偏平足

里山の石神・石仏探訪

里山の石神端書306五色の幡(山梨県富士川町平林)

2024年07月19日 | 里山石神端書

富士川町平林・氷室神社の五色の幡

 平林は富士山が見える棚田の広がる集落。集落の奥に氷室神社が建っています。神社の今年の祭日は4月21日。訪ねた20日は祭礼の準備で、
すでに集落内には、五色の幡がはためいていました。




 幡の五色は黒(紫)・黄・赤・白・青で、青は木、赤は火、黄は土、白は金、黒は水を差し、仁・礼・信・儀・智の陰陽五行の五行を表す色。これを仏教では黒(釈迦の袈裟)、黄(身体)、赤(血)、白(歯)、青(髪)とする解釈もあります。いずれにしても、陰陽五行の根本となる思想からでたものです。富士山を背景にはためく五色の幡は平和そのものでした。



 祭りの準備は集落の人たち総出の仕事。氷室神社の名物である石段入口の鳥居では注連縄の準備、境内では提灯の飾りつけなどが行われていました。
(地図は国土地理院ホームページより)


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里山の石神端書305石段(山梨県富士川町平林)

2024年07月16日 | 里山石神端書

富士川町平林・氷室神社の石段

 平林は大きな富士山と美しい棚田の広がる山間の集落。集落の奥に鷹尾山氷室神社が建っています。

 氷室神社に登る石段は519段。杉林のなかに広い石段が延々と続きます。このような立派な石段があるのは、この神社が古くは真言宗の鷹尾寺で、鷹尾山権現の別当寺で武田・徳川期に保護されてきたためでした。本尊は文殊菩薩・不動明王・降三世明王。これが氷室神社になったのは明治の初めの神仏分離。いま境内に仏教の形跡は薄く、境内奥の卵塔が見られるぐらいです。本尊の文殊・不動・降三世明は集落内の平林公民館脇の文珠堂に移されました。木彫の素朴な仏たちが鎮座しています。
 次にその立派な石段を写真で案内します。


(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書 山梨県上野原市秋山

2024年07月12日 | 里山石神端書

里山の石神端書298心印塔(上野原市秋山桜井・真福寺)

里山の石神端書299石垣(上野原市秋山桜井・諏訪神社)

里山の石神端書300道標(上野原市秋山古福志・天神社)

里山の石神端書301三十番神(上野原市秋山小和田・山ノ神宮)
里山の石神端書302馬頭観音(上野原市秋山)

里山の石神端書303地蔵菩薩(上野原市秋山寺下・吉祥寺)

里山の石神端書304雛鶴媛(上野原市秋山無生野・雛鶴神社)


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里山の石神端書304雛鶴媛(山梨県上野原市秋山)

2024年07月09日 | 里山石神端書

上野原市秋山無生野・雛鶴神社の雛鶴媛

 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。村の西外れは無生野集落に雛鶴神社が建つ。祭神は大塔宮護良親王・雛鶴媛・葛城綴連王の三柱。

 大塔宮護良親王(1308~1335)は後醍醐天皇の皇子。南北時代に足利尊氏により鎌倉に幽閉殺害されました。雛鶴媛は護良親王の侍姫。侍女とともに護良親王の首をもって鎌倉を逃れたが秋山の無生野で産気つき、不運にも母子ともに亡くなられこの地に埋葬、首は都留方面に運ばれたと伝わっています。葛城綴連王については諸説あって、一つは雛鶴媛が生んだ護良親王の王子、これとは別の護良親王の王子で、たまたまこの地に逃れてきて親王と雛鶴の経緯を知り、その不思議な縁によりここに住んだそうです。この三人を弔うために始まったのが無生の大念仏で、今に続いています。


 再建された雛鶴神社に「葛城宮綴連王奥都城」銘の古い墓碑が立っていました。奥都城は神道の墓所を意味する語。造立年として「応永(1394~1428)」らしい銘もありますがはっきりしません。
 境内には新しく造立された雛鶴媛の像もありました。

(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書303 地蔵菩薩(山梨県上野原市秋山)

