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偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏691牡鹿・大六天山(宮城)梵鐘

2016年10月28日 | 登山

牡鹿・大六天山(だいろくてんやま) 梵鐘(ぼんしょう)

【データ】 牡鹿・第六天山 439メートル▼最寄駅 JR石巻線・女川駅▼登山口 宮城県女川町のコバルトライン駐車場▼石仏 大六天山南東の三国神社ピーク、地図の赤丸印▼地図は国土地理ホームページより



【案内】 大六天山の登山口は、牡鹿半島中央の山脈をぬうコバルトラインの女川湾が一望できる駐車場。山頂までは途中不明瞭なところもあるが道が続く。ここに取り上げる梵鐘がある三国神社は、大六天山頂手前から南の尾根に入った小ピーク。社殿の前の広場に梵鐘が置かれている。かつては鐘楼に吊り下げられていたが、5年前の東日本大震災の地震で崩壊したのであろう、その残骸が広場のすみに残っていた。
 この鐘楼に刻まれた銘を要約よると、「天保7年(1836)の冬、山賊が梵鐘を盗もうとしたが神威厳しく果せなかった。しかし同14年春、氏子たちが相談して穢れを取り除くため造りかえた。それも昭和18年、第二次世界大戦の国策のため供出してしまった。戦後7年すぎ、国も人も回復してきたのは神の加護によるところ多いことを信じて、また先祖の志に応えるため再鋳造し奉納した」とあり、「高白・横浦・大石浦・野々浜・飯子浜・塚浜」など、女川湾内の五部浦湾の集落銘もあって、古くから地元の人の信仰が厚かったことがわかる。高さ120、直径75センチの大きな梵鐘はまだ地に伏しているが、いずれ鐘楼にかかることであろう。


 三国神社社殿の狛犬が、その鐘楼を見つめるように並んでいた。

【独り言】 牡鹿の大六天は、仏教の他化自在天(たけじざいてん)である第六天を祀った山に違いないと登ってみました。この仏、かつて招福の神として関東地方を中心に広く祀られていました。それが明治の神仏分離でその存在を否定されたような扱いをうけ、神名の変更や合祀されて姿を消したことを神奈川の高松山の第六天で案内しました。しかしこの仏の石像、山ではまだみたことがありません。牡鹿の大六天山で何か見つかるかもしれないと期待したのですが、だめでした。


 先に案内した梵鐘の銘には「三国神社は祭神彦火々出見命にして」とありました。彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)は日本神話の説話に登場する「海幸山幸」の山幸彦(やまさちひこ)。山の上の神社にふさわしい祭神ですが、江戸時代から梵鐘があったことからここに寺があったか、あるいは神社を管理する別当がいたのかもしれません。
 山に鐘を奉納した集落が、大六天山近くの女川湾の尾浦という集落の山にもありましたので、『女川町誌』(女川町誌編纂委員会、昭和35年)から要約して紹介します。尾浦集落の西にある御殿峠近くにあったのが羽黒大権現を祀った御殿山。修験者が常住していて、大漁のお礼として権現に鐘を奉納してはと村の主だった人に提案。尾浦はじめ近隣の浜々の賛同も得、伊達梁川(福島県)の鐘師を呼んで鋳造したそうです。できたのは五十貫の大梵鐘。尾浦の人が総出のほか近隣の浜々の応援をたのみ、橇にのせて山へ運び上げました。しかしこの鐘も第二次世界大戦のとき供出されてしまい、再建されることはなかったようです。牡鹿の漁村では山の寺社に鐘を奉納することが流行ったのでしょうか、この後登った高山には半鐘がありました。

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石仏690亘理・愛宕山(宮城)愛宕大権現

2016年10月24日 | 登山

亘理・愛宕山(あたごやま) 愛宕大権現(あたごだいごんげん)


【データ】 愛宕山 148メートル▼最寄駅 JR常磐線・亘理駅▼登山口 宮城県亘理町の亘理駅▼石仏 愛宕山山頂、地図の赤丸印▼地図は国土地理ホームページより



【案内】 亘理(わたり)町の愛宕山は阿武隈山地最北の山の一つ。阿武隈山地の西山麓を流れる阿武隈川もここ亘理で太平洋にそそぐ。その街の西外れにある小さな山が愛宕山。山頂には愛宕大権現を祀った大きな石祠が鎮座する。石で縁取りした土檀の中央に祀られた石祠の高さは台座もいれて175センチ。品のある石祠である。登山口は東側の亘理と角田を結ぶ街道側で、鳥居をくぐってすぐ急な石段が始まる。
 愛宕山の本山は京都の西にある愛宕山で、本尊は勝軍地蔵。戦の神でもあるが、古くから火伏の神としての信仰が厚い。江戸時代初めに江戸に勧請されたことにより、地方の大名もこれに倣って勧請されたことから全国に広まった。勧請先は本山と同じ街の西の山とすることを基本とし、急な石段を設けているのもこの山の特徴である。
 亘理は伊達藩の出城(要害)の一つの亘理要害があった町。愛宕山に愛宕大権現を勧請したのは、領主の「伊達安房守成實」と登山道の途中に立つ「石碑」に説明されていた。成實が亘理要害に入ったのは慶長7年(1603)、同じ頃江戸には愛宕山が勧請されていた。
【参照】 愛宕山の本山は京都の愛宕山で、勝軍地蔵は福島の天栄村・愛宕山で、愛宕の猪は栃木の瀬尾・愛宕山で案内した。

