偏平足

里山の石神・石仏探訪

里山の石神端書309日蓮宗(山梨県富士川町平林)

2024年07月26日 | 里山石神端書

富士川町平林・日蓮宗

 平林は富士山が見える棚田の集落。日蓮宗寺院の多いところで、かつての平林は8つの地区(組)があり、今も5つの地区に日蓮宗の寺があります。それは石造物をみてもあきらかで、髭題目の題目塔をはじめ、日蓮宗ならではの発見があったので紹介します。

 初めは寺紋(家紋)の「井桁に橘」です。日蓮宗すべてがこの紋ということではありませんが、聖人の家系の先祖が伊江家に繋がること。また聖人が生まれたとき泉が湧き出したことから、泉にちなんで井桁を。また聖人が好んだ橘を組み合わせて、「井桁に橘」ができたとの伝承があります。

 「七面山」も日蓮宗の境内に見られる御堂です。

 七面山は日蓮宗の総本山である身延山(標高1153メートル)の南西、標高1983メートルの南アルプスの一角にある高山です。この山の住んだのが七面の神。伝承によると、日蓮聖人が身延山で説法をしているのをいつも聴きに登ってきた女性が七面の神で、聖人にうながされて七面山の竜神であり、法華経の守護神であると告白。後日「七面大明神」として七面山に祀られました。身延山にお参りした信者は七面山にも登ることを、いまも続けています。
 「題目塔」も日蓮宗の境内に見られる石塔です。南無妙法蓮華経は日蓮聖人が構成した「大曼荼羅」の御本尊。増塔の経緯を『日本石仏事典』(注)から簡単に案内します。

 聖人は「妙法蓮華経」こそ釈迦の説法の神髄が含まれていると説き、南無を冠して「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることを日蓮宗における実践行とした。これを掛軸にしたのが題目曼荼羅。この七文字のうち、「法」以外の文字の端を長く伸ばしたのが「髭題目」と称されている。日蓮が亡くなったのは弘安2年(1282)年。軸は文永期(1264~1275)から作られ、石塔は弘安期(1278~1288)造立がはじまる。当初髭がなかった書体も、応永期(1394~1428)から見られ、その後諸仏・諸神・十羅刹女などが加わって。「大曼荼羅」が整った。





 石造物にも日蓮宗ならではのものを見ました。その一つが遠忌(おんき)報恩塔。死者に対する100年、200年などの年忌法会で、高僧の遠忌塔が主ですが、日蓮の遠忌塔は日蓮宗の寺院によく見られます。平林には髭題目が刻された馬頭観音もありました。
(地図は国土地理院ホームページより。赤丸は日蓮宗寺院)

 

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里山の石神端書307丸石道祖神(山梨県富士川町平林)

2024年07月23日 | 里山石神端書

富士川町平林・集落内の丸石道祖神

 平林は富士山が見える棚田の集落。集落内には丸石道祖神が集落の字ごとに祀られていました。上の写真は平林郵便局先の道祖神です。
 丸石道祖神は山梨県の中央部(国中)に集中的に見られる道祖神で、多くは丸くなった自然石や人工的に丸くした石。その起源については平安時代末期の『信貴山縁起絵巻第三巻』に描かれた、京都下京区の松原道祖神社に描かれた丸石を引いて、丸石信仰は古くからこの国にあったものとされています。同じように丸石は古くからあった信仰としているのが山梨の道祖神研究科の中沢厚氏で、石棒などと同じ縄文時代からあったとしています。丸石が多い山梨県の国中でも、北東部の『山梨県の道祖神』、生命復活のシンボルだったのではと推測しています。そして丸石には丸い石、丸いが偏平な石、単独の石、複数の石があり、丸い石を単独で祀るのは山梨だけと報告しています。
 平林では郵便局の他に3カ所で丸石を見ました。
 平林の稲荷時神社