2024年07月05日 | 里山石神端書

山梨県上野原市秋山寺下・吉祥寺の地蔵菩薩
 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。集落ごとに寺社がありますが、なかでも寺下の吉祥寺は真言宗の古刹で、山間部にしては大きな構えのお寺です。
 女将さんにお茶の接待を受けながら石仏の話をしていると、本堂に中世の地蔵石仏があるというので拝見させていただきました。
 地蔵は須弥壇裏に隠れるように置かれていました。大事に扱われているのは、この地蔵が中世に造られた貴重な石仏だからで、秋山の石仏を紹介した『ふれあい 村の晨光』(注1)では南北朝時代のものと案内されていました。地蔵には年号があるはずと寺の女将さんに聞いたので、懐中電灯を借りて探してみましたが、それはありませんでした。
 この貴重な地蔵菩薩、女将さんからいただいた坂本美夫氏の「山梨県の中世石仏」(注2)にまとめられていましたので、抜粋して紹介いたします。
 地蔵は光背と台座が一体のもので高さは36センチ、均整の取れた優美な姿で、その彫りも細部まで繊細で丁寧かつ整ったものとしています。紀年銘はありませんが、県内の平安時代と考えられる石仏に近いふくよかな体躯、袈裟の表現が鎌倉後期の仏像彫刻に見られる技法から、鎌倉時代末期の造立と想定し、石仏としては都留地方で一番古い時代のもので、鎌倉地域との関わり垣間見ることができる地蔵としています。

 境内には新しい十王像が並び、その前に古い十王に一部と奪衣婆もありました。
(注1)『ふれあい 村の晨光』昭和60年、秋山村教育委員会
(注2)坂本美夫著「山梨の中世石仏」『考古学の諸相Ⅳ』平成28年、立正大学文学部考古学研究室
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書302 馬頭観音(山梨県上野原市秋山)

2024年07月02日 | 里山石神端書

上野原市秋山・秋山の馬頭観音



 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。石仏は秋山18の集落を中心に造立されてきました。その中で多いのが馬頭観音です。その数、秋山村の信仰をまとめた『ふれあい 村の晨光』(注)には48基とあります。ちなみに庚申塔が7基、地蔵菩薩が23基ですから、馬頭観音の多さが際立っています。同書の馬頭観音の項には「農村における農用としての馬が、各家に家族の一員とも考えられるほど重要視されて生活の一方を担っていたために馬の不慮の死や、病死に供養塔が建立されるようになった」とあります。



 馬頭観音のほとんどは文字塔で、像容のある馬頭はわずか。石仏の造立そのものが少なかったという印象です。これは集落内に寺社が多かったこと、寺としては質素を旨とする臨済宗が多かったことなどに関係があるのかもしれません。
 取り敢えず、路傍などで見た馬頭観音の写真をあげてみました。
(注)『ふれあい 村の晨光』昭和60年、秋山村教育委員会

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里山の石神端書301 三十番神(山梨県上野原市秋山)

2024年06月28日 | 里山石神端書

上野原市秋山小和田・山ノ神宮の三十番神

 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。小和田の法泉寺入口には大きな「萬霊塔」が立っていました。

 法泉寺は臨済宗建長寺派の寺でただいま無住。寺の手前に建つ山ノ神宮の境内に、「奉納三十番神十羅刹女」銘の石燈籠の竿石が倒れていました。



 「三十番神」は法華経守護のため、30日間のそれぞれの日に当てられた日本の神々。比叡山の神が複数含まれていることから、最澄が比叡山に祀ったのが始まりとの説があり、中世の日蓮宗が法華経の守護として取り入れて普及した。
 一方「羅刹女(らせつにょ)」の羅刹は人を食うという鬼神の梵語。羅刹女は人を食う鬼女で、鬼子母神(きしもじん)もその一人です。これが十人集まったのが十羅刹女。その役目は法華経の守護で、ここに鬼子母神は含まれていません。鬼子母神も法華経の守護が役目ですが、安産・育児の仏として信仰されています。
 かつては臨済宗法泉寺が別当寺だったと考えられるこの山ノ神宮に「三十番神十羅刹女」銘の石造物が造立された背景は不明。秋山村の信仰をまとめた『ふれあい 村の晨光』(注)には「明治元年までは三十番神(法華宗を守護する神)といわれていたが法華三十番神の称を禁止する御沙汰により神仏混交を廃し山ノ神宮とする」とありました。
(注)『ふれあい 村の晨光』昭和60年、秋山村教育委員会
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書300 道標(山梨県上野原市秋山)

2024年06月25日 | 里山石神端書

上野原市秋山古福志・天神社の道標

 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。古福志集落に西外れにある古峰神社への道の峠に建つ天神社で道標を見ました。



 この秋山から都留一帯は天神様を祀る峠が多い地域です。古福志の天神社が建つのも峠状のところで、かつては古福志集落からこの峠を越えて小和田集落へ出たのではないでしょうか。その峠に置かれたのがこの道標。そのようなことを彷彿させる天神社と道標です。

 古福志の天神社社殿内に無造作に置かれた道標には「みきやむら/ひたりやま/道」銘。「やむら」は秋山の西の雛鶴峠先にある、織物で知られた城下町で現在の都留市。郡内織り、甲州織りとも呼ばれていました。郡内は山梨の甲府を中心とした国中に対し、山梨東部の都留・大月一帯を指す名称です。

