開催するにいたった。
それは今でも、九州全土を巻き込みながら毎年開催されている。
だから、それを仕事にしたかった、これが本当にやりたいことなんだと思えた。
そして当時、今でも、今では一部お人形さんメーカーなんて批判も有るが、間違いなく日本一であったVOLKSを目指した。
そこの社長は今でも尊敬していて、当時社長が良く言っていた言葉
「未来完了系で感謝しろ!!!!!」
は今でも美甘の座右の銘となっていて、いつも心に刻みつけ、今までなんとかやってきた。
日本を発つ時に心に思い描いたもの、それはまだ漠然としていて、語るも恥ずかしい夢物語であったのだが、
それでも赴任が明け、日本に帰るときにはどうしたいと、ある程度は心に決めた。
それでもなかなか前に進めず、その気力も体力もなく
方法論さえもわからずに焦り、もがき苦しみ、矢のようにすぎる日々にいらいらしていた。
それがヤット、兆しだけでも見えてきた。
もちろんまだまだこれで軌道に乗れるわけでも無いし、一回こっきりで終わってしまうかもしれない。
それでもちょっと一歩踏み出せただけでも今までの美甘からしたら大きな進歩なのであった。
今までは、こういったことは、あまりにも個人的すぎて、ブログに載せるのはどうかと思いながら極力書き控えていました。
しかしそれでは前に進めない、人の反感を買うかもしれない、しかしそれを恐れていては前に進めない。
いつも書く、公表することによって公の力を借りる、しかしなかなか実を結ばなかった。てか自分がやらなかっただけ(汗)
だけど今度ばかりは真剣なのだ、本気と書いてマジなのだ。
皆さんの力をお借りしたい。甘えるしか無い部分も大すぎて恐縮なのだが・・・。
美甘は、近い将来独立して、「Mプロジェクト」を会社にします。(爆)
さしあたりの開業の目標は、3年後、今の赴任期間の満期をもって日本に帰国、そしたら正式に。
それまでは、個人販売の形を借りて、メール等で対応できる範囲で仕事を請けながら活路を切り開いていきます。
とりあえずは、先日も紹介した、Takeru Soft Wareさん 経由で個人的にお仕事をお受けするのがメインになるかと思います。
もちろん個人的にご依頼いただいてもOKです(爆)
本格的に軌道に乗り、上記の期間よりも早くめどが付くのなら、会社を辞めてでも日本に帰るかも知れません。
そのくらい本気です。
て、こんなこと書いちゃって本当によいのかな?
言ってしまったぞ、やってしまったぞ爆弾発言、これで後に引けなくなったぞ(汗)
とりあえず会社にはまだ秘密、てかばれるとやばいし・・・・・(汗)