偏平足

里山の石神・石仏探訪

『東国里山奥山の石神・石仏風土記』⑤

2024年08月12日 | 

【最終校】

   私の余命を心配しての編集の人たちが行程を早めてくれ、8月のお盆前に出版がきまりました。それは私への要求も早まることになり、内容も厳しいもので資料や引用した本に当たることが多く、書庫にいる時間が多くなりました。本探しはカミさんに頼みましたがこちらの体力が持たず、休みながらの作業です。
 こうして7月中旬に最終校のチェック、その後のメールによる疑問点のやり取りもすませ、なんとか出版に漕ぎ着けそうです。その様ななか、WFのルータが壊れ、ネットがつながらない状態になってしました。復旧まで数日。私の命より我が家の通信手段が尽きてしまったことは、何とも皮肉なこと。もう少し頑張ります。

 

 ※PCに残っていた原稿です。

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里山の石神端書 山梨県富士川町平林

2024年08月02日 | 里山石神端書

里山の石神端書305石段(富士川町平林の氷室神社)

里山の石神端書306五色の幡(山梨県富士川町平林)

里山の石神端書307丸石道祖神(富士川町平林集落内)
里山の石神端書308日蓮宗(富士川町平林集落内)

里山の石神端書309木彫神仏像(富士川町平林の栃窪)

 

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屋上菜園2024-08 闘病日誌31

2024年08月01日 | 屋上菜園

 カミさんの屋上菜園は閉鎖中です。

     *

 食道がんも発症してから2年になります。抗がん剤も使う薬がなくなり、緩和ケア治療になりました。今は自宅療養中。
 週一の訪問診察で病院通いはなくなり、楽になりました。しかし毎日が痛みとの戦いです。いま4種類の痛み止めを食後・時間を決めて飲んでいますが、即効性はありません。そのなかで副作用がある薬(麻薬系)は、当初心配があって使用しなかったのですが使ってみると効果があり、今では頼りにしている薬になってしまいました。
 この様な感じで、痛みはどんどんエスカレートするのでしょう。それでも、薬により痛みがすこしでも和らいで、パソコンでブログの原稿が書け、発信できれば日々の励みになります。

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里山の石神端書309木彫神仏像(山梨県富士川町平林)

2024年07月30日 | 里山石神端書

富士川町平林・栃窪の木彫神仏像


 稀なことですが、里山の寺社境内に古びた木祠が残っていることあります。


 そのほとんどは朽ち果てていますが、中にはしっかりした木祠もあり、神仏が納められていることがあるので祠内を確認します。ところが木祠の扉を開けるとき、奇妙な虫が飛び出すことがあります。私は子供のころからこの虫が苦手で、いまでも見るだけで飛びあがります。それは足の長い羽根のない茶色の虫で名前は「カマドウマ」。体長は2センチほどですが、子供のころ風呂場で出会い、長い足ジャンプでするので飛びつかれるような恐怖がありました。それから湿った暗い場所が棲家のカマドウマが苦手になってしまいました。
 栃窪の寺の隅の木祠でカマドウマに出合ってしまい、久々に飛びあがってしました。それでも木内には木彫の神仏が納められていたので、カマドウマが逃げるのを待って、調べてみました。

 木祠ないには2体の木彫が鎮座。1体は両手で胸中央に剣を持ち、亀に立っている姿から妙見菩薩としました。妙見は仏教の神ですが中国の道教と融合して星の信仰も加わって天部の仏となり、この国では中世に武家の守護神として信仰されたこともありました。とくに関東の武家では千葉氏の北斗七星を家紋といた九曜紋が知られています。その流れを組む一つが相馬中村藩でした。

 1体は神像で、平安時代の貴族の服装束帯で胸に菅原道真の梅花もが描かれていたので、菅原道真としました。
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書309日蓮宗(山梨県富士川町平林)

2024年07月26日 | 里山石神端書

富士川町平林・日蓮宗

 平林は富士山が見える棚田の集落。日蓮宗寺院の多いところで、かつての平林は8つの地区(組)があり、今も5つの地区に日蓮宗の寺があります。それは石造物をみてもあきらかで、髭題目の題目塔をはじめ、日蓮宗ならではの発見があったので紹介します。

 初めは寺紋(家紋)の「井桁に橘」です。日蓮宗すべてがこの紋ということではありませんが、聖人の家系の先祖が伊江家に繋がること。また聖人が生まれたとき泉が湧き出したことから、泉にちなんで井桁を。また聖人が好んだ橘を組み合わせて、「井桁に橘」ができたとの伝承があります。

