偏平足

山と石仏と独り言。

石仏番外 伊豆・藤原山(静岡)道標

2020年01月27日 | 登山

伊豆・藤原山(ふじわらやま) 道標(みちしるべ)

【データ】 藤原山 331メートル。国土地理院地図に山名無し。蓮台寺北の331.6三角点▼最寄駅 伊豆急行線・蓮台寺駅▼登山口 静岡県下田市蓮台寺▼石仏 登山道の途中、地図の赤丸印。青丸印は峠の石仏▼地図は国土地理院ホームページより 

 
【独り言】 かつて蓮台寺という寺があり、温泉街だったという蓮台寺です。寺のなごりは、寺跡に建つ天神神社=写真上=境内の残る大日堂の大日如来と四天王の木彫仏にみることができます。温泉街のなごりは、道端に置かれているしゃれた花台=写真下=でしょうか。

 宿が軒を連ねたという街を下った路地から、藤原山の東の峠めざして山に入りました。谷沿いの道がしばらく続いて、二俣になったところで出会うのが地蔵菩薩です。風化がひどく表情も印もわからない状態ですが、合掌地蔵のようです。表面のコケを落とすと、地蔵の右側に「あまぎみち」、左側に「まつざきみち」の銘が出てきました。道標を兼ねた地蔵でした。


 二俣からは左へ、地蔵の銘にある「まつざきみち」に入りました。道はすごい荒れようで、大木や竹が倒れ放題です。悪戦苦闘の末、どうにか藤原山の東の峠に出て一休みです。そのときカミさんが見つけたのが、峠の西側土手の中程に置かれた地蔵菩薩でした。心臓に病が見つかった私ですので、最近はいつも同行してもらっているカミさんです。カミさんはいつも遅れ気味ですが石仏を見つける名人で、私が見逃したものをホローすることも度々です。カミさんに言わせると、石仏探しになると私の視野は狭くなるそうです。こもっともなご意見で、石仏探しだけでなく、山を見る視野も狭く、この後目的の山へ行けない失敗もいたします。
 地蔵には「元禄十一寅(1698)」銘がありました。「昌譽榮□比丘尼」とも。墓石なのでしょうか。
 峠から石工・小川清助の庚申塔があるという藤原山に向かいました。尾根にははっきりした道が残っていました。これをドンドンいってしまったのが失敗でした。藤原山の中腹をトラバースして通りすぎてしまいました。伊豆南部の山は、名の知れた山以外は入る人も少なく、荒れています。道標は昔置かれた石仏ぐらいですから、ルートファインディングが難しい山が多いようです。石仏探しとなると今回のように空振りになることも少なくありません。
 幕末から明治にかけて、下田周辺で仕事をしたという小川清助です。彼が彫ったという藤原山の庚申塔でしたが、今回は時間切れで次回の宿題とします。

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石仏894伊豆・藤原山(静岡)納経塔

2020年01月24日 | 登山

伊豆・藤原山(ふじわらやま) 納経塔(のうきょうとう)

【データ】 藤原山 331メートル。国土地理院地図に山名無し。蓮台寺北の331.6三角点▼最寄駅 伊豆急行線・蓮台寺駅▼登山口 静岡県下田市蓮台寺奥の下大沢▼石仏 下大沢集落東の辻の段、地図の赤丸印。下大沢集落北の峠、地図の青丸印▼地図は国土地理院ホームページより 
 

【案内】 蓮台寺の北にある藤原山には石造物のある場所が何か所かあり、ここでは藤原山の西側登山口・下大沢からの道にある2か所のなかの辻の段を案内する。
 下大沢の中心にある集荷所から右の道に入るとどんどん高度をあげ、最後の民家の先に「下大沢庚申塔登り口」の案内がある。これは〝独り言〟で取り上げるとして道なりに登って行くと「辻の段入口」の案内がある。
 辻の段は集落の祀り場といったところで、入口に「明治四十四年/寄付者土屋仁左衛門」銘の手水鉢、その上に「秋葉権現/慶應三卯歳」銘の石燈籠、そして中央に「安政二年」と「安政六年」造立の石祠と造立年銘のない石祠が並ぶ。それぞれの神名はわからない。三基の石祠の脇に立つのが納経塔である。
 納経は安らかな生活や追善供養のため写経や経典を寺に納めること。この行為や埋めたことを記した石塔、あるいは埋めた場所に建てたのが納経塔。辻の段の納経塔は、塔身中央に「納経安国塔/明治□□卯/桂山沙門謹立」、台座には「地蔵本願経/金光明王経/妙法蓮花(ママ)経」など四巻の経典銘がある。桂山という僧が、国の安らかなることを願って納経したことを記した石塔となる。
 笠に相輪を乗せた台座も入れると125センチもある美しい石塔。形態は笠塔婆のようだが、塔身が短いうえ仏菩薩銘もないので単に笠塔とし、笠付の納経塔としておく。