【独り言】 一国一城であった江戸時代に、伊達藩は仙台のほかにも多くの出城を構えた特別の統治形態で成り立っていました。出城では都合が悪いので要害と呼んでいます。これが広大な伊達藩の各所にあり、北部の大和町の但木氏については七ツ森・鎌倉岳で案内しましましたが、なかでも亘理の伊達成實は戦国期より正宗を支えた武将で、正宗の九男・宗実を養子にむかえたことから、伊達直径の一族でした。亘理の街の人もそれを誇りとしているようで、山を下りてから会った散歩中の初老の男に、亘理伊達家の墓地がある大雄寺の見学を勧められました。




 しかし散歩の男が話すには、愛宕山の信仰は薄れるばかりで、中腹にあった社殿は潰れたままなのは情けないと嘆いていました。確かに登山道は荒れ気味で、途中にあった「元禄十一年寅(1698)」銘のある阿弥陀の石仏は倒れていたので、立てておきました。写真上は愛宕神社社殿、中央は阿弥陀如来、下は大雄寺の亘理伊達家墓地。

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石仏689深山(宮城)蚕神

2016年10月21日 | 登山

深山(しんざん) 蚕神(かいこかみ)


【データ】 深山 286メートル▼最寄駅 JR常磐線・山下駅(東日本大震災で津波の被害を受けた線路と駅舎は、ただいま山側に1キロほど移して建設中)▼登山口 宮城県山元町山寺の深山山麓少年の森▼石仏 深山山頂、地図の赤丸印▼地図は国土地理ホームページより



【案内】 南の茨城から福島と連なる阿武隈山地は北の宮城まで続き、深山は北の外れに位置する山。登山口は東山麓からで、山元町の町民の山として道が整備されている。この日は深山山麓少年の森から。雷神・巳待・青麻三光宮ほか多くの文字塔が並ぶ深山神社の境内から登る。深山の山頂には鎮魂の鐘、石祠、「蚕神」の文字塔が祀られていた。石祠の祭神は不明。「蚕神」は明治四十四年」、「八十八相講中」の造立。八十八相はわからない。登山口の深山神社境内には明治二十五年造立の「蠶供養」銘の石塔があった。この地方も養蚕が盛んだったのであろう。
【参照】 雷神は矢越山(岩手)、巳待は猪狩山(埼玉)、三光宮は船形山(宮城)で案内した。


【独り言】 山頂に平成27年4月竣工の「鎮魂の鐘」が建っています。壁のメッセージボードに「東日本大震災の 巨大津波に逝きし 愛しき人々の御魂に この鐘の音を捧ぐ」とありました。鐘の先には広い水田、その先には太平洋が穏やかに広がっていました。山側に1キロほど移して建設中の新しい常磐線は、間もなく開通の見込みです。

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石仏688西桂・金峰山(山梨)忠魂碑、経王塔

2016年10月17日 | 登山

郡内・金峰山(きんぽうやま)忠魂碑(ちゅうこんひ)、経王塔(きょうおうとう)


【データ】 金峰山 871メートル▼最寄駅 富士急行線・三つ峠駅▼登山口 山梨県西桂町の三つ峠▼石仏 登山口、地図の赤丸印。青丸は浅間諏訪神社▼地図は国土地理ホームページより


【案内】 三つ峠駅から三ッ峠の道に入り、少し歩いて左に曲がると浅間諏訪神社。仏眼寺をすぎて右の山へ登る舗装された道が金峰山の登山口で、少し登ると大きな忠魂碑が立つ広場に出る。忠魂碑は国家のために尽くした人を記録した石碑。二基並ぶ忠魂碑の一つは日露戦争のもの、一つは太平洋戦争のものである。碑の前には平日なのに日の丸が掲揚されていた。日本では昔から〝旗日〟と称して祝日だけ国旗を掲揚してきた。それを見て育った古い人間の目には珍しく映った。もっともアメリカで、いつでもどこにでも星条旗がはためている光景を見てからは、国旗を大切にしなければと思うようになってはいた。


 忠魂碑から山道となり、歩きやすい手入れされた道が続く。富士も見える。しかしこの道は標高800あたりで北側に下ってしまうので、広い尾根を西の高みに向かって直進する。踏み跡はない。三角点があったらそこが金峰山の山頂で、石造物はない。展望もない。この尾根は三ッ峠へ通じていて、踏み跡も出てくる。しかしこの日は白糸ノ滝に行くべく、金峰山のさらに西の891ピークから南西に向って下降した。運良く殿入鉱泉の近くの堰堤に降りた。


【独り言】 経王塔 登山口の浅間諏訪神社で「経王塔」銘の石塔を見ました。「経王」はあまたある仏教の経典のなかでも最も尊い法華経・大般若経などをいう……と辞書には説明されています。ですから「経王塔」はこれらの経典を供養するために建てた石塔となります。造立は「寛政七竜集乙卯(1795)七月」とありました。「竜集(りょうしゅう)」も辞書から説明します。「竜は1年に1周する星の名、集は宿りの意味。年号の下につけ、下に干支を伴って記す語」。


 この地方には経典を供養する風があるのでしょう、三つ峠駅か一つ先の寿駅近くの福昌寺には「経王書石塔」がありました。こちらはお経を石に書いて埋めたうえに石塔を建てたものなのでしょう。同じような石塔に「一字一石塔」がありますが、これは三ッ峠の山中の一字一石塔で案内しました。

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石仏687三ッ峠・白糸ノ滝(山梨)金色姫

2016年10月14日 | 登山

三ッ峠・白糸ノ滝(しらいとのたき)金色姫(こんじきひめ)三十三観音(さんじゅうさんかんのん) 


【データ】 三ッ峠・白糸ノ滝 900メートル▼最寄駅 富士急行線・寿駅▼登山口 山梨県富士吉田市上暮地の寿駅▼石仏 白糸ノ滝、地図の赤丸印。青丸は「白糸瀧入口」の道標▼地図は国土地理ホームページより