 「七面山」も日蓮宗の境内に見られる御堂です。

 七面山は日蓮宗の総本山である身延山(標高1153メートル)の南西、標高1983メートルの南アルプスの一角にある高山です。この山の住んだのが七面の神。伝承によると、日蓮聖人が身延山で説法をしているのをいつも聴きに登ってきた女性が七面の神で、聖人にうながされて七面山の竜神であり、法華経の守護神であると告白。後日「七面大明神」として七面山に祀られました。身延山にお参りした信者は七面山にも登ることを、いまも続けています。
 「題目塔」も日蓮宗の境内に見られる石塔です。南無妙法蓮華経は日蓮聖人が構成した「大曼荼羅」の御本尊。増塔の経緯を『日本石仏事典』(注)から簡単に案内します。

 聖人は「妙法蓮華経」こそ釈迦の説法の神髄が含まれていると説き、南無を冠して「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることを日蓮宗における実践行とした。これを掛軸にしたのが題目曼荼羅。この七文字のうち、「法」以外の文字の端を長く伸ばしたのが「髭題目」と称されている。日蓮が亡くなったのは弘安2年(1282)年。軸は文永期(1264~1275)から作られ、石塔は弘安期(1278~1288)造立がはじまる。当初髭がなかった書体も、応永期(1394~1428)から見られ、その後諸仏・諸神・十羅刹女などが加わって。「大曼荼羅」が整った。





 石造物にも日蓮宗ならではのものを見ました。その一つが遠忌(おんき)報恩塔。死者に対する100年、200年などの年忌法会で、高僧の遠忌塔が主ですが、日蓮の遠忌塔は日蓮宗の寺院によく見られます。平林には髭題目が刻された馬頭観音もありました。
(地図は国土地理院ホームページより。赤丸は日蓮宗寺院)

 

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里山の石神端書307丸石道祖神(山梨県富士川町平林)

2024年07月23日 | 里山石神端書

富士川町平林・集落内の丸石道祖神

 平林は富士山が見える棚田の集落。集落内には丸石道祖神が集落の字ごとに祀られていました。上の写真は平林郵便局先の道祖神です。
 丸石道祖神は山梨県の中央部(国中)に集中的に見られる道祖神で、多くは丸くなった自然石や人工的に丸くした石。その起源については平安時代末期の『信貴山縁起絵巻第三巻』に描かれた、京都下京区の松原道祖神社に描かれた丸石を引いて、丸石信仰は古くからこの国にあったものとされています。同じように丸石は古くからあった信仰としているのが山梨の道祖神研究科の中沢厚氏で、石棒などと同じ縄文時代からあったとしています。丸石が多い山梨県の国中でも、北東部の『山梨県の道祖神』、生命復活のシンボルだったのではと推測しています。そして丸石には丸い石、丸いが偏平な石、単独の石、複数の石があり、丸い石を単独で祀るのは山梨だけと報告しています。
 平林では郵便局の他に3カ所で丸石を見ました。
 平林の稲荷時神社

 搘畑

 栃窪

 このうちの3カ所の丸石には「道祖神」の銘が入っていました。中沢氏の報告では、丸石のほとんどに銘はなく、台座に道祖神や紀年銘があるだけ、としています。そうすると「道祖神」銘が入るのは新しいものか、それともこの平林だけのものか、山梨の丸石をそれ程見ていない者には判断がつきません。
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書306五色の幡(山梨県富士川町平林)

2024年07月19日 | 里山石神端書

富士川町平林・氷室神社の五色の幡

 平林は富士山が見える棚田の広がる集落。集落の奥に氷室神社が建っています。神社の今年の祭日は4月21日。訪ねた20日は祭礼の準備で、
すでに集落内には、五色の幡がはためいていました。




 幡の五色は黒(紫)・黄・赤・白・青で、青は木、赤は火、黄は土、白は金、黒は水を差し、仁・礼・信・儀・智の陰陽五行の五行を表す色。これを仏教では黒(釈迦の袈裟)、黄(身体)、赤(血)、白(歯)、青(髪)とする解釈もあります。いずれにしても、陰陽五行の根本となる思想からでたものです。富士山を背景にはためく五色の幡は平和そのものでした。



 祭りの準備は集落の人たち総出の仕事。氷室神社の名物である石段入口の鳥居では注連縄の準備、境内では提灯の飾りつけなどが行われていました。
(地図は国土地理院ホームページより)


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里山の石神端書305石段(山梨県富士川町平林)