【独り言】 下大沢の最後に民家の先の「下大沢庚申塔登り口」から庚申塔のある峠へも向かいました。途中道が不明瞭ですが、峠にはいくつかの石造物が並んでいました。地蔵菩薩、青面金剛の庚申塔、文字庚申塔、石祠と並ぶ光景は、日本の原風景を見る思いです。背後の杉林がなければ、下った先の集落や天城の山脈が見えて素晴らしい峠のはずです。しかしこの国の里山は、どこも杉林で埋め尽くされています。

 地蔵は合掌地蔵で高さ64センチ、「妙道禅譲尼為」と刻まれている。道標も兼ねていて「右やま道/左ま津ざき道/南ハ下田/北ハ天城」となっています。下田から松崎へ行くにはこの道が近道だったのでしょう。


 青面金剛は左手宝輪・裸婦(ショケラ)・弓、右手戟・宝剣・矢をもつ六臂です。裸婦は足の長い八頭身の美形で、足元の邪鬼は両手を頬にあてて余裕のあるほほえましいポーズです。
 文字庚申塔は「青面金剛明王塔」、台座の三猿はすべて欠け落ちていました。

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石仏番外 岩光山(千葉)日蓮と綿帽子、墓石

2020年01月20日 | 登山

岩光山(がんこうざん) 日蓮と綿帽子(にちれんとわたぼうし)、墓石(ぼせき)

【データ】 岩光山 209メートル。国土地理院地図に山名無し。日蓮寺北東の206.9三角点、地図の緑丸印▼最寄駅 JR外房線・安房小湊駅▼登山口 千葉県鴨川市内浦の日蓮寺▼石仏 日蓮は日蓮寺境内、地図の赤丸印。墓碑は市ヶ坂道、地図の青丸印▼地図は国土地理院ホームページより

【独り言1】 日蓮と綿帽子 日蓮は千葉県房総の長狭郡東条村(鴨川市)の生まれですから、房総の山では日蓮にまつわる石造物に出会うことがあります。今回の岩光山もそうでした。
 「立正安国論」で鎌倉幕府をいさめた咎で日蓮は伊豆へ流罪となります。これが許され、文永元年(1264)に病に伏していた母を見舞うため郷里に帰ります。その途中鴨川の小松原で恨みをもつ者に襲われ、岩光山の山中にある岩窟に逃げ込みました。そのときの様子を岩窟前にある「養疵窟(おいわや)」から案内します。
「文永元年十一月十一日、日蓮大聖人小松原法難の際、眉間に三寸余の刀疵を負われ、北浦忠吾志内の案内でこの岩高山の岩窟に逃れ、お疵の養生をしたる霊窟にして、血止の砂又お市老婆のお綿帽子奉献の由来の所であります」
 お市はたまたまこの道を通りかかった老女で、聖人の刀疵がすこしでも和らぐよう自分の綿帽子をあげたという故事から、いまでも11月11日に日蓮の像に綿帽子をおつけする行事を行っている寺があります。この像とは別に、境内には日蓮の石像もありました=下写真=。

 岩窟に建てられたのが岩高山日蓮寺です。寺では建治三年(1277)創建としています。山は岩光山、寺は岩高山です。日蓮誕生の地に建つ誕生寺は岩光山の山麓、日蓮寺から下った海岸にあり、こちらは建治二年の創建です。




【独り言2】 墓碑 日蓮が逃げ込んだ岩窟への道は、小湊から大沢へ出る間道の一つだったのでしょう。日蓮寺の東側の尾根にはっきりした道が残っています。市ヶ坂と呼んでいる道で、岩光山へは峠状の先から尾根に取りつきました。その取りつき点にあったのが洞窟と墓碑です。洞窟は天然のものか、掘ったものかわかりません。内部に一升瓶が転がっていて、人が住んだような気配がありました。洞穴の入口にある墓碑は高さ45センチ、頭に阿弥陀の種字キリーク、その下に「行道信士位/明治六酉天」とあります。戒名の頭に種字キリーク、戒名の下に位を置いたこの人物がどのような人だったかもわかりません。一帯は墓地でもなく峠下の湿地帯です。いまは物好きの登山者が歩くだけの道です。
 岩光山へは洞窟の手前から尾根に取りつきますが、道はありません。尾根目指して適当に登り、尾根に出てからはいくつかの枝尾根を合わせ北上すると山頂です。

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石仏893滑山(千葉)狐

2020年01月17日 | 登山

滑山(なめりやま) 狐(きつね)

【データ】 滑山 170メートル。国土地理院地図に山名無し。天津小湊の神明川上流左岸のピーク、地図の緑丸印▼最寄駅 JR外房線・安房天津駅▼登山口 千葉県鴨川市天津の神明神社先▼石仏 登山口の鳥居のところ、地図の赤丸印。緑丸は奥の院石祠。紫丸はもう一つの奥の院石祠。オレンジは石碑▼地図は国土地理院ホームページより