【案内】 この国の養蚕の誕生に二つの伝承がある。一つは東北のオシラガミ様に代表される馬と娘の婚姻の話、これは中国の『捜神記』に出ている(捜神記と蚕神は木曽駒ヶ岳で案内した)。一つは関東の蚕玉神の本山とされる、茨城県つくば市筑波町にある蚕影神社の天竺の娘が舟で常陸の海岸に漂着したという話で、これは日本で創作されたようである。ここに案内する金色姫は蚕影神社伝承の天竺の姫である。
 この伝承を『日本石仏辞典』(昭和50年、庚申懇話会)から案内する。「天竺国の娘が継母の殺害を逃れるが、父王は逃れがたいことを感じ、舟にのせ、桑の木のカイをつけて海にながしてしまう。舟は常陸の海岸に漂着し、姫は助けられるが、間もなく死んでしまう。姫の遺骸を納めた棺の中から虫がわき出し(略)この虫が蚕である」。この伝承がもとになって、桑の枝を手にする女神の蚕玉神が関東甲信地方に造立されてきた。しかし金色姫の石像は普及しなかったようで、これまで見ていない。


 三ッ峠の白糸ノ滝で見た像は陶製で神銘は不明ながら、蚕影神社の木祠に納められていたので、石像でもなく、それほど古い像でもなく、御神体らしくもないが、金色姫として取りあげた。


 白糸の滝へはかつての三つ峠への道。上暮地の十字路の川端に「大正十三年建之」の「白糸瀧入口 從是白糸滝へ拾八町三十間 滝ヨリ三ッ峠マデ約一里十八丁」の道標が立つ。車も入れる舗装された道が滝の近くまで続き、しばしの登りで水量は少ないながら幅のひろい滝に出る。金色姫が祀られた蚕影神社は滝の左岩壁の岩屋に祀られているが、いまは崖崩れで登山禁止になっている。


【独り言1】 昭和15年の『日本山岳案内3中央線沿線・御坂山塊』に、上暮地では「機織機のかまびすしい音がする」と案内されています。私が三ッ峠に通った昭和40年ごろの深夜、三つ峠駅から三ッ峠へ向かう下暮地でも機織機の音が聞こえていました。土地の人の話では、ここでは昼夜の区別なく機織りが行われていたそうです。
 富士吉田、都留、大月の郡内地方は昔から織物が盛んで、いまでも絹製品の〝郡内織〟として知られています。絹織物の素材を作るのが養蚕で、その守護として信仰されたのが蚕影神社でした。富士吉田市の案内では、蚕の害敵であるネズミを捕る猫に期待して「洞窟内にある蚕神神社には小さな招き猫がたくさん奉納されていた」とありましたので、登山禁止ではありましたが確認のため登ってみました。しかし残念ながら招き猫は一つも残っていませんでした。いま神社は滝壺近くに遷座されています。




【独り言2】 三十三観音 白糸ノ滝の西にある尾根がかつての三ッ峠への道です。滝からその尾根にかけて石仏が点々と置かれていました。並ぶ順番はバラバラですが、台座に彫られた番号と尊銘から西国三十三ヶ所観音霊場の石仏=写真上・中=とわかります。造立されたのは、尾根に立つ「三十三観世音」の石塔に「嘉永二己酉(1849)」とありましたから、江戸時代末期のころです。ところが最近立てられたとみえる石仏=写真下=がいくつか混じっていました。それについては別の石塔に「文化年間此の地祖先の寄進する三十三観音は 永年の自然災害により十一観音を失う 依って有志の浄財を得て茲に復元す 平成十二年」とあって、造立年代が食い違っていました。残念なのはこれら新しい石仏が、西国とは関連のない三十三体観音風の尊銘がわからない石仏になっていることでした。


 些細なことはこのぐらいにして、三十三観音で一番の秀作は十一番の准胝観音です。西国を勧請した先の石仏はどこでもそうですが、この三面多臂の准胝観音製作は石工も力が入ったらしく、秀作が多いようです。それから新しい観音造立や白糸の滝を含めこの一帯の清掃と管理は、地元の有志によって行われています。

 
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石仏686岩殿山(長野)五輪塔

2016年10月10日 | 登山

岩殿山(いわどのさん) 五輪塔(ごりんとう)


【データ】岩殿山 1008メートル▼最寄駅 JR・坂北駅▼登山口 長野県筑北村(坂北村)別所▼石仏 山頂の手前、登山道の左手、地図の赤丸印▼地図は国土地理ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山と渓谷社)から転載したものです▼下写真は三所権現と岩殿寺に降ろされた三所権現の神像



【里山石仏巡礼17】 四阿屋山・冠着山・聖岳の筑北三山に囲まれた村々は、修那羅峠の石仏を見たあと何度か訪ねた。善光寺街道沿いにあるこれらの村は信仰心が厚く、山には神社を祀り山麓には寺院を建てた。信仰の深さは、松本市から長野市にかけて巡礼する信濃三十三番札所の一番が、聖岳山麓にある麻績村・法善寺から始まることからしても分かるが、この村々の小さな山に祀られた神仏からも読み取れる。本城村の南にある虚空蔵山には虚空蔵菩薩、西の山中には観音堂、坂北村の岩殿山に三所権現、いずれも山中にある天然の岩屋に神仏を祀ったものだった。その一つ岩殿山に登った。
「役の行者の弟子・学文行者が開いた山」と坂北村で案内する岩殿山は、山麓にある信濃三十三番札所の十五番・岩殿寺から始まる。岩殿寺は天台宗の寺、この寺の修験者が修行の地として開いたのが岩殿山だ。寺沢の左岸に続いた道が右岸に渡ると戸隠山から勧請した九頭竜社に出た。これは沢の源にある大岩を御神体とし、次の雷神社も大岩に祀られていた。九頭竜社も雷神も水の神、修験の山の修業地に農民が必要とした水の神を祀ったのだろう。村が「学文の墓」と案内する五輪塔は稜線近くにあった。
 五輪塔は上から空輪・風輪・火輪・水輪・地輪の五つからなり、大日如来の象徴とされている。したがってそれぞれの輪には大日如来の真言キャ・カ・ラ・バ・アを刻むことが多い。岩殿山の五輪塔は満足に五輪そろうものはなかった。
 かつての寺院跡に建つ三所権現は稜線の岩屋を利用した社で、木彫の三神が祀られていた。「杣・木挽・大工」と伝えられている三神は高貴な表情と均整のとれたたたずまい、山のなかには不似合いな美しい神々だった。岩屋の上に登ると筑北三山から北アルプスの展望が開けた。三角点がある岩殿山は南に少し離れているが、砂岩の尾根が続く峰伝いには行けそうもない。

