松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

佐藤勝蔵のこと・・・十和田湖畔

2014年09月07日 18時12分26秒 | 日記
和井内カツ子すなわち貞行の妻が亡くなったのは明治40年5月のことだった。ヒメマス養殖の成功をみとどけて安心したような最期だった。遺骨は毛馬内の菩提寺に葬られた。

そのとき十和田湖畔の人々は貞行に、どうかカツ子さんの霊を湖畔に祀らせてほしいと懇願した。なかでも深く頭を下げたのが佐藤勝蔵だった。貞行が許すがはやいか勝蔵は神社の建築を毛馬内の棟梁に頼みに行っている。勝漁神社と名づけられた。カツ子の「勝」、豊漁の「漁」をとったという。


和井内神社 秋田県HPより

和井内貞行は歴史に名をのこしたが、佐藤勝蔵は無名のまま埋もれた人である。しかし高瀬博「われ幻の魚をみたり」を読んでいたら、妙に気にかかった。

勝蔵は現在の岩手県花巻市に生まれ、鉱夫としていくつかのヤマを流れ、十和田鉱山にたどり着いた。ここで和井内と一緒に働いた。和井内が魚の養殖をこころざした最初から、手伝っている。のこっている写真をみると、肩幅が広く、精悍な顔つきである。

十和田鉱山の休山にともなって和井内が小坂鉱山に異動になったときには、留守をあずかって魚の面倒をみている。その後、和井内が養殖一本にかけて、成功するまでのおよそ20年間の苦しいときにも、勝蔵は和井内のそばで一緒に耐えながら働いている。

勝蔵は一個の大人である。なぜ「あやしげな」夢をみる和井内にしたがい続けたのだろうか。和井内にはカリスマ性は乏しかったようにみえるが、夢に向かって自身を律していく姿勢は並の人を超えていたから、あるいはそこにひかれたのかもしれない。しかしそれだけだろうか。

あるエピソードが描かれている。まだヒメマスに着手する前の明治24年、和井内は県から漁業権をもらつた。ところがせっかく育った鯉が盗まれる。警戒していたある日、勝蔵が鯉泥棒をつかまえた。みると、いつも和井内を狂人よばわりする輩だった。和井内は怒って、勝蔵に命じ、泥棒を小屋の柱につながせた。秋の夜は冷える。カツ子は貞行に、こんなことをすると恨みをかってかえって困ることになると諄々にといた。つぎに、小屋に入って、男の縄をときながら、情理をつくしてしずかに諭した。男はそれを聞いているうちに、涙を流し両手をついて詫びた。一部始終をかたわらでみていた勝蔵は、腕を組んだままうんと唸ってしまつた。その後はひとに逢うたびに、和井内のおかみさんにはかなわない、とすっかり心服した口調だつたという。

勝蔵はもちろん貞行の仕事にはつかえたが、それとは違った意味でカツ子には恭順したのではないか。カツ子は包み込むようなやさしさを持つ人だつたのだろう。いわば大いなる母性である。そこに勝蔵は圧倒されたのではなかつたろうか。だから、カツ子を神として祀りたいと熱望したのではなかったろうか。

私は勝蔵のことを思いながら、同時にカツ子のことも考えていた。勝蔵とカツ子。この二人の献身がなければ、貞行の成功がなかったことはまちがいない。

それはともかく、一人の人物の軌跡をたどると、さまざまな無名なひととの交叉がある。しかし歴史のなかに埋れていったひとの側にもそれぞれの人生があったのだ。おそらく勝蔵は勝漁神社(のち和井内神社)をまもりながら、幸せだと思って死んでいったことだろう。そういう声なき声をききとどけたいと私はおもっている。

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