【案内】 滑山へは神名川左岸の道をたどり、左手に藤井家の墓地があるところから右手の山へ取りついた。かつて滑山様として信仰があった壊れかけた社殿がある場所で、獣除けネットに囲まれた畑の先の山際の鳥居が登山口。鳥居をくぐったところに、小さな狐の石像が一体立っていた。探すともう一体倒れていた。狛犬がわりの狐であり、ここは稲荷社が祀られていたはずである。近くに2基の石祠、少し離れてもう一基の石祠があり、いろいろな神が祀られた場所でもある。
 さて狐であるが、いま稲荷社の前に狛犬のように狐がいるのは当然の光景になっている。しかしこれをきちんと説明しているものはまだ出会っていない。このブログでも狐を何度か取り上げ、梅原孟氏の『京都発見-地霊鎮魂』(新潮社)や、大森恵子氏の「荼吉尼天と稲荷信仰」(仏教民俗学体系8、名著出版)などをとおして稲荷信仰の広がりを案内してきた。ここでは狐が稲荷の使いになった理由として、素朴な説を岩井宏實氏の「稲荷と狐、稲荷の絵馬」(注1)から簡単に案内しておく。
 田の神が食物神としてウケやミケツの神の名でも伝えられている。田中神社や田上神社などがそれで、京都の稲荷神社がかつては田中神社といったのも田の神だったからで、稲荷信仰は田の神を基礎に他の信仰と習合して生まれたものである。狐が稲荷の神使とされるのは、狐を田の神の先触れとみたからであろう。つまり、稲の実ったころ狐が山から下りてき、田んぼ近くで食物をあさり子狐を養う姿に神霊を感じ、正体を見せない田の神の先駆けと見て稲荷の神使となった。


 狐の狛犬から滑山へはかすかな踏み跡があり、尾根に出たところに石祠がある。内田栄一氏の『房総山岳志』(注2)の滑山に「御嶽の奥社」と案内されている石祠だ。登山口にある壊れかけた社殿が御嶽である。山頂へは木の根が張り廻られた尾根をひたすら登る。
(注1)岩井宏實著「稲荷と狐、稲荷の絵馬」昭和58年、『民衆宗教史叢書3』雄山閣
(注2)内田栄一著『房総山岳志』平成17年、崙書房出版




【独り言】 滑山様(なめりやまさま) 登山口にあった壊れかけた社殿が滑山様です。この神社の来歴は、ちょうど居合わせた地元の年寄に教えていただいた昭和45年に建てられた「滑山様大山祗教會開祖之碑」に刻まれています。地図のオレンジ丸印が石碑の場所です。要約すると、
滑山一円の地主である藤井家一族は代々この地に山祗社を祀っていた。明治になって神道教派に連なる滑山教会所を開いたが、明治22年に廃止。明治27年、金髙重五郎がこの地に大山祗大神と御嶽大神を合祀して御嶽教滑山巴協会所を開いた。加持祈祷を中心とした教えは多くの信徒を集め、房州の滑山様として信仰された。明治38年、木曽御岳などで修業を積んだ二代目金髙多きにより信徒は関東一円に広まった。昭和32年に三代目金髙照次に引き継がれ、先代先々代の遺業を残すため昭和45年にこの碑を建てた。
 これをみると、滑山様は木曽の御嶽信仰を背景とした加持祈祷の信仰団体だったようです。しかし石碑建立から50年、社殿はすでに廃墟になってしまい信仰も廃れたようで、居合わせた地元の年寄3人のうち、この神社の様子を知っているのは1人だけでした。ところでその年寄の話では、奥社は別の場所にあるというのです。その場所に行ってみると確かの新しい石祠がありました(紫丸印)。
 廃屋になった社殿の境内には「明治卅年」銘の手水鉢や、「長生郡一ツ松村大坪新田/講社一同」銘の狛犬。さらに『房総山岳志』にある奥社の石祠には東京の人の名があり、滑山様が広範囲に広まったのは事実のようです。

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石仏892音落ヶ嶽(千葉)道標

2020年01月13日 | 登山

音落ヶ嶽(おとおつがたけ) 道標(みちしるべ)

【データ】 音落ヶ嶽139メートル。国土地理院地図に山名無し。小松寺の南西139標高点のピーク、地図の青丸印▼最寄駅 JR内房線・千倉駅▼登山口 千葉県南房総市千倉町大貫の小松集落、地図の黒丸印▼石仏 音落ヶ嶽の北の尾根、地図の赤丸印。緑丸は3村銘がある石祠▼地図は国土地理院ホームページより

【案内】 内田栄一氏の『房総山岳志』(注)に音落ヶ嶽と紹介されている山へは、北の大貫浅間山から尾根通しに南へ向かった。同書ではこの南北に通じる尾根道を白浜道と案内している。南北の尾根には東西の里からの道も交差して、いくつかの石造物が祀られてきた。その一つが高さ90センチの道標。正面に「西すぎもと道/永代村/山萩村」、側面に「南者はま道」銘がある。「西すぎもと道」は、この白浜道の西側の館山市西長田にある安房観音霊場の33番杉本山東福寺。ちなみに東の登山口の小松にあるのが26番小松寺である。永代村と山萩村は明治10年に合併して山萩村になっている。「南者はま道」は白浜。
 道標の下部に左手で指さし、右手に数珠を持つ笠被りの人物が彫られている。この格好からして観音霊場の巡礼者の姿と思われる。