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石仏685修那羅峠(長野)修那羅の石仏

2016年10月07日 | 登山

修那羅峠(しゅならとうげ) 修那羅の石仏(しゅならのせきぶつ)


【データ】修那羅峠 910メートル▼最寄駅 JR篠ノ井線・聖高原駅▼登山口 長野県筑北村(坂井村)の修那羅峠▼石仏 安宮神社を取り囲むように石仏群、地図の赤丸印▼地図は国土地理ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山と渓谷社)から転載したものです


【里山石仏巡礼16】 庶民信仰の奇怪な石仏群があり、不気味な空気がただよっていることで知られた船窪山の修那羅峠に詣でたのは昭和60年ごろ、この山の石仏が話題になったのは昭和40年から50年代であるから、石仏をかじる者としては遅いほうだった。山登りの途中に石仏を見ていた当時、石仏を見るため小さな山にわざわざ出かける気にはなれないでいたのが遅れた原因。石仏があるのは修那羅峠ではなく舟窪山という小さな山。その山中にある安宮神社を取り囲むように石仏が祀られていた。「小さな石仏が並び、文字塔や石祠が多い」というのがその印象で、奇怪さ、不気味さはさほど感じなかった。
 仏像は基本となる形を定めた儀軌にそって造られ、石仏もこれに従っている。しかし大天武という行者が指導して造られた修那羅の石仏は儀軌にとらわれない自由奔放な像容が多く、また一般にはみられない神仏や名称が分からない石仏が奇怪といわれ、鬼や足や首だけなどの像が不気味といわれる所以なのだろう。個人が願望をそのまま石仏にした結果とも指摘されているこの石仏群の数、悉皆調査した『修那羅の石神仏』(金子万平著、昭和55年)では七四三としている。
『大天武一代記』(南湖峯夫著、昭和58年)によると、大天武は寛政七年(1795)越後・頸城の大鹿村(妙高村)生まれ。諸国の霊山で修行を重ね、信濃・筑摩の安坂村(坂井村)あたりで宗教活動をするのは、江戸時代末期の文政のころからとされている。修行に精進したのであろう、大天武の加持祈祷はあらゆるものに霊験があり、難病をたちどころに治してしまうと評判になった。やがて活動の拠点を村の南にある舟窪山の修那羅峠に移し、信者に石の作仏と奉納を勧めた。この結果、山には七四三体もの石仏が集まった。修那羅は大天武が使用した呪文らしい。そして修那羅の作仏信仰はいまも続いており、その数は毎年増え続けている。

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石仏番外 山の石造物・姥神、血の池

2016年09月30日 | 登山

姥神(うばがみ)・血の池(ちのいけ)

ブログ「偏平足」から、東北南部や関東北部の山に残る〝姥神と血の池〟をテーマとしたものをまとめました。写真は東吾妻山の姥神。

【姥神・血の池】 豊満な乳房を出した老女の石仏が、東北南部から北関東の山に祀られている。その場所は山中の川を渡った先が多いことから、山に登る人の禊の場所、結界の場所の守護を担っての造立と考えられる。
 東北南部の場合、山形の蔵王や出羽三山周辺の山に祀られた姥神はこの傾向が強く、福島の阿武隈山系ではいずれも出羽三山を勧請した山であり、この地方に多い葉山を管理した里修験者の関与が考えられる。福島の会津地方の姥神を祀った山は、飯豊山や吾妻山などの山岳信仰とのかかわりが強いものの、修験者が関与していたことに変わりはない。
 北関東では茨城の御岩山、栃木の那須、八方ヶ原、日光などだが、いずれも出羽三山が勧請された山で、山中に湯殿山・月山・羽黒山を別々に祀ったなかのいずれかに姥神が祀られている。
 出羽三山は江戸時代初めに関東布教を始めた真言系修験組織の影響が指摘されているが、その山の石造物をみていくと、姥神は出羽三山信仰とともに東北南部から北関東の山に勧請されたものであることがわかる。
 その出羽三山の姥神は、越中立山の姥堂の姥神から、血の池地獄とともに室町期に勧請されたと考えている。その痕跡は新潟や長野の山にもみられる。姥堂や血の池はさらに時代を遡る平安末期に修験道が発展したときに創り出された女人結界の〝姥石・女人堂〟につながっていくが、これは別の機会にまとめたい。
【参照】田中英雄著『東国里山の石神・石仏系譜』(平成26年、青娥書房)の「女人結界の姥石と女人救済の姥神」

