松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

和井内貞行と「情報」

2014年09月11日 08時04分43秒 | 日記
ヒメマス

井内貞行がヒメマス(カパチェッポ)の回帰をみたのは明治38年の晩秋だった。最初に鯉を放してからじつに22年の歳月がたっている。それにしても、もっと早く成功することはできなかったのだろうか。

明治政府は魚肉を供給するために積極的に魚の移植を推進した。魚のすまない湖に移植したり、魚種をふやしたりしようとした。まず政府が目をつけたのは中禅寺湖だった。中禅寺湖はもともと魚はすんでいなかった。そこで明治6年にイワナを放流した。明治14年には農商務省水産局が日光に孵化場をもうけ、サケマスの養殖に力を入れている。和井内が十和田湖での養魚を決意しはじめて鯉を放流したのは17年であるから、養魚の動きは政府にずっと遅れたが、これは非難されることでもなんでもない。むしろ国がまだ養魚方法を確立する前に個人で挑戦していった点をほめるべきだろう。

しばらくあと、北海道でも独自の試みが起こった。阿寒湖に生息するカパチェッポに、北海道千歳孵化場主任の藤村信吉が目をつけて支笏湖に移植した。27年のことである。3年後に回帰がみられみごとに成功した。そこで藤村は卵を採り、他所から求めがあれば応じられる体制をつくった。体制がととのったのは33年のことだった。

この朗報が和井内の耳に入ったのは35年のこと。しかも公的機関を通じてではなく、一会社員から偶然聞いたにすぎない。これがなんとも不思議だ。30年から35年までの間、和井内は試行錯誤をくりかえし、公的機関に何度も最新の養魚情報をとりに行っているのだ。



たとえば30年10月から翌31月4月まで、和井内の長男貞時は貞行の指示にしたがって、官営日光孵化場に研究のため派遣されている。このとき支笏湖での成功のニュースにふれることはなかったのだろうか。もし知っていれば、3年ほど早く成功したはずである。しかし結論からいえば、なかったようだ。当時はインターネットもなく、情報入手には時間がかかったのか、また北海道と国との間では情報の共有化が不十分だったのか原因はわからない。ついで貞時は31年5月から東京水産伝習所に派遣されている。東京水産伝習所といえば当時の水産技術や情報に関する国内最高のセンターである。なぜ貞時はここでもカパチエツポの情報を仕入れることができなかったのか。

疑問はまだある。和井内は東京水産伝習所からもどった貞時からサケマスの養殖が有望であることを聞き、31年10月からすぐにマスの養殖に着手した。卵は日光養鱒所から毎年仕入れたので、当然カバチエツポの情報に接してもよかったはずである。

34年には旧知の松原新之助がわざわざ十和田湖に来て和井内にさまざまな助言をした。松原といえば日本水産行政の中心にあり、36年には東京水産講習所(現東京海洋大学)の初代所長に就任した権威でもある。その人物が十和田湖と条件の似た支笏湖での成功事例を知らなかったのだろうか。いや、そんなことはあるまい。ならばなぜ和井内に情報が伝わらなかったのだろうか。

十和田湖は青森秋田いずれに属するのかずっと対立がつづいてきた場所である。和井内は秋田人ではあるが、意識のうえでは青森とも近かった。だから二男貞実を34年に青森水産試験場に学ばせている。ところで、このころの青森水産試験場では、すでに支笏湖の成功事例を正確に把握していたものとおもわれる。というのは、翌35年に和井内が青森市にある東北漁協本部でたまたま部外者から支笏湖の成功事例を聞いたとき、青森水産試験場では支笏湖からカバチエツポの卵を入手することが決定していたとみられる。そうだとすればそうした情報や動向は、公的機関を通じて和井内の耳に直接届いてもよかったのではないか。和井内が十和田湖での養魚事業に苦しんでいることは秋田青森両県では周知のことであったし、水産行政・教育の中心にあった松原新之助さえ知人であることもよく知られていたのに、なぜだったのだろうか。

結果としては、和井内は支笏湖の事例に自力でたどりついて成功した。しかしもっと早く成功するきっかけがたくさんあったのではないか。いかに情報インフラが未整備の若い時代だったとはいえ、気の毒だったな、と百年余のちを生きる私はおもう。

いずれも青森県農林水産部HPより

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