最初に【任意性公理】として「任意の集合から任意の部分集合を要素として取り出すことが可能である」を採択します・・。
これは「袋の中にn個のキャンディーが入っていたとすると0~n個までの任意の個数のキャンディーを取り出すことが可能である」とする経験事実によるものです。言わば(物理学でいう)【思考実験による数学】という新しいジャンルを創成したと考えても良いでしょう。さらに「集合は従来通りに単一成分からなる要素の羅列として表現される」を貫きますと、
{1,2,3}={{1},{2},{3},{1,2},{2,3},{3,1},{1,2,3}}
つまり、任意の集合Xのベキ集合をXpで表しますと「X=Xp」が成立します!
これは、集合の濃度の計算からみたらトンデモナイ結果であるように思われるかもシレマセンが、まず第一に(もちろん)《ラッセルのパラドクス》を最初から回避することができますし、第二に、ふだん使っている代数や解析において通用する“唯一無二の”方法論なのです。ま、もちろん唯一無二という言葉について「それがどーして分かるのか」とする疑問は当然の如く生じてくるだろうと、読者諸賢について認識しておりますが、それ、そこのところは“大言壮語癖”とでも思って見過ごしてイタダキタイものです。
(本当の事かどうか、とか、今までのところ、とか、あまり考察したことがゴザイマセンもので・・)
例えば、関数論とか微積分学におきまして定義域とか値域とか出てくる、その定義域とか値域とかが、いうなれば実数全体の集合から取り出した要素として扱うことができるのですよ。「実数全体の集合」といえば、自然数だとか、整数だとか、あるいは定義域だとか値域だとかの部分集合が「速やかに実数全体の集合の要素として取り出されて出てくる」といった“魔法”が使えるように変わるのです。
言わば【選択公理】だけではどうしてもできなかったことが可能になるのです!
さらに(無制限な)【内包公理】を集合論に持ち込もうとも“びくともしない”無矛盾な体系です・・。
もちろん頭のかたい先生方からは「集合とベキ集合とでは濃度が異なるのにイコールで結ぶとは怪しからん」とおしかりを受けることでしょうけど、なによりも「内包公理は自明事項である」とする“思い”の方がずーっと強いのです。
「ϕ(x) が成り立つ x 全体の集合が存在する」(内包公理)
みろ、これじゃラッセルのパラドクスは振り出しに戻ってまた出てくると、まー、そのように思われたりするでしょうけど、そこは、それ、なんと「この公理系においては自分自身を要素として含まない集合が最初から存在しない」が成立しますから、アッと驚く為五郎的に「どこまで行ってもラッセルのパラドクスそのものが構成すらされない」ということなのです。
これは「袋の中にn個のキャンディーが入っていたとすると0~n個までの任意の個数のキャンディーを取り出すことが可能である」とする経験事実によるものです。言わば(物理学でいう)【思考実験による数学】という新しいジャンルを創成したと考えても良いでしょう。さらに「集合は従来通りに単一成分からなる要素の羅列として表現される」を貫きますと、
{1,2,3}={{1},{2},{3},{1,2},{2,3},{3,1},{1,2,3}}
つまり、任意の集合Xのベキ集合をXpで表しますと「X=Xp」が成立します!
これは、集合の濃度の計算からみたらトンデモナイ結果であるように思われるかもシレマセンが、まず第一に(もちろん)《ラッセルのパラドクス》を最初から回避することができますし、第二に、ふだん使っている代数や解析において通用する“唯一無二の”方法論なのです。ま、もちろん唯一無二という言葉について「それがどーして分かるのか」とする疑問は当然の如く生じてくるだろうと、読者諸賢について認識しておりますが、それ、そこのところは“大言壮語癖”とでも思って見過ごしてイタダキタイものです。
(本当の事かどうか、とか、今までのところ、とか、あまり考察したことがゴザイマセンもので・・)
例えば、関数論とか微積分学におきまして定義域とか値域とか出てくる、その定義域とか値域とかが、いうなれば実数全体の集合から取り出した要素として扱うことができるのですよ。「実数全体の集合」といえば、自然数だとか、整数だとか、あるいは定義域だとか値域だとかの部分集合が「速やかに実数全体の集合の要素として取り出されて出てくる」といった“魔法”が使えるように変わるのです。
言わば【選択公理】だけではどうしてもできなかったことが可能になるのです!
さらに(無制限な)【内包公理】を集合論に持ち込もうとも“びくともしない”無矛盾な体系です・・。
もちろん頭のかたい先生方からは「集合とベキ集合とでは濃度が異なるのにイコールで結ぶとは怪しからん」とおしかりを受けることでしょうけど、なによりも「内包公理は自明事項である」とする“思い”の方がずーっと強いのです。
「ϕ(x) が成り立つ x 全体の集合が存在する」(内包公理)
みろ、これじゃラッセルのパラドクスは振り出しに戻ってまた出てくると、まー、そのように思われたりするでしょうけど、そこは、それ、なんと「この公理系においては自分自身を要素として含まない集合が最初から存在しない」が成立しますから、アッと驚く為五郎的に「どこまで行ってもラッセルのパラドクスそのものが構成すらされない」ということなのです。
可算も非可算もみな同じ・・・・・。