【姥 神】
山形・月山 
山形・姥ヶ岳  
山形・水晶岳 
山形・若木山 
山形・大岡山 
山形・蔵王地蔵岳 
山形・蔵王熊野岳 
宮城・薬莱山 
福島・東吾妻山
福島・信夫山 
福島・花塚山 
福島・大滝根山 
福島・鞍掛山 
福島・安達太良山 
福島・小野岳 
福島・大戸岳 
茨城・御岩山 
茨城・真南嶽山 
栃木・茶臼岳 
栃木・八方ヶ原
 
栃木・男体山
長野・富士嶽山 
 姥神は山形の湯殿山、福島の飯豊山、思案岳などにも祀られているので、順次案内する。
【血の池】 
富山・立山 
新潟・妙高山 
長野・浅間石尊山 

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石仏番外 観音山(埼玉)石工・黒沢三重郎

2016年09月26日 | 登山

観音山(かんのんやま) 黒沢三重郎(くろさわさんじゅうろう)

【データ】 観音山 698メートル▼最寄駅 西武鉄道秩父線・西武秩父駅▼登山口 埼玉県小鹿野町岩殿沢の観音院▼石仏は馬頭観音 観音山中腹の道、地図の赤丸印▼地図は国土地理ホームページより



【独り言】 黒沢三重郎は天保4年(1833)生まれ。江戸時代末期から明治にかけて、秩父や西上州で仕事をした観音山北山麓にある日尾の石工でした。代表作は秩父観音札所31番観音院の三門に立つ仁王。慶應年間(1865~68)の仕事とみられています。日本一大きい仁王といわれたその台座には「秩父日尾石工 黒沢三重郎源金丸」と刻まれていました。この名前が削り取られたことは、このブログの西御荷鉾山(群馬)観音山(埼玉)で案内しました。これはその続きです。



 三重郎の家があった日尾と観音院がある岩殿沢を結ぶ道は二つあります。一つは観音山の西、中世に山城があったピーク近くにある牛首峠を越える道で、観音院の三門に出ます。もう一つは観音山の西中腹を横切る道で、これは観音院のだいぶ上を通ります。実は上の道があることを知ったのは最近でして、拙著『東国里山の石神・石仏系譜』の「秩父・石工黒沢三重郎」では、牛首峠を利用したと想定して書いてしまいました。この上の道に近い山中に「仁王尊工場跡」=写真上=という小鹿野町の案内があり、さらに山頂近くに「仁王尊採石場跡」という案内がある岩を切り出したような跡がある岩場=写真下=があります。日尾からの距離をみると、三重郎は上の道を通って仁王造立の仕事をしたと思われます。30年前に話を聞いた三重郎の孫娘・荒井与志さんは、「山で切り出した岩を降した太い縄が家にあった」と言っていました。採石場から工場へ、さらに観音院へ降ろした縄だったのでしょう。
 与志さんは明治43年生まれ。黒沢三重郎は荒井家の養子に入った石工でした。その年はわかりませんが、長女が元治元年(1864)に生まれているので、仁王の仕事を請け負ったときは荒井姓になっていたはずです。石工稼業は越後で習ったことなど、これも与志さんが話していました。ところが石仏には黒沢銘を入れています。しかし、黒沢を名のった時期は観音院の仁王を造ったころ、信州伊那の石工・藤森吉弥と一緒に仕事をしたときだけでした。与志さんの記憶では観音院の仁王以後、日尾の観音、御荷鉾山の不動、神流町柏木の不動、鬼石町の常夜燈なども手掛けているそうです。銘があるのはその一つの西御荷鉾山の不動だけで、それは「荒井三重郎」となっています。柏木の不動には「荒井文八」とありました。文八は三重郎の長男。三重郎には二男四女の子供がいて、与志さんは二男源重郎の子供です。



 三重郎が仁王造立のため通った思われる道にはいまでも「文久二壬戌天(1861)」銘の馬頭観音が立っています。三重郎が仁王を造る4、5年前の造立です。この馬頭に三重郎が関わっていたのかはわかりませんが、三重郎はこの馬頭に手をあわせて通ったはず……。そんな感傷にひたりながら、三重郎の話を聞いた荒井与志さんやご主人で小鹿野町議を長く務めた元松さんを思い出しました。その荒井家はダム工事のため取り壊されていまはありません。三重郎は日尾の高台にある菩薩寺の墓地に眠っています。「現石園徳居士」明治33年5月10日没、67歳でした。

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石仏684観音山(埼玉)観法

2016年09月23日 | 登山

観音山(かんのんやま) 観法(かんぽう)

【データ】 観音山 698メートル▼最寄駅 西武鉄道秩父線・西武秩父駅▼登山口 埼玉県小鹿野町岩殿沢の観音院▼石仏 秩父観音札所31番観音院境内、地図の赤丸印▼地図は国土地理ホームページより


【案内】 観音山の山中にあるのが秩父観音札所31番観音院。三門から急な石段が続き、岩壁から落ちる滝の渕に観音堂が建つ。三門に立つ石像仁王は日本一と案内されている。この仁王造立をはじめ観音院の再興を企てたのが観音院の僧・観法、江戸時代末期のことだった。



 仁王の製作を依頼されたのは秩父の石工・黒沢三重郎。三重郎は観音院から山一つ越えた日尾の石工。まだ30代だった三重郎にとっては力量以上の仕事だったのか、流れの石工といわれた信州伊那の石工・藤森吉弥を頼った。吉弥はリアルな表情の石仏を得意とした石工として知られていたが、故郷に帰ったことがない放浪の石工。仁王製作は吉弥が50代後半のころ。仕事は主に吉弥の指導で造立されたとみられている。完成した仁王の台座には二人の銘が入ったが、後に三重郎銘は削り取られた。地元石工の妬みだとされている。
 観音院境内には仁王以外にも三重郎と吉弥銘がある石造物がいくつかある。その一つが境内東の岩屋にある観法像。「当山二度開山十六世現住観音院観法」と「慶應二丙寅年 石工黒沢三重郎同藤森吉弥作」とある。同じように二人の銘が入る石仏がこの秩父の両神山にあることは前に案内した。境内西の「慶應二年」銘がある石塔には観法と三重郎銘しかないが、繊細な細工から、これも吉弥がかかわったと思われる。


