牡鹿・大六天山(だいろくてんやま) 梵鐘(ぼんしょう)
【データ】 牡鹿・第六天山 439メートル▼最寄駅 JR石巻線・女川駅▼登山口 宮城県女川町のコバルトライン駐車場▼石仏 大六天山南東の三国神社ピーク、地図の赤丸印▼地図は国土地理ホームページより
【案内】 大六天山の登山口は、牡鹿半島中央の山脈をぬうコバルトラインの女川湾が一望できる駐車場。山頂までは途中不明瞭なところもあるが道が続く。ここに取り上げる梵鐘がある三国神社は、大六天山頂手前から南の尾根に入った小ピーク。社殿の前の広場に梵鐘が置かれている。かつては鐘楼に吊り下げられていたが、5年前の東日本大震災の地震で崩壊したのであろう、その残骸が広場のすみに残っていた。
この鐘楼に刻まれた銘を要約よると、「天保7年(1836)の冬、山賊が梵鐘を盗もうとしたが神威厳しく果せなかった。しかし同14年春、氏子たちが相談して穢れを取り除くため造りかえた。それも昭和18年、第二次世界大戦の国策のため供出してしまった。戦後7年すぎ、国も人も回復してきたのは神の加護によるところ多いことを信じて、また先祖の志に応えるため再鋳造し奉納した」とあり、「高白・横浦・大石浦・野々浜・飯子浜・塚浜」など、女川湾内の五部浦湾の集落銘もあって、古くから地元の人の信仰が厚かったことがわかる。高さ120、直径75センチの大きな梵鐘はまだ地に伏しているが、いずれ鐘楼にかかることであろう。
三国神社社殿の狛犬が、その鐘楼を見つめるように並んでいた。
【独り言】 牡鹿の大六天は、仏教の他化自在天(たけじざいてん)である第六天を祀った山に違いないと登ってみました。この仏、かつて招福の神として関東地方を中心に広く祀られていました。それが明治の神仏分離でその存在を否定されたような扱いをうけ、神名の変更や合祀されて姿を消したことを神奈川の高松山の第六天で案内しました。しかしこの仏の石像、山ではまだみたことがありません。牡鹿の大六天山で何か見つかるかもしれないと期待したのですが、だめでした。
先に案内した梵鐘の銘には「三国神社は祭神彦火々出見命にして」とありました。彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)は日本神話の説話に登場する「海幸山幸」の山幸彦(やまさちひこ)。山の上の神社にふさわしい祭神ですが、江戸時代から梵鐘があったことからここに寺があったか、あるいは神社を管理する別当がいたのかもしれません。
山に鐘を奉納した集落が、大六天山近くの女川湾の尾浦という集落の山にもありましたので、『女川町誌』(女川町誌編纂委員会、昭和35年)から要約して紹介します。尾浦集落の西にある御殿峠近くにあったのが羽黒大権現を祀った御殿山。修験者が常住していて、大漁のお礼として権現に鐘を奉納してはと村の主だった人に提案。尾浦はじめ近隣の浜々の賛同も得、伊達梁川(福島県)の鐘師を呼んで鋳造したそうです。できたのは五十貫の大梵鐘。尾浦の人が総出のほか近隣の浜々の応援をたのみ、橇にのせて山へ運び上げました。しかしこの鐘も第二次世界大戦のとき供出されてしまい、再建されることはなかったようです。牡鹿の漁村では山の寺社に鐘を奉納することが流行ったのでしょうか、この後登った高山には半鐘がありました。