 搘畑

 栃窪

 このうちの3カ所の丸石には「道祖神」の銘が入っていました。中沢氏の報告では、丸石のほとんどに銘はなく、台座に道祖神や紀年銘があるだけ、としています。そうすると「道祖神」銘が入るのは新しいものか、それともこの平林だけのものか、山梨の丸石をそれ程見ていない者には判断がつきません。
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書306五色の幡(山梨県富士川町平林)

2024年07月19日 | 里山石神端書

富士川町平林・氷室神社の五色の幡

 平林は富士山が見える棚田の広がる集落。集落の奥に氷室神社が建っています。神社の今年の祭日は4月21日。訪ねた20日は祭礼の準備で、
すでに集落内には、五色の幡がはためいていました。




 幡の五色は黒(紫)・黄・赤・白・青で、青は木、赤は火、黄は土、白は金、黒は水を差し、仁・礼・信・儀・智の陰陽五行の五行を表す色。これを仏教では黒(釈迦の袈裟)、黄(身体)、赤(血)、白(歯)、青(髪)とする解釈もあります。いずれにしても、陰陽五行の根本となる思想からでたものです。富士山を背景にはためく五色の幡は平和そのものでした。



 祭りの準備は集落の人たち総出の仕事。氷室神社の名物である石段入口の鳥居では注連縄の準備、境内では提灯の飾りつけなどが行われていました。
(地図は国土地理院ホームページより)


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里山の石神端書305石段(山梨県富士川町平林)

2024年07月16日 | 里山石神端書

富士川町平林・氷室神社の石段

 平林は大きな富士山と美しい棚田の広がる山間の集落。集落の奥に鷹尾山氷室神社が建っています。

 氷室神社に登る石段は519段。杉林のなかに広い石段が延々と続きます。このような立派な石段があるのは、この神社が古くは真言宗の鷹尾寺で、鷹尾山権現の別当寺で武田・徳川期に保護されてきたためでした。本尊は文殊菩薩・不動明王・降三世明王。これが氷室神社になったのは明治の初めの神仏分離。いま境内に仏教の形跡は薄く、境内奥の卵塔が見られるぐらいです。本尊の文殊・不動・降三世明は集落内の平林公民館脇の文珠堂に移されました。木彫の素朴な仏たちが鎮座しています。
 次にその立派な石段を写真で案内します。


(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書 山梨県上野原市秋山

2024年07月12日 | 里山石神端書

里山の石神端書298心印塔(上野原市秋山桜井・真福寺)

里山の石神端書299石垣(上野原市秋山桜井・諏訪神社)

里山の石神端書300道標(上野原市秋山古福志・天神社)

里山の石神端書301三十番神(上野原市秋山小和田・山ノ神宮)
里山の石神端書302馬頭観音(上野原市秋山)

里山の石神端書303地蔵菩薩(上野原市秋山寺下・吉祥寺)

里山の石神端書304雛鶴媛(上野原市秋山無生野・雛鶴神社)


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里山の石神端書304雛鶴媛(山梨県上野原市秋山)

2024年07月09日 | 里山石神端書

上野原市秋山無生野・雛鶴神社の雛鶴媛

 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。村の西外れは無生野集落に雛鶴神社が建つ。祭神は大塔宮護良親王・雛鶴媛・葛城綴連王の三柱。

 大塔宮護良親王(1308~1335)は後醍醐天皇の皇子。南北時代に足利尊氏により鎌倉に幽閉殺害されました。雛鶴媛は護良親王の侍姫。侍女とともに護良親王の首をもって鎌倉を逃れたが秋山の無生野で産気つき、不運にも母子ともに亡くなられこの地に埋葬、首は都留方面に運ばれたと伝わっています。葛城綴連王については諸説あって、一つは雛鶴媛が生んだ護良親王の王子、これとは別の護良親王の王子で、たまたまこの地に逃れてきて親王と雛鶴の経緯を知り、その不思議な縁によりここに住んだそうです。この三人を弔うために始まったのが無生の大念仏で、今に続いています。