 観音院の観法像の手前には彼の墓標「當院十六世 権大僧都法印観法」が立つ。明治17年、86歳没とあるから、法印が観音院で石仏造立を企てたのは60代後半のことになる。江戸時代末期の観音院で、老若二人の石工と老齢僧の間で、石仏造立をめぐって葛藤が繰り広げられていたに違いない。
 観音山へは境内西の岩屋から始まる。途中に仁王を製作した〝仁王尊工場跡〟と石を掘り出した〝仁王尊採石場跡〟を経て山頂に登りつく。山頂一帯の尾根は大岩が重なり、石材が豊富であることがわかる。
【参照】 田中英雄著『東国里山の石神・石仏系譜』の「秩父石工・黒沢三重郎」



【独り言】40年前に観音院の石仏を調べたことがありました。観音院には仁王や爪彫千体磨崖仏はじめ、多くの石仏が残されています。そのほとんどは本堂を中心に、東と西の岩壁でできた岩屋に納められています。岩屋の数は東4か所、西1カ所。いま、東の窟の一部は崩壊の危険があるので立ち入り禁止になっていますが、当時はどの岩屋も見ることができました。そのときの記録をみると境内や岩屋内の石仏の総数は179体。一番多いのが弘法大師の82体、次は聖観音菩薩の28体、以下大日如来11、地蔵菩薩10、不動明王10、虚空蔵菩薩7、十一面観音7、阿弥陀如来7体、その他の仏菩薩となっています。知りたいのはいつ頃の造立なのかですが、私の記録には記されていませんでした。尊銘を書き留めるのが精いっぱいだったこともありますが、銘そのものがなかったように記憶しています。江戸の女性に信仰厚かった秩父観音札所ですから、石仏も江戸流の整った仏菩薩が中心です。観音院の石仏も、美しい仏菩薩が並びます。


 上に載せた図は東のはずれにある岩屋の石仏配置図です。曼荼羅の世界を彷彿させるような岩屋で、石仏は大師の間に仏菩薩を置く形に配置されて、何か意味があるようなないような不思議な光景でした。

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石仏683戸蓋山(埼玉)墓石

2016年09月19日 | 登山

戸蓋山(とぶたやま) 墓石(ぼせき)

【データ】 戸蓋山 625メートル▼最寄駅 西武鉄道秩父線・西武秩父駅▼登山口 埼玉県小鹿野町三山の間明平集落▼石仏 戸豚峠、地図の赤丸印。青丸は戸蓋山、緑丸は古鷹神社▼地図は国土地理ホームページより



【案内】 間明平の古老の話では、戸蓋峠へは集落の中心にある古鷹神社の前から登ったという。昭和45年の国土地理院の地図でもそうなっている。しかしこの道はすでに廃れ、いまは皆本沢沿いに入った林道の枝沢が入り口になる。この道は送電線監視の道で、峠近くの送電線鉄塔まで続く。最近の地図では鉄塔の東側が峠らしいが、それらしい場所は見当たらない。さらに東のピークが戸蓋山で、その中間の鞍部に頭部のない石仏が二体立っている。ここが古鷹神社からのかつての峠道であろう。大きい方の石仏に女性の戒名銘があるので、これは墓石である。「安永三甲午天(1774)上薄村 施主幾太良」銘もある。上薄村は両神神社がある薄川沿いの村名。峠あるいは峠道に墓標を立てた例は群馬県桐生市の高戸山でも案内したが、峠道で倒れた者の供養のためなどが考えられるものの、確かな目的はわからない。頭部がないので墓石の墓標仏の尊名も不明。


 石仏からさらに東にそびえるのが戸蓋山。急な尾根がやせた岩稜になると山頂は近い。展望のない樹林のなかに石祠が薄側を向いて建てられている。



【独り言】 古老の話によると、間明平の皆本沢に宮沢賢治の案内表示が立てられたのは最近のことらしい。なんでも賢治が盛岡高等農林学校の学生時代に、この秩父の皆本沢で鉱物の調査をしたらしく、地域進興のため案内表示を立てたそうです。案内から林道を少し入った堰堤の上が戸蓋峠への新しい道の入り口で、枝沢に造られた水道施設から左手の尾根に取り付くと、踏み跡が送電線の鉄塔まで続いています。しかし鉄塔から先に道はありません。かつての峠は東側にトラバースした鞍部で、訪ねた9月中旬には一帯に彼岸花が咲き出していました。戸蓋山への途中、彼岸花に導かれて峠に着いたという感じでした。彼岸花と墓石は、この地が埋葬の地であったのかと想像したくなる組み合わせです。

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石仏682小河内峠(東京)馬頭観音

2016年09月16日 | 登山

小河内峠(おごううちとうげ) 馬頭観音(ばとうかんのん)

【データ】 小河内峠 1030メートル▼最寄駅 JR五日市線・武蔵五日市駅▼登山口 東京都檜原村藤原▼石仏 陣馬尾根中腹の道、地図の赤丸印。青丸は春日神社▼地図は国土地理ホームページより