白浜道を南下すると、西側の小ピークに「永代村/山萩村/古茂口村」銘がある「天保十四年癸卯年(1843)の石祠が、この三村がある西側を向けて建てられている。祭神は不明である。さらに南下したピークが音落ヶ嶽。コンクリート覆い屋に、高さ48センチ「南無薬師如来乙王尊」の石塔が祀られている。寛政の造立で施主は安藤幾右衛門。『房総山岳志』には、小松寺のパンフによるとして「この墓は平成九年大貫区長の豊田氏が発見し、これを小松寺の住職と共に建て直した」とある。乙王尊は小松寺七不思議のひとつ乙王丸の伝説に登場する人物。
(注)内田栄一著『房総山岳志』平成17年、崙書房出版


【独り言】 マイナーな山では、獣に遭うことはありますが人に会うことはまずありません。そんな山中で、人物が彫られた道標に出会うとホッとします。人に出会ったような感じです。昔の人も同じ感じで見ていたのだと思います。道標を立てた人たちもそういうことを知っていて、このような道標を造ったのでしょう。これまでも同じような道標に出会ってきました。山梨・大鹿峠の地蔵菩薩、新潟・刈羽黒姫山の旅人などです。

 ところで安房観音霊場の26番=上写真=と33番は山を挟んだ里にあり、それを結ぶ道に立っている巡礼姿入りの道標は巡礼者を意識してたてたのでしょうが、26番からいきなり33番に行くことがあったのでしょうか。このあたりはよくわかりません。それから安房観音霊場は34番まであります。かつては33番が結願寺だったようです。これもいつの時代はわかりませんが34番大山不動堂が加わったようで、正式名称は安房三十四カ所観音霊場です。ですから33番から34番へはとんでもない遠方になっています。札所を増やすときは番外とするものですが、34番としてのよほどの理由があったのでしょう。そして房総には上総三十四カ所観音霊場もあります。

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石仏891大貫・浅間山(千葉)石祠・富士大神

2020年01月10日 | 登山

大貫・浅間山(せんげんやま) 石祠・富士大神(ふじおおかみ)

【データ】 大貫・浅間山110メートル。国土地理院地図に山名無し。小松集落の西のピーク、地図の赤丸印▼最寄駅 JR内房線・千倉駅▼登山口 千葉県南房総市千倉町大貫の小松集落、地図の黒丸印▼石仏 浅間山の山頂、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより


【案内】 大貫の浅間山は、千倉と館山を結ぶ大貫街道と安房グリーンラインが交差するところが登山口。それほど登りもないまま進むと右手の高みに石燈籠が見えてくる。台座には、山印に「包」が刻まれている。安房に多い富士信仰の山包講が建てたものだ。山包講については、このブログの背波澤山(千葉)で案内しましたが、江戸の修山禅行(包市郎兵衛)が講祖で、千葉の本拠地は市原市五井。禅行の弟子の正行真鏡(池田作左衛門)が先達だった。房総の山の富士信仰石造物は、この山包講と木更津の穐行日穂の山水講が多く、誠行重山(秩父屋与兵衛)の山三講が若干みられる

 石灯籠の上が浅間山の山頂。広い境内の奥に「富士大神」銘がある大きな石祠が鎮座している。富士山の神の名称はいろいろあり、江戸期に造立されたものは神仏混交からきている「仙元大菩薩」「富士仙元大菩薩」、明治期になると神仏分離で「浅間大神」「木花開耶姫命」などになる。権現や菩薩など仏教系の神名は大神に変更させられたのである。富士大神も明治になってからのものである。
 石祠には二つの台座があり、上の台座に「明治七年戌大貫村/長狭郡仲居村/石工儀助」とあり、「加藤作右衛門/𠮷田治右衛門/小柴七右衛門」以下58名の名前がある。下の台座には「明治二十六年/先達/加藤万蔵/𠮷田治右衛門/小柴七右衛門ほか31名の名前がある。明治7年から26年の間に、加藤・𠮷田・小柴などの先達が生まれていたことになる。



【独り言】 房総の山は昨年の台風でそうとう荒れている感じだったので、登山を先延ばしにしていました。それでも冬になれば、家から近い房総の山が登りやすので出かけました。目指したのは安房観音札所26番小松寺あたりの山でしたが、心配していたとおり、寺からの道は通行止めでした。ここは無理したくないので大貫浅間山の登山口へ回ってみると、こちらも「倒木の為通行止め」の立て札がありました。そこで姑息な方法でしたが、立ち入り禁止とはなっていないね、と勝手に解釈して登り出しました。ところが道は意外に歩きやすくなっていました。この山は山麓の〝大貫古道の会〟のメンバーが登山道を整備しているので、その人たちの手によって少しずつ復旧しているようです。しかしそれも大貫浅間山までで、そこから先の尾根は倒木やがけ崩れの箇所がいくつかありました。
 倒れている木は里近い杉林の杉がほとんどでした。杉は根の張り具合が小さいため倒れやすいようです。尾根筋のスダジイなど根のしっかりした照葉樹林でも根こそぎ倒れている木もありましたから、台風では想像もできない強烈な風が吹いたはずです。そして房総の山はどこもこんな感じなのかもしれません。

