男体山(なんたいさん) 姥神(うばがみ)
【データ】 男体山 2485メートル▼最寄駅 東武鉄道日光線・東武日光駅▼登山口 栃木県日光市戦場ヶ原の三本松▼石仏 志津小山の先、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山と渓谷社)から転載したものです
【里山石仏巡礼75】 日光の山はどこを登るにも林道ばかり歩いた記憶がある。雲竜渓谷に入るにはほとんどが林道歩きだったし、太郎山にしても枝分かれする林道に戸惑いながら歩き、男体山にしても二荒山神社の先で林道になり、裏側の志津には広い道が入っていた。これらの道は砂防工事のためのもので、ときどきダンプカーが砂塵を巻き上げて通った。それでも山に入ると、太古から続く深い森が残っていた。男体山の志津一帯も今は森が伐採されてすっかり明るくなってしまったが、かつては森のなかに薄暗い小屋があり、木立のなかに姥堂や大日如来や不動明王の石仏群が隠れていた。
志津は日光連山の十字路のようなところで、男体山はもとより女峰山や太郎山や戦場ヶ原へも道が通じている。奈良時代に男体山を開いた僧・勝道(しょうどう)もここから登っている。今に残る石仏は、勝道の歩いた道を修行の場とした日光修験において、重要な場所であったことの証である。そして姥堂だが、本尊の姥神は乳房がまぶしい豊満な老婆で、見開いた大きな目をした愛嬌のある姿で鎮座していた。明治四十一年に奉納された絵馬には「御姥」とあり、もう一つには「姥神」とあった。関東から東北南部の山にある姥神は、子育ての神として信仰されてきた。
道の十字路は同時に信仰の十字路でもあった。志津は出羽三山の姥沢にある地名。日光修験道の行場であったこの地に出羽三山の信仰が入ったのは、江戸時代初めと思われる。姥堂はその証であり、同じような姥神は那須の茶臼岳や日立の御岩山はじめ、阿武隈の山にも見い出せ、いずれも出羽三山とかかわりがあった山である。
この十字路には木曽の御嶽信仰も入ってきたようで、大真名子山への道には御嶽三座神(おんたけさんざしん)である御嶽座王大権現(おんたけざおうだいごんげん・三笠山刀利天宮(みかさやまとうりてんぐう)・八海山大頭羅神王(はっかいさんだいずらしんのう)が鎮座していた。