2024年07月16日 | 里山石神端書

富士川町平林・氷室神社の石段

 平林は大きな富士山と美しい棚田の広がる山間の集落。集落の奥に鷹尾山氷室神社が建っています。

 氷室神社に登る石段は519段。杉林のなかに広い石段が延々と続きます。このような立派な石段があるのは、この神社が古くは真言宗の鷹尾寺で、鷹尾山権現の別当寺で武田・徳川期に保護されてきたためでした。本尊は文殊菩薩・不動明王・降三世明王。これが氷室神社になったのは明治の初めの神仏分離。いま境内に仏教の形跡は薄く、境内奥の卵塔が見られるぐらいです。本尊の文殊・不動・降三世明は集落内の平林公民館脇の文珠堂に移されました。木彫の素朴な仏たちが鎮座しています。
 次にその立派な石段を写真で案内します。


(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書 山梨県上野原市秋山

2024年07月12日 | 里山石神端書

里山の石神端書298心印塔(上野原市秋山桜井・真福寺)

里山の石神端書299石垣(上野原市秋山桜井・諏訪神社)

里山の石神端書300道標(上野原市秋山古福志・天神社)

里山の石神端書301三十番神(上野原市秋山小和田・山ノ神宮)
里山の石神端書302馬頭観音(上野原市秋山)

里山の石神端書303地蔵菩薩(上野原市秋山寺下・吉祥寺)

里山の石神端書304雛鶴媛(上野原市秋山無生野・雛鶴神社)


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里山の石神端書304雛鶴媛(山梨県上野原市秋山)

2024年07月09日 | 里山石神端書

上野原市秋山無生野・雛鶴神社の雛鶴媛

 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。村の西外れは無生野集落に雛鶴神社が建つ。祭神は大塔宮護良親王・雛鶴媛・葛城綴連王の三柱。

 大塔宮護良親王(1308~1335)は後醍醐天皇の皇子。南北時代に足利尊氏により鎌倉に幽閉殺害されました。雛鶴媛は護良親王の侍姫。侍女とともに護良親王の首をもって鎌倉を逃れたが秋山の無生野で産気つき、不運にも母子ともに亡くなられこの地に埋葬、首は都留方面に運ばれたと伝わっています。葛城綴連王については諸説あって、一つは雛鶴媛が生んだ護良親王の王子、これとは別の護良親王の王子で、たまたまこの地に逃れてきて親王と雛鶴の経緯を知り、その不思議な縁によりここに住んだそうです。この三人を弔うために始まったのが無生の大念仏で、今に続いています。


 再建された雛鶴神社に「葛城宮綴連王奥都城」銘の古い墓碑が立っていました。奥都城は神道の墓所を意味する語。造立年として「応永(1394~1428)」らしい銘もありますがはっきりしません。
 境内には新しく造立された雛鶴媛の像もありました。

(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書303 地蔵菩薩(山梨県上野原市秋山)

2024年07月05日 | 里山石神端書

山梨県上野原市秋山寺下・吉祥寺の地蔵菩薩
 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。集落ごとに寺社がありますが、なかでも寺下の吉祥寺は真言宗の古刹で、山間部にしては大きな構えのお寺です。
 女将さんにお茶の接待を受けながら石仏の話をしていると、本堂に中世の地蔵石仏があるというので拝見させていただきました。
 地蔵は須弥壇裏に隠れるように置かれていました。大事に扱われているのは、この地蔵が中世に造られた貴重な石仏だからで、秋山の石仏を紹介した『ふれあい 村の晨光』(注1)では南北朝時代のものと案内されていました。地蔵には年号があるはずと寺の女将さんに聞いたので、懐中電灯を借りて探してみましたが、それはありませんでした。
 この貴重な地蔵菩薩、女将さんからいただいた坂本美夫氏の「山梨県の中世石仏」(注2)にまとめられていましたので、抜粋して紹介いたします。
 地蔵は光背と台座が一体のもので高さは36センチ、均整の取れた優美な姿で、その彫りも細部まで繊細で丁寧かつ整ったものとしています。紀年銘はありませんが、県内の平安時代と考えられる石仏に近いふくよかな体躯、袈裟の表現が鎌倉後期の仏像彫刻に見られる技法から、鎌倉時代末期の造立と想定し、石仏としては都留地方で一番古い時代のもので、鎌倉地域との関わり垣間見ることができる地蔵としています。

 境内には新しい十王像が並び、その前に古い十王に一部と奪衣婆もありました。
(注1)『ふれあい 村の晨光』昭和60年、秋山村教育委員会
(注2)坂本美夫著「山梨の中世石仏」『考古学の諸相Ⅳ』平成28年、立正大学文学部考古学研究室
(地図は国土地理院ホームページより)