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八千代新川千本桜 20-01

2020年01月08日 | 




新川の土手は静かな新年です。昨年の台風で電柱に寄りかかって倒れるのを免れた桜木1本、昨日起こしてきました。真っすぐに起こしたかったのですが、それは無理なほど太く大きな桜でした。枝切、杭打ち、盛り土など結構な仕事でしたが、途中から雨が降り出したので早々に切り上げました。

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屋上菜園2020-01 冬野菜

2020年01月07日 | 屋上菜園



 ホウレンソウ、ミニ大根、タマネギ、ニンニク、そして昨年12月に植えた茎立ち菜が元気に新年を迎えました。茎立ち菜は野鳥の餌になってしまうのでネットの中です。
 プランターの屋上菜園、夏は水やりが大変でツルものは不向きですが、冬は日当たりも良く、水やりの心配もないので冬野菜に適しています。

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山小屋日記37

2020年01月06日 | 山小屋




【しの竹の藪】 昨年の
12月に山小屋の掃除に立ち寄りました。夏から秋にかけては行っていないので小屋内はほこりだらけ。蛇が脱皮した皮まであって、夏の間にムシたちが遊びまわっていたようです。それよりも凄いのは〝しの竹〟の成長です。囲炉裏の隙間からも竹が一本出ていました。小屋の周りはしの竹で埋め尽くされそうです。これを刈りとらないと竹藪になってしまいます。しかし今回は時間切りで掃除だけでした。
 囲炉裏で火を焚き、のんびり過ごすはずの山小屋でしたが、歳を重ねるほど余裕がなくなってきたのはどうしてでしょうか……。体力も経済力も余裕がなくなったためでしょう。

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日本の石仏169

2020年01月03日 | 


■発行・日本石仏協会 〒224-0037横浜市都筑区茅ヶ崎南1-3-10-409(前川) ℡045‐943‐4409
■発売・青娥書房 〒101‐0051東京都千代田区神田神保町2-10-27 ℡03‐3264‐2023
■2000円+税

【表紙】片木の観音さん/佐賀県藤津郡太良町(中野高通)
【写真】
▼弁才天/徳島県さぬき市の大窪寺(金子治夫)
▼いつもニコニコ見てござる/長野県諏訪市の温泉寺(高野幸司)
▼松下田の双体田の神/鹿児島県薩摩川内市城上町(中森勝之)
▼岩谷観音/福島県福島市岩谷・画(久野秀晴)
【巻頭随想】現在の活動をおしらせしたい(坂口和子)
【特集】近世磨崖仏
▼群馬の磨崖仏(金井竹徳)
▼若越八十八ヶ所めぐり内にある磨崖仏(大久保修)
▼福島・大名倉山(大玉村)の消えた磨崖仏(田中英雄)
▼広島県尾道市周辺の磨崖仏(中森勝之)
▼佐渡・相川の平田磨崖仏(門田春雄)
【論考】
▼丸石道祖神ノート(三)-丸石信仰の展開(1)江戸時代とそれ以前の形態―(岡田均)
【石仏探訪】
▼宮亀年こぼれ話2 木遣會真棒(嘉津山清)
【誌上講座】
▼石仏入門㉓月待塔・Ⅰ(門間勇)
▼名号塔の知識㉞名号ア・ラ・カルト(岡村庄造)
【会員の広場】▼北限の磨崖仏/岩手県平泉町(椙田道行)▼豊玉姫石像/福井県越前町松浦(殿南直也)▼台風19号の爪痕・小剣神社幟織姫立像災難/埼玉県東松山市早㑨(門間勇)▼主尊が柄香炉を持つ日蓮宗系庚申塔/横浜市港北区仲手原の慈雲寺(伊東英明)▼道しるべ(光野志のぶ)▼岩のほとけ(久野英晴)
【石仏談話室】2019年7月▼坂田澄男「石仏スケッチ雑感」(中森勝之)▼門間勇「動物に乗った仏様・神様」(岡田均)/9月▼上野盛男「長崎県大村市福重の石仏」(中森勝之)▼中野高通「多良岳の石仏-菩薩の階梯を登る道-」(前川勲)/10月▼吉田信吉「川場村一泊見学会報告」(岡田均)▼中森勝之「庚申信仰と庚申塔」(中野高通)
【第41回石仏公開講座を終えて】
▼第1講 楳村修治「石仏の出会いが私の人生を変えた」(中森勝之)
▼第2講 窪田雅之「安曇野の道祖神に人々が魅かれる理由は?」(中森勝之)
▼第3講 浜田弘明「地域文化と石仏分布」(前川勲)
▼第4講 前川清一「熊本の石造物-くまモンもビックリ!」(中野高通)
【その他】▼123回石仏見学会報告・埼玉県所沢市-所沢市の石仏見学会/案内・門間勇▼一泊見学会報告・静岡県志太地域を中心とした石仏及び神社仏閣を巡る/案内・佐野雅基(三代川千恵子)▼石仏交流▼本の紹介・坂口和子著『裸足の訪問-石仏の源流を求めて』(岡田均)▼日本石仏協会第44回総会開催のお知らせ▼2020年度石仏一日見学会実施予定▼第125回石仏見学会案内/3月29日東京都足立区▼一泊石仏見学会案内/4月20~21日長野県佐久市▼編集後記(坂口和子)