 再建された雛鶴神社に「葛城宮綴連王奥都城」銘の古い墓碑が立っていました。奥都城は神道の墓所を意味する語。造立年として「応永(1394~1428)」らしい銘もありますがはっきりしません。
 境内には新しく造立された雛鶴媛の像もありました。

(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書303 地蔵菩薩(山梨県上野原市秋山)

2024年07月05日 | 里山石神端書

山梨県上野原市秋山寺下・吉祥寺の地蔵菩薩
 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。集落ごとに寺社がありますが、なかでも寺下の吉祥寺は真言宗の古刹で、山間部にしては大きな構えのお寺です。
 女将さんにお茶の接待を受けながら石仏の話をしていると、本堂に中世の地蔵石仏があるというので拝見させていただきました。
 地蔵は須弥壇裏に隠れるように置かれていました。大事に扱われているのは、この地蔵が中世に造られた貴重な石仏だからで、秋山の石仏を紹介した『ふれあい 村の晨光』(注1)では南北朝時代のものと案内されていました。地蔵には年号があるはずと寺の女将さんに聞いたので、懐中電灯を借りて探してみましたが、それはありませんでした。
 この貴重な地蔵菩薩、女将さんからいただいた坂本美夫氏の「山梨県の中世石仏」(注2)にまとめられていましたので、抜粋して紹介いたします。
 地蔵は光背と台座が一体のもので高さは36センチ、均整の取れた優美な姿で、その彫りも細部まで繊細で丁寧かつ整ったものとしています。紀年銘はありませんが、県内の平安時代と考えられる石仏に近いふくよかな体躯、袈裟の表現が鎌倉後期の仏像彫刻に見られる技法から、鎌倉時代末期の造立と想定し、石仏としては都留地方で一番古い時代のもので、鎌倉地域との関わり垣間見ることができる地蔵としています。

 境内には新しい十王像が並び、その前に古い十王に一部と奪衣婆もありました。
(注1)『ふれあい 村の晨光』昭和60年、秋山村教育委員会
(注2)坂本美夫著「山梨の中世石仏」『考古学の諸相Ⅳ』平成28年、立正大学文学部考古学研究室
(地図は国土地理院ホームページより)

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『東国里山奥山の石神・石仏風土記』④

2024年07月04日 | 

【仮製本】

(写真は仮製本された『東国里山奥山の石神・石仏風土記』。出版は8月の予定)
 6月末、待望の仮製本された本を編集者が持参してくれました。博物館の図録のような本にしてほしいというこちらの希望どおり、A4版のずっしりとした写真集といった感じの本になりました。同時に多くの確認事項の一覧表で、これが最後の校正になります。この一覧は私の体力を考慮していただいた○×式の返答しやすい内容。しかしもう体力は限界で確認作業は一向に進みません。これが遅れれば出版も遅れるので、少しオーバーな表現ですが命を削っての作業になっています。とにかく寿命と出版のどちらが早いか競争になってきました。それから再提出の写真は、すでに出してある写真を修整していただくといういことで、勘弁してもらいました。

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山小屋日記43終了

2024年07月03日 | 山小屋

【終了】30年近く前に建てた手作りの山小屋からは今、眼下に高速道路、その奥に阿武隈の山々、さらに奥には那須の山脈が見えるのどかな風景が広がっています。


 部屋の壁には、20から30代に使用した登攀道具やスキーを飾って、過ぎし日の思いに入れるようにしました。私の趣味は焚火。仕事の合間にこの風景と壁を見ながら、囲炉裏の薪をかき回してのんびり過ごした日もありました。しかし定年しても雑用で忙しすぎ、山小屋は思ったほど利用していません。


 ところが、これから山小屋をもっと活用しなければと思った矢先のがんの告知でした。告知から約2年、いまでは歩くこともママなりません。
 さらに山小屋の環境を見ると、山道は雑草で覆いつくされ、小屋前の牛の牧場だった草原にはソーラーパネルが並び、小屋脇の清水も枯れ、パラグライダー場はだいぶ昔に消滅してすっかり様変わりしてしまいました。たとえ元気であったとしても、のんびり過ごせるような状況ではなくなったような気がします。