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『東国里山奥山の石神・石仏風土記』④

2024年07月04日 | 

【仮製本】

(写真は仮製本された『東国里山奥山の石神・石仏風土記』。出版は8月の予定)
 6月末、待望の仮製本された本を編集者が持参してくれました。博物館の図録のような本にしてほしいというこちらの希望どおり、A4版のずっしりとした写真集といった感じの本になりました。同時に多くの確認事項の一覧表で、これが最後の校正になります。この一覧は私の体力を考慮していただいた○×式の返答しやすい内容。しかしもう体力は限界で確認作業は一向に進みません。これが遅れれば出版も遅れるので、少しオーバーな表現ですが命を削っての作業になっています。とにかく寿命と出版のどちらが早いか競争になってきました。それから再提出の写真は、すでに出してある写真を修整していただくといういことで、勘弁してもらいました。

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山小屋日記43終了

2024年07月03日 | 山小屋

【終了】30年近く前に建てた手作りの山小屋からは今、眼下に高速道路、その奥に阿武隈の山々、さらに奥には那須の山脈が見えるのどかな風景が広がっています。


 部屋の壁には、20から30代に使用した登攀道具やスキーを飾って、過ぎし日の思いに入れるようにしました。私の趣味は焚火。仕事の合間にこの風景と壁を見ながら、囲炉裏の薪をかき回してのんびり過ごした日もありました。しかし定年しても雑用で忙しすぎ、山小屋は思ったほど利用していません。


 ところが、これから山小屋をもっと活用しなければと思った矢先のがんの告知でした。告知から約2年、いまでは歩くこともママなりません。
 さらに山小屋の環境を見ると、山道は雑草で覆いつくされ、小屋前の牛の牧場だった草原にはソーラーパネルが並び、小屋脇の清水も枯れ、パラグライダー場はだいぶ昔に消滅してすっかり様変わりしてしまいました。たとえ元気であったとしても、のんびり過ごせるような状況ではなくなったような気がします。


 山小屋の環境はさておき、体調を考えるともう出かけることはできないので、山小屋は土地の所有者に預けることにしました。私の小さな夢をかなえてくれた土地の所有者と山小屋に感謝です。

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里山の石神端書302 馬頭観音(山梨県上野原市秋山)

2024年07月02日 | 里山石神端書

上野原市秋山・秋山の馬頭観音



 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。石仏は秋山18の集落を中心に造立されてきました。その中で多いのが馬頭観音です。その数、秋山村の信仰をまとめた『ふれあい 村の晨光』(注)には48基とあります。ちなみに庚申塔が7基、地蔵菩薩が23基ですから、馬頭観音の多さが際立っています。同書の馬頭観音の項には「農村における農用としての馬が、各家に家族の一員とも考えられるほど重要視されて生活の一方を担っていたために馬の不慮の死や、病死に供養塔が建立されるようになった」とあります。



 馬頭観音のほとんどは文字塔で、像容のある馬頭はわずか。石仏の造立そのものが少なかったという印象です。これは集落内に寺社が多かったこと、寺としては質素を旨とする臨済宗が多かったことなどに関係があるのかもしれません。
 取り敢えず、路傍などで見た馬頭観音の写真をあげてみました。
(注)『ふれあい 村の晨光』昭和60年、秋山村教育委員会

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屋上菜園2024-07闘病日誌30

2024年07月01日 | 屋上菜園

 カミさんの屋上菜園は休園中です。
     *

 6月下旬、アメリカ留学中の高3の孫が帰ってきました。闘病中の私を支えてくれた一つが孫の帰国。11か月のアメリカ生活から帰った孫の顔を見るのが楽しみでした。今年初め担当医に私の寿命は6月まで持ちますかと尋ねたら、何ともいえませんとの返事でしたから、嬉しさはひとしおです。
 それで緩和ケアに移った食道がんですが、一般的に緩和ケアに移るとがんは元気づき、体力は一気に衰えて終焉をむかえるそうです。それを裏付けるように急に手足は細り、食欲は無く、頭もぼんやりし、背中や腹に痛みも出てきました。ですから、体のあちこちから出る痛みは我慢するのでなく痛み止めを飲むようにして、少しでも一日を快適にすごせるように心がけています。痛み止めは、食後に飲む薬、痛いときに飲む薬、もっと痛いときに飲む麻薬系の薬の三種類で、痛みの度合いに合わせて自分の判断で薬を選んで飲んでいます。
 それから体力も衰えて病院通いは大変なので、緩和ケアの一つである訪問診察をお願いしました。医師・看護師が週一度診察に自宅まで来ていただけるもので、その場で処方箋も出していただけるので楽になりました。

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