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2020年石仏写真展

2020年01月01日 | 石仏

日本石仏協会2020年石仏写真展
期 日 1月15日(水)~19日(日)
会 場 東京都千代田区一番町25JCビル地下1F
    日本カメラ財団JCクラブ25 フォトサロン
最寄駅 東京メトロ半蔵門線・半蔵門駅④出口
偏平足 15日午後1時30分~5時、会場におります

偏平足の作品

①花山法皇
「有馬富士ふもとの霧を海と見て」


②仏眼上人
「ここも旅また行く先も旅なれや」


③徳王観音
「逆縁ももらさで救う願いなれば」


④善光寺三尊
「見はここに心は信濃の善光寺」

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石仏890川東・羽山(福島)祠内仏

2019年12月30日 | 登山

川東・羽山(はやま) 祠内仏(しないぶつ)


【データ】 川東・葉山689メートル。国土地理院地図に山名無し。久根越集落の東北東689.7三角点最寄駅 JR水郡線・川東駅登山口 福島県須賀川市上小田山字古寺、地図の黒丸印石仏 古寺からの道の山頂近く、地図の赤丸印。青丸は白山寺観音堂、緑丸は三十三体観音地図は国土地理院ホームページより

【案内】 阿武隈山系には羽山・葉山という山が多いので、須賀川市の水郡線川東駅の東にある羽山を、川東・葉山として案内する。川東は明治時代に羽山の西山麓にあった村。そして祠内に祀られている石仏を祠内仏として案内する。
 羽山へはかつての川東村上小山田の古寺山白山寺の観音堂の先から登った。観音堂先の農家の人の話では道が荒れているとのことだったが、登り出しは藪だったがすぐ明瞭な広い道に出た。広い道は平坦でしばらく続き、登り出すと途中いくつかの分岐があるが案内は少ないので東の高みを目指した。広い道から山頂への尾根に取りつくとすぐ、宝形造りの宝珠のない石祠が祀られていた。室部の奥壁に仏像が彫られた祠内仏である。大きさ25センチの坐像はすべて簡素であるが、結跏趺坐した足の上に両手で薬壺を持つ姿が確認できる。薬師如来である。銘などはない。

 山頂下の尾根にもう一つ宝形造りの石祠があった。こちらは宝珠がある。先の薬師と同じように室部奥壁には仏像が刻まれている。大きさ33センチの宝冠をいただき蓮華を持つ。この祠内仏は聖観音菩薩である。
 これら二つの宝形造りの室部は三枚の板を組み合わせたもので、奥壁の仏像は組み立てることを考える、線刻なら簡単だが浮彫りは面倒な細工と思える。しかしこうして組み立てたものを見ると、浮彫りの方が仏殿らしい。

 山頂には「昭和七年/岩瀬郡須賀川町/願主岩崎直次郎/東羽山主別当大宝院」銘の石祠が2基並ぶ。さらに昭和貳年の「山の神」と昭和三年の「御大典紀念」の石造物もある。この御大典(ごだいてん)は昭和天皇即位を祝っての造立である。



【独り言】 羽山登山口の古寺白山寺の裏山に白山神社が建っていました。その入口に石仏が立ち、これが白山寺の観音堂へ続く参道に並んでいます。入口に立つのは龍に乗った龍頭観音で「一番」銘がありましたから、参道に並ぶ石仏は三十三体観音です。それにしても竜頭観音の龍は立派です。尻尾が観音の肩まで巻き上がっていて豪快です。こうなると続く二番、三番の観音が楽しみです。


 二番は蓮華を持つ立像で尊名はわかりません。三番は合掌で背後に羽根のようなものがついています。観音の配列からみると、この羽根は光で円光観音なのでしょうか。そして四・五・六と尊名は不明です。九番は籃状のものを持っていますから、魚籃観音でしょうか。ここまで江戸時代に出た仏像の案内書『仏像図彙』を参考に見てきましたが、龍頭観音以外は照合することは無理でした。何を見本にして彫ったのかわかりませんが、石工独自の感覚で彫ったとしか言いようがない観音が並んでいました。