 織物の原糸は絹で、かつての郡内では養蚕も盛んで、古福志の天神社境内には「昭和二十一年/蠶影山大神/古福志養蚕組合」銘の石塔が立っていました。養蚕・染物・織物の神として愛染明王が知られていま。この仏の縁日は二十六日。

 その関係か郡内には秋山=写真=と都留に二十六夜塔が立ち、三ツ峠山にも二十六夜塔があります。
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書299 石垣(山梨県上野原市秋山)

2024年06月21日 | 里山石神端書

上野原市秋山桜井・諏訪神社の石垣

 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。桜井集落の諏訪神社境内の石垣に、年号や寄進者銘のある石が使われているのを見ました。


 この石は石造物の礎石か、仏菩薩の台座だったものか、元はどの様な石造物だったかはわかりません。それにしても年号や寄進者銘を隠そうともしないで石垣に転用したのは、何かの理輔があってのことなのでしょう。

 戦国期には城の構築時に、不足の石として信仰対象の仏菩薩や墓石などの石造物が転用されたという話はよく聞きます。
 大久保修氏は『日本の石仏』167(注)で、城の石垣に転用された石造物を報告しています。そのなかで、転用された時期は戦国期が多く、その背景として、急な築城や領主の移動や滅亡によって見捨てられた墓地が多いことを指摘しています。転用された石造物として五輪塔、石仏、宝篋印塔、礎石などを挙げています。
 大久保氏が調査したほとんどは畿内と中国・四国の城で、これらの地方では中世から石造物が盛んに造立されたことがわかります。
(注)大久保修著「城の石垣に転用された石造物」2019年、日本石仏協会『日本の石仏』167
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書298 心印塔(山梨県上野原市秋山)

2024年06月18日 | 里山石神端書

上野原市秋山桜井・真福寺の心印塔

 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。その道の高台に建つ真福寺は臨済宗建長寺派の寺。その入口石段に「心印塔」銘の石塔が立っていました。


 「中峯国師十九世孫/當山八世大柮碩偈百拝/時宝暦八(1758)戊寅孟冬日」銘もあるこの石塔の「心印」は、仏心印の略で仏の心そのものを表す言葉。禅宗では仏の悟りを印にたとえた語と仏書にあります。
 どのような契機でこの塔を造立したかはわかりませんが、想像するに高僧から悟りの極意を授受されたときに立てたのではないでしょうか。

 石段の左には「本室浄源上座」銘の墓碑。戒名の上座(じょうざ)は、宗派や地方によりいろいろな解釈があるようです。一般的には、仏教において徳を積んだ高層につける戒名のようです。

 その先に地蔵菩薩が並んでいました。
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書 福島県いわき市四倉町の仁井田川沿

2024年06月16日 | 里山石神端書

里山の石神端書291 板碑(いわき市四倉町薬王の薬王寺)

里山の石神端書292 亀趺(いわき市四倉町薬王の薬王寺)

里山の石神端書293 重文・文殊菩薩(いわき市四倉町薬王の薬王寺)

里山の石神端書294 種字・胎蔵界大日(いわき市四倉町宮下の柳生院)

里山の石神端書295 庚申塔(いわき市四倉町山田の稲荷神社)

里山の石神端書296 薬師板碑(いわき市四倉町小湊の円満寺)

里山の石神端書297 伽藍場(いわき市四倉町小湊の伽藍場)


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里山の石神端書297 伽藍場(福島県いわき市四倉)

2024年06月14日 | 里山石神端書

いわき市四倉小湊のがらんば(伽藍場)

 いわき市の北西部、仁井田川沿いの寺社を訪ねました。

 四倉小湊の川岸建つ御堂が〝がらんば〟。がらんばはこの御堂を管理する老女に教えていただいた名称。老女が言うがらんばを伽藍場の字をあてての話ですが、伽藍場は僧が住んだところのです。東北地方の南部では火葬場や墓地を〝らんば〟と呼ぶところがありました。私の田舎の福島県田村市でもらんばと呼んでいました。

 老女の話で、昔がらんばは馬の死体を埋めた場所で林になっていたそうです。そこを老女の叔母が整備してお堂を建て、散らばっていた馬頭観音もまとめたそうです。そのほとんどは馬頭の文字塔で、中には大正の年号があり多くは近代になってからの造立と思われます。