【案内】 藤倉から小河内峠への道で、人馬の安全と馬の供養を願ったいくつかの馬頭観音を見た。藤倉の春日神社の先から小河内峠への道が始まる。この道は峠に通じる陣馬尾根の東中腹に点在する家をつないでいる道で、峠道へはそれぞれの家から通じている。これらの各家では屋敷の手前に馬頭観音を建てている。個人で造立した小さな馬頭で、かつては馬を頼った生活をしていたことが容易に想像できる場所である。もっとも檜原村全体がそういう山中にあり、村で一番多い石仏が馬頭観音だという。しかし各家で馬頭の石仏を建てて祀っているのはここだけ。その道は今でも人一人が通れる山道しかなく、車はあてにできない山の中である。
 上の写真はそのなかの一番奥の旧田倉家の屋敷手前に立つ馬頭観音。高さ55センチの駒型に浮彫された馬頭には「馬頭供羪 文化十酉天(1813)施主田之倉三良治」銘がある。脇にある文字塔は「馬頭観世音 昭和十一年田倉菊次郎」銘。



 次の写真は旧小林家の屋敷手前にある馬頭観音=写真上=。旧小林家は国指定重要文化財に指定されていて、庭先にかつての馬小屋も残っている。旧小林家の下の家の入り口にも馬頭観音が立つ=写真下=など、このような形の馬頭観音を4か所で見た。


【独り言】 案内は藤倉から登るように書きましたが、実際は小河内ダムから御前山に登り、小河内峠から藤倉に下りました。雨が多かったこの夏の終わりの9月10日でした。その途中で立ち寄った旧小林家の縁側で、管理人からお茶と梅干をいただいてよもやま話をしているとき聞いたのが、この日行われる藤倉・春日神社の獅子舞のこと。午後3時から始まるというので、馬頭観音の道を急いで下って春日神社に着くころには笛と太鼓の音が聞こえてきました。



 獅子舞のスタートは神社の鈎を保管している小泉家から。祭りの幟が立つ狭い庭で、笛とササラにあわせて三匹獅子が舞っていました。羽織袴で笛を吹く男衆の渋さと、花笠をつけてササラを引く女性たちのあでやかな和服が際立つ中で、三匹の獅子が太鼓を打ちながら舞い踊りました。




 次は春日神社に移って、これも狭い境内で同じように舞いました。赤とんぼが飛び出した奥多摩の谷間に、懐かしい風景を見た午後のひとときでした。

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石仏番外 毛無峠(群馬)地蔵菩薩

2016年09月12日 | 登山

毛無峠(けなしとうげ) 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)

【データ】 毛無峠 1823メートル▼最寄駅 JR吾妻線・万座鹿沢口駅▼登山口 群馬県嬬恋村の毛無峠▼石仏 毛無峠下の小串鉱山跡に建つ地蔵堂、地図の赤丸印▼地図は国土地理ホームページより



【独り言】 万座から吾妻山へ連なる2千メートル級の尾根、その中ほどにあるのが毛無峠。峠までは群馬の万座と長野の高山村から車で入れます。広大な草原が広がる峠の毛無山側に赤さびた索道の支柱が並んでいます。支柱は群馬側の山腹にもいくつか残り、その先の谷にあったのが硫黄採掘では日本屈指の小串鉱山でした。大きく開けた谷には鉱山を中心に学校や診療所までそろった街があったそうです。採掘した硫黄は索道によって峠を越えた長野県側に運ばれていました。
 小串鉱山の開発は大正になってからですが、それ以前から「碓氷や大笹の関所を避けて通る旅人や牛馬が上州側の千俣から信州側の牧に毛無峠を登って往復していた頃、火がつく石があると云い伝えられ」ていたと『嬬恋村誌』(注1)にあります。



 峠から鉱山跡へはダートの道がありますが車は入れません。少し下ったところにある雨量観測所の先から、毛無山の中腹を横切るように昔の道が残っていました。降り着いたところに建つのが地蔵堂。鉱山経営が順調に進んだ昭和12年、社宅上部斜面の地滑りの犠牲となった245名を供養するために立てられた地蔵菩薩を本尊とするお堂です。地蔵は台座も入れると270センチもある錫杖と宝珠を持つ大きな延命地蔵。台座には「昭和十二年十一月十一日小串鑛山變災死亡者ノ為ノ建立」とあり、罹災志望者の名前が入っていました。




 地蔵堂の隣に建つのは山の神。この地にあって地滑りで流された社殿を土鍋山の中腹に再建したが、閉山に伴い再びこの地に移築して祀ったそうです。社殿の一部が小串鉱山跡を案内する掲示板になっていました。そこに貼ってあったのが栄えていたころの鉱山街の写真。満月の夜に写した写真で、人が住んでいた街の大きさが偲ばれます。閉山したのは昭和46年。『嬬恋村誌』の昭和40年の記録では、総人数約1300名(従業員418、職員37、家族など約800名)で、そのなかで子供は保育園児84名、小学生195、中学生74、先生は14名となっていました。谷間の赤茶けた大地に独り立つと、機械の音や人の声が聞こえてきそうです。
(注1)『嬬恋村誌・上巻』昭和52年、嬬恋村村誌編纂委員会
【参照】万座の吾妻鉱山は熊四郎山で案内しました。

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石仏681万座・熊四郎山(群馬)地蔵菩薩

2016年09月09日 | 登山

万座・熊四郎山(くましろうやま) 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)

【データ】 万座・熊四郎山 1984メートル▼最寄駅 JR吾妻線・万座鹿沢口駅▼登山口 群馬県嬬恋村の万座温泉▼石仏 熊四郎山の登山口に建つ薬師堂、地図の赤丸印。青丸は熊四郎山▼地図は国土地理ホームページより