 山小屋の環境はさておき、体調を考えるともう出かけることはできないので、山小屋は土地の所有者に預けることにしました。私の小さな夢をかなえてくれた土地の所有者と山小屋に感謝です。

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里山の石神端書302 馬頭観音(山梨県上野原市秋山)

2024年07月02日 | 里山石神端書

上野原市秋山・秋山の馬頭観音



 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。石仏は秋山18の集落を中心に造立されてきました。その中で多いのが馬頭観音です。その数、秋山村の信仰をまとめた『ふれあい 村の晨光』(注)には48基とあります。ちなみに庚申塔が7基、地蔵菩薩が23基ですから、馬頭観音の多さが際立っています。同書の馬頭観音の項には「農村における農用としての馬が、各家に家族の一員とも考えられるほど重要視されて生活の一方を担っていたために馬の不慮の死や、病死に供養塔が建立されるようになった」とあります。



 馬頭観音のほとんどは文字塔で、像容のある馬頭はわずか。石仏の造立そのものが少なかったという印象です。これは集落内に寺社が多かったこと、寺としては質素を旨とする臨済宗が多かったことなどに関係があるのかもしれません。
 取り敢えず、路傍などで見た馬頭観音の写真をあげてみました。
(注)『ふれあい 村の晨光』昭和60年、秋山村教育委員会

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屋上菜園2024-07闘病日誌30

2024年07月01日 | 屋上菜園

 カミさんの屋上菜園は休園中です。
     *

 6月下旬、アメリカ留学中の高3の孫が帰ってきました。闘病中の私を支えてくれた一つが孫の帰国。11か月のアメリカ生活から帰った孫の顔を見るのが楽しみでした。今年初め担当医に私の寿命は6月まで持ちますかと尋ねたら、何ともいえませんとの返事でしたから、嬉しさはひとしおです。
 それで緩和ケアに移った食道がんですが、一般的に緩和ケアに移るとがんは元気づき、体力は一気に衰えて終焉をむかえるそうです。それを裏付けるように急に手足は細り、食欲は無く、頭もぼんやりし、背中や腹に痛みも出てきました。ですから、体のあちこちから出る痛みは我慢するのでなく痛み止めを飲むようにして、少しでも一日を快適にすごせるように心がけています。痛み止めは、食後に飲む薬、痛いときに飲む薬、もっと痛いときに飲む麻薬系の薬の三種類で、痛みの度合いに合わせて自分の判断で薬を選んで飲んでいます。
 それから体力も衰えて病院通いは大変なので、緩和ケアの一つである訪問診察をお願いしました。医師・看護師が週一度診察に自宅まで来ていただけるもので、その場で処方箋も出していただけるので楽になりました。

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里山の石神端書301 三十番神(山梨県上野原市秋山)

2024年06月28日 | 里山石神端書

上野原市秋山小和田・山ノ神宮の三十番神

 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。小和田の法泉寺入口には大きな「萬霊塔」が立っていました。

 法泉寺は臨済宗建長寺派の寺でただいま無住。寺の手前に建つ山ノ神宮の境内に、「奉納三十番神十羅刹女」銘の石燈籠の竿石が倒れていました。



 「三十番神」は法華経守護のため、30日間のそれぞれの日に当てられた日本の神々。比叡山の神が複数含まれていることから、最澄が比叡山に祀ったのが始まりとの説があり、中世の日蓮宗が法華経の守護として取り入れて普及した。
 一方「羅刹女(らせつにょ)」の羅刹は人を食うという鬼神の梵語。羅刹女は人を食う鬼女で、鬼子母神(きしもじん)もその一人です。これが十人集まったのが十羅刹女。その役目は法華経の守護で、ここに鬼子母神は含まれていません。鬼子母神も法華経の守護が役目ですが、安産・育児の仏として信仰されています。
 かつては臨済宗法泉寺が別当寺だったと考えられるこの山ノ神宮に「三十番神十羅刹女」銘の石造物が造立された背景は不明。秋山村の信仰をまとめた『ふれあい 村の晨光』(注)には「明治元年までは三十番神(法華宗を守護する神)といわれていたが法華三十番神の称を禁止する御沙汰により神仏混交を廃し山ノ神宮とする」とありました。
(注)『ふれあい 村の晨光』昭和60年、秋山村教育委員会
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書300 道標(山梨県上野原市秋山)