 仁王門前にこの三十三体観音造立の寄進者銘の石碑がありました。そこには「大森田村大栗大宝院以下、若干の男性と多くの女性銘があり、「干時大正九年三月十日当山兼住昭海」とありました。大宝院は山頂に石祠にもあった銘です。大宝院は羽山の西山麓にある天台宗の一派の本山修験宗の寺です。
 それから「祠内仏」は私が便宜上使っている名称で、石祠内に祀られている石仏を指します。ここに挙げた室部内の奥壁に仏像を刻む例も祠内仏としています。祠内仏の多くは宝形造りの石祠内に祀られています。

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石仏番外 米山(福島)月参記念碑、米山信仰の伝播

2019年12月27日 | 登山

米山(よねやま) 月参記念碑(がっさんきねんひ)、米山信仰の伝播(でんぱ)

【データ】 米山 351メートル最寄駅 JR水郡線・磐城塙駅登山口 福島県塙町台宿、地図の黒丸印石仏 尾根の中程、地図の赤丸印地図は国土地理院ホームページより



【独り言1】 月参記念碑 前回(米山・アビラウンケン)に続いて米山の登山道にある石造物を紹介します。登山口の石段を登った先にあるのが「聖徳太子塔」銘石塔と僧形坐像です。聖徳の文字がなかなか読めませんでしん。石塔で太子とくれば聖徳に決まっているのですが、感がにぶくなってしまいました。情けないです。僧形坐像は地蔵でもなく、聖徳太子でもなく、弘法大師でない像容です。
 次に出会うのが月参記念碑です。「米山薬師尊/月参五百二十六回記念」とあります。明治23年から昭和9年までの45年間、ほぼ毎月米山に登った回数を記念した建てたものです。登った人は山麓古宿の鈴木サワさん、82歳でした。女性でしょうね。



【独り言2】 薬師如来 米山の山頂に建つお堂は、古宿にある薬王寺の奥の院です。真言宗の寺ですから、参道に弘法大師像や四国八十八ケ所霊場の本尊が置かれています。しかし本尊とわかるご詠歌が入った石仏は7体しか見つかりませんでした。それも30番台までの石仏です。残りはどこにいったのでしょうか。別の登山道にあるのでしょうか。それから、残された八十八ケ所霊場の本尊石仏は薬師如来が多いのは偶然でしょうか。そしてこれとは別の小ぶりな観音、また大きな台座に乗った立派な観音もあって、どれだけの石仏が置かれたのかは不明です。

【独り言3】 米山信仰の伝播 塙の米山薬師信仰は、江戸時代の薬王寺住職だった宥善上人や義観上人によって布教されたことは先のブログ・米山で書きました。米山薬師の本山は新潟の米山です。新潟一円に広まった米山薬師の信仰は、薬師の本願の一つである病気の平癒と、米山に自生する薬草・当帰(トウキ)による虫除けでした。新潟県内の米山に関係する山が『米山信仰』(注)に紹介されています。佐後両津市の米山薬師、松代町の儀明薬師、栃尾市の繁窪薬師、長岡市の風谷薬師、大島村の薬師堂、頚城村の米山堂、安塚町の薬師堂などです。これが全国に広まった例も同書に紹介されていました。岩手県宮古市、埼玉県𠮷田町、静岡県下田町、鹿児島県姶良市などです。伝えたのは諸国遍歴の里山伏と推測しています。里山伏は一言でいえば江戸時代に里に定着した修験者で、寺持ちもいれば百姓と兼業の者もいて、住民の依頼に応じて加持祈祷・施薬などをし、石仏造立の背景となった様々な信仰を指導した人たちです。薬王寺の宥善や義観の詳細はわかりませんが、真言宗の寺ですから各地の山岳霊場を巡礼して、米山の病気平癒と虫除けの信仰に心動かされたのでしょう。
(注)柏崎市立博物館第36回特別展図録『米山信仰』平成10

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石仏889米山(福島)真言・阿毘羅吽欠、大日三尊

2019年12月23日 | 登山

米山(よねやま) 阿毘羅吽欠(あびらうんけん)、大日三尊(だいにちさんぞん)

【データ】 米山 351メートル▼最寄駅 JR水郡線・磐城塙駅▼登山口 福島県塙町台宿、地図の黒丸印▼石仏 尾根の中程、地図の赤丸印。青丸は薬王院▼地図は国土地理院ホームページより

【案内】 越後の米山を勧請した塙の米山は、山麓にある薬王寺の奥の院だった。山頂までの山道に石仏が置かれている。薬王院境内の案内には「延宝(1673~80)の昔、米山中興の祖と言われる宥善上人や、安永(1770~80)年間の義観上人らの布教等によって、八溝山をとりまく広域に「米山薬師信仰」が高まり、多くの信徒達の寄進により、寛政二年(1790)の春、建立されたと伝えられている」とある。
 米山への道に置かれた石仏は、舟形光背の上部に各霊場のご詠歌、下に本尊銘があって四国八十八ケ所霊場の本尊とわかる。中腹の小ピークには弘法大師の石像もある。それから真言塔や宝篋印塔も立つ。真言塔は二基。一つは梵字のア・ビ・ラ・ウン・ケン(阿毘羅吽欠)銘が入る胎蔵界大日如来真言塔。一つは一番下のオンから左回りに「アボキャベイロシャナウマカボダラマニハンドマヂンバラハラバリタヤウン」の24文字からなる光明真言塔(米山の塔には最後のウンが入っていないので23文字)。胎蔵界大日真言を唱えることによりすべてが成就し、光明真言の功徳は過去に罪障を取り除く、などの御利益がある。