【案内】 医薬の仏である薬師如来を祀る温泉は多く、万座温泉でも温泉街の奥に薬師堂が建ち、薬師如来が鎮座している。薬師堂は古くからあり、正徳三年(1713)建立の記録が残っていると『嬬恋村誌』(注1)にある。その境内に坐しているのが宝珠を両手で持つ地蔵菩薩。石像には珍しい胸飾りが美しい地蔵である。銘はない。
 境内の入り口に建つ「文久元年(1861)」造立の石燈籠には、願主として「門貝瀧澤傳左エ門」「大前同馬次郎」、そして「別当 大笹無量院」とある。門貝も大前も万座温泉の入り口にある嬬恋村の集落名。大笹無量院も同じ村にある寺である。『近世硫黄史の研究』(注2)をみると、門貝と大前の滝沢家は本家・分家の一族で、ともに硫黄・明礬稼ぎによって財をなした家であったことがわかる。熊四郎山から吾妻山にかけての谷は、古くから硫黄・明礬の採掘が行われていた。



 熊四郎山は薬師堂から奥に続く遊歩道を登る。途中に山名のもとになった熊四郎洞窟=写真上=がある。猟師の熊四郎が万座温泉の発見者との伝えありと、入り口にある嬬恋村の案内にある。遊歩道はさらに上部の大岩まで続く。ここから熊四郎山への山道になる。岩の上に祀られているのは「天照大神」=写真下=。国土地理の地図にある神社記号はこれを指しているのか。ここから先は岩場のトラバースが続き、藪のなかの踏み跡を辿ると樹林のなかの小ピークに達する。しかしこれば熊四郎山かどうかは不明。
(注1)『嬬恋村村誌』昭和52年、嬬恋村誌編纂委員会
(注2)小林文端著『近世硫黄史の研究 白根・万座・殺生ケ原の場合』昭和43年


【独り言】 吾妻硫黄鉱山跡 嬬恋村三原から万座に向う万座ハイウェイ、その中ほどにあったのが昔栄えた吾妻硫黄鉱山でした。この鉱山は大正3年に採掘が始まり、小学校が開講したのは昭和15年、そして昭和46年に閉山という短いながら大きな歴史がありました。国内の硫黄鉱山はどこもそうですが、重油から不純物を取り除く段階で硫黄回収の技術が進んだ結果、鉱山での採掘の必要がなくなってしまいました。万座温泉一帯では他にも小串鉱山、長野県側の米子鉱山などかつて栄えた大きな鉱山跡が残っています。



 ハイウェイ脇に立つ地蔵菩薩の台座には「昭和廿五年十月建立 吾妻鉱山分校PTA会員一同」とあり、鉱山が一番賑やかな時の造立だったようです。その脇の石碑には「このお地蔵さんには、雪深い辺境の地で厳しい労働に携わった親たちが子供達の健やかな成長と未来を託した熱い思いが込められている。(略)しかし時が経ち吾妻鉱山は閉ざされ、取り残されたお地蔵さんは淋しそうに見えた。いつでも逢えるように、遠く離れた仲間達も見守れるように 願い込めたここにお移りいただいた」とありますから、小学校の近くにでもあったのでしょうか。この地に移されたのは平成22年5月で、〝望郷の地蔵尊〟と名付けられました。学校跡には体育館がのこり、鉱山口の上には万座高原神社=写真下=が建っていました。

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石仏680浅間・石尊山(長野県)迦楼羅

2016年09月05日 | 登山

浅間・石尊山(長野)迦楼羅(かるら)

【データ】浅間・石尊 1667メートル▼最寄駅 しなの鉄道・信濃追分駅▼登山口 長野県軽井沢町追分▼石仏 中腹の濁沢にかかる赤滝下、地図の赤丸印▼地図は国土地理ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山と渓谷社)から転載したものです



【里山石仏巡礼15】 追分から浅間山の中腹にある石尊山への道は林道が交差して分かりにくく、途中に噴火を知らせる施設があって、普通の山ではないという気分になる。山頂は草原が広がり奥には浅間山が大きく立ちふさがる。石尊は丹沢の大山の神・石尊大権現を指し、関東甲信の各地に雨乞いの神としてこの神を勧請した山がある。いずれも里近くの小さな山で、石尊大権現の石祠が祀られている。浅間の石尊山も同じ信仰から勧請されたが、山頂には石祠はない。しかし中腹には座禅窟を中心に、石尊をはじめかつての信仰の名残が色濃く残されている。その一つが血の池。血の池は女人がかならず落ちる地獄の池で『血盆経』というお経では「生理や出産の折に流す血が大地を穢し、その罪により女人は血の池地獄に落ちる」と説く。赤茶けた水をたたえた池の傍らには血の池弁才天の石祠が祀られている。
 血の池から流れ出すのが濁川で、その途中の赤滝に洞窟があり、二体の不動明王がある。ともに立像と思われ、一体は砂礫で胸まで埋まっていた。不動の光背の火炎に鳥の姿が刻まれている。仏像の形を決めた儀軌によると、不動明王は体全体を火炎が包むように表現される。火炎は迦楼羅炎ともいい、竜を捕らえて食うとされるインド神話の空想の鳥・迦楼羅を現す。迦楼羅天としては仏法を守護する八部衆にも見えるが、これを主尊とした信仰は生まれなかった。石仏としては浅間山の尾根続き、地蔵峠下の鹿沢温泉に笛を吹く姿の丸彫り像がある。
 血の池の西には座禅窟がある。大きな岩がせり出した広い岩屋で中央に千手観音が祀られている。かつてこの岩屋に籠って石仏を刻んだ行者がいた。行者を支えたのが山麓の追分にいた女郎や飯盛り女だったそうだが、確かなことは分からない。座禅窟の近くに鉄格子で閉ざされた洞窟がある。行者が刻んだ三十三観音の石仏があるらしいが、見ることはできない。

【参照】鹿沢温泉の迦楼羅はこのブログ・湯ノ丸・地蔵峠(長野)で案内しました。

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