2024年06月25日 | 里山石神端書

上野原市秋山古福志・天神社の道標

 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。古福志集落に西外れにある古峰神社への道の峠に建つ天神社で道標を見ました。



 この秋山から都留一帯は天神様を祀る峠が多い地域です。古福志の天神社が建つのも峠状のところで、かつては古福志集落からこの峠を越えて小和田集落へ出たのではないでしょうか。その峠に置かれたのがこの道標。そのようなことを彷彿させる天神社と道標です。

 古福志の天神社社殿内に無造作に置かれた道標には「みきやむら/ひたりやま/道」銘。「やむら」は秋山の西の雛鶴峠先にある、織物で知られた城下町で現在の都留市。郡内織り、甲州織りとも呼ばれていました。郡内は山梨の甲府を中心とした国中に対し、山梨東部の都留・大月一帯を指す名称です。

 織物の原糸は絹で、かつての郡内では養蚕も盛んで、古福志の天神社境内には「昭和二十一年/蠶影山大神/古福志養蚕組合」銘の石塔が立っていました。養蚕・染物・織物の神として愛染明王が知られていま。この仏の縁日は二十六日。

 その関係か郡内には秋山=写真=と都留に二十六夜塔が立ち、三ツ峠山にも二十六夜塔があります。
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書299 石垣(山梨県上野原市秋山)

2024年06月21日 | 里山石神端書

上野原市秋山桜井・諏訪神社の石垣

 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。桜井集落の諏訪神社境内の石垣に、年号や寄進者銘のある石が使われているのを見ました。


 この石は石造物の礎石か、仏菩薩の台座だったものか、元はどの様な石造物だったかはわかりません。それにしても年号や寄進者銘を隠そうともしないで石垣に転用したのは、何かの理輔があってのことなのでしょう。

 戦国期には城の構築時に、不足の石として信仰対象の仏菩薩や墓石などの石造物が転用されたという話はよく聞きます。
 大久保修氏は『日本の石仏』167(注)で、城の石垣に転用された石造物を報告しています。そのなかで、転用された時期は戦国期が多く、その背景として、急な築城や領主の移動や滅亡によって見捨てられた墓地が多いことを指摘しています。転用された石造物として五輪塔、石仏、宝篋印塔、礎石などを挙げています。
 大久保氏が調査したほとんどは畿内と中国・四国の城で、これらの地方では中世から石造物が盛んに造立されたことがわかります。
(注)大久保修著「城の石垣に転用された石造物」2019年、日本石仏協会『日本の石仏』167
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書298 心印塔(山梨県上野原市秋山)

2024年06月18日 | 里山石神端書

上野原市秋山桜井・真福寺の心印塔

 鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。その道の高台に建つ真福寺は臨済宗建長寺派の寺。その入口石段に「心印塔」銘の石塔が立っていました。


 「中峯国師十九世孫/當山八世大柮碩偈百拝/時宝暦八(1758)戊寅孟冬日」銘もあるこの石塔の「心印」は、仏心印の略で仏の心そのものを表す言葉。禅宗では仏の悟りを印にたとえた語と仏書にあります。
 どのような契機でこの塔を造立したかはわかりませんが、想像するに高僧から悟りの極意を授受されたときに立てたのではないでしょうか。

 石段の左には「本室浄源上座」銘の墓碑。戒名の上座(じょうざ)は、宗派や地方によりいろいろな解釈があるようです。一般的には、仏教において徳を積んだ高層