 米山の光明真言塔には中央のアを囲むように、天地左右にビ・ラ・ウン・ケンの胎蔵界大日真言が入っている。そして宝篋印塔もある。これらは薬王院の関係ある石塔なのだろうか。また「宝暦十庚辰(1760)秋立之」銘もある。儀観が住職だったころの造立と思われる。
 光明真言塔の下に「三界万霊」と不動・愛染明王の種字がある。不動・愛染を脇侍とした大日如来となる。



【独り言1】 大日三尊 なるべく避けてとおりたい真言ですが、またその世界に迷い込んでしまいました。よくわからないのが大日三尊の愛染です。塙の米山の光明真言塔は中心に大日如来真言のアビラウンケンがあり、下に不動・愛染明王の種字がある大日三尊形式です。ところで私が知っている大日三尊は、茨城県南部に集中している寛永期の鼻の大きな大日様と称された石仏のなかにある、不動・降三世明王を脇侍とするものです。この三尊形式は大日如来を中心に描かれ、息災・増益・延寿・滅罪を祈願するときに用いる尊勝曼荼羅(そんしょうまんだら)で、その両脇下に不動と降三世の明王が描かれています。これに対して大日と不動・愛染の三尊形式が何にもとづいているのかは、わかりません。大日と不動・愛染の三尊形式は山伏の笈に描かれているのを何度か見たことがあります。しかし像容のあるこの三尊形式の石仏は見た覚えがありません。
 米山の登山道には別の石仏もありますので、それは次回(番外・米山)に案内します。

 

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石仏888太郎山(茨城)大日如来

2019年12月20日 | 登山

太郎山(たろうやま) 大日如来(だいにちにょらい)

【データ  太郎山 447メートル▼最寄駅 JR水郡線・袋田駅(台風で鉄橋が流され、西金~常陸大子間運転見合わせ中)▼登山口 茨城県大子町袋田の袋田駅▼石仏 太郎山の東北351.7三角点のピーク、地図の赤丸印。青丸は箕輪の観音堂▼地図は国土地理院ホームページより

【案内】 袋田駅の北、久慈川にかかる橋が太郎山の登山口箕輪集落への入口。曲がりくねった道を登り、右下に赤い屋根の観音堂を見ると山道になる。山道といっても、集落の上部にある消防無線基地までは林道が入り、電柱を目当てに登ればいい。案内する大日如来は無線基地の先から北の尾根を下った先の小ピークに祀られている。こちらにはTV放送中継基地の鉄塔が二つ建つ。二つの間に大日如来が立つ。
 大日如来は金剛界智拳印の立像で、上部に胎蔵界大日の種字・アーンクを刻む。脇に「湯殿山供養塔/安永十辛丑(1781)」とある。高さ60センチの出羽三山供養塔だ。大日如来は羽黒山・月山・湯殿山の総称である出羽三山の奥の院になる湯殿山の本地仏。関東の出羽三山の供養塔は「月山/湯殿山/羽黒山」と三山銘がほとんどだが、東北では上部にアーンク、その下に「湯殿山」と奥の院銘だけの石塔となる。茨城、栃木の北部でも「湯殿山」だけの石塔が散見する。また関東でも明治以降は「湯殿山/月山/羽黒山」と中央が湯殿山から月山に入り替わる。明治維新の神仏分離のとき、月山がいち早く神道に変わったに対し、湯殿山は仏教にこだわったのが災いし、神格の格付けで月山が湯殿山よる上になったためである。

 大日如来の脇には「湯殿山神社/明治九丙子」銘の石塔が立つ。明治になると、湯殿山はじめ三山はみな神社となる。下はそれぞれの神社が出すお札。




【独り言1】 太郎山 太郎山へは、無線基地の先まで戻って尾根道を西に向かいます。緩やかな登りが続いた先の山頂は金網のフェンスで囲まれていました。フェンス内に建つのは国土交通省東京航空局の無線基地でした。西の道坂峠から車道が入っていて、サイクリングの若者が登ってきました。


【独り言2】 流された鉄橋 袋田駅から登山口の箕輪への道に架かる橋の北側にはJR水郡線の鉄橋が架かっていました。しかし10月の台風による増水で鉄橋もろとも線路が流されてしまい、工事中が始まったところでした。完成はだいぶ先になりそうです。東日本大震災のときには岩手県釜石で流された鉄橋を見て、津波の恐ろしさを目の当たりにしましたが、水の力は時として計り知れない魔物になるときがあるんですね。この国では最近それが頻発しています。それも中流域で起きています。

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