 お堂の本尊は平成になって盗難にあい、現在は石造地蔵菩薩が鎮座。これを老女はがらんば地蔵と呼んでいました。お堂の前で盆踊りもしたと、これも老女話ですが、今では目の前にあるお堂まで行く体力が無くなったと話していました。
 路傍や寺近くに石造物がまとめてあると、道路工事などで邪魔になったので移動された石仏と決めてしまうことが多いのですが、今回は意外な石仏の背景を聞いて先入観や経験が役に立たない例のあることを知りました。
(地図は国土地理院ホームページより


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里山の石神端書296 薬師板碑(福島県いわき市四倉)

2024年06月11日 | 里山石神端書

いわき市四倉小湊・円満寺の薬師板碑
 いわき市の北西部、仁井田川沿いの円満寺を訪ねました。その入口のお堂に薬師板碑が本尊として祀られていました。
 いわきは薬師を本尊とする寺が多く、とくに赤井・波立・八茎の三薬師が知られています。いわきと薬師の歴史は古く、天平六年(734)この地に疫病が流行した折、大和の僧源観が大和医王寺の薬師を赤井嶽岳に安置したのが始まりで、大同元年(806)年に大和の僧徳一がこの地に薬師を本尊とする寺院を建立して薬師信仰がひろまったとされています(注)。
 それで円満寺の薬師板碑ですが、寺の入り口に建つ小さな御堂に祀られています。祭壇に本尊として祀られているのは薬師の板碑。この土地に多い自然石の頭に二条線を入れた板碑で、中央に薬師に種字バイを入れ、その下に薬師や日光月光銘があります。お堂がいつのころからあるのかわかりませんが、板碑も路地にあったものをお堂を造って納めたという印象。

 お堂から坂道を登ると円満寺。途中に「宝暦九卯天(1759)」銘の六部塔があり、境内の覆い屋に中に如意輪観音がありました。
(注)『薬師信仰』昭和61年、雄山閣・民衆宗教史叢書12
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書295 庚申塔(福島県いわき市四倉)

2024年06月07日 | 里山石神端書

いわき市四倉山田の稲荷神社の庚申塔


 いわき市の北西部、仁井田川沿いの寺社を訪ね、稲荷神社の境内に「庚申」と刻された二基の庚申塔に出合ました。

 稲荷神社は山の中で、参道入口に「鎮守稲荷神社」銘の石碑が立ち、山道をしばらく辿った先に稲荷神社が建っていました。


 境内の素朴な庚申塔は二基とも「万延元年(1860)」銘。いわき地方の庚申塔はほとんど見ていませんので傾向はわかりませんが、青面金剛は少なく文字塔が多い印象でした。
 いわき市の北隣り双葉郡では庚申塔123基のうち青面金剛などの像様のあるものは9基と佐藤俊一氏の『村の野仏たち』(注1)に報告されています。このなかで青面金剛のある庚申塔で古いのは宝暦十三年(1763)、文字塔では元禄四年(1651)が最古ですから、庚申塔の造立は関東地方より100年遅い時期になります。この状況をみると、いわき地方の庚申塔造立もそれほど変わらない時期と考えられます。
(注1)佐藤俊一氏著『村の野仏たち』昭和65年、私家版
(地図は国土地理院ホームページより

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里山の石神端書294 種字・胎蔵界大日(福島県いわき市四倉)

2024年06月04日 | 里山石神端書

福島県いわき市四倉宮下の柳生院

 いわき市の北西部、仁井田川沿いの柳生院寺社を訪ねました。柳生院は真言宗で本尊は大日如来。その入口に石段脇に種字の胎蔵界大日如来石塔がありました。石塔は湯殿山供養塔です。



 この種字大日は東北地方ではよく見られる自然石の石塔で、上部に胎蔵界大日如来、その下に「湯殿山」を刻した豪快なものです。湯殿山は出羽三山の奥の院で、ぉ湯が湧き出す岩を御神体大日如来としています。「文化四年(1804)」造立。
 種字は密教で仏菩・菩薩などを表す梵字。梵字は梵語(サンスクリット)の字体で、インドで発達した文字とされています。また密教では真理を表す呪文としての梵語の真言があります。種字や梵語の元になるのが悉曇(母音と子音の組み合わせ)。児玉義隆氏は「現在、梵字悉曇の文字が活用されているのは、日本のみといっても過言ではない。ただし、それは宗教的範囲の使用である。その形態は一様ではないが、(略)卒塔婆に用いられる梵字、あるいは護摩札、交通安全等の祈願札に用いられる梵字、また種字曼荼羅、阿字観、字輪観等、礼拝対象の梵字、および石塔、板碑、磨崖、幡。華鬘等、古来から先人によって残されてきた貴重な梵字資料などがある」と指摘しています。


 同所には文化三年(1803)造立の「百万遍供養塔」やこの地方独特の板碑もありました。
(地図は国土地理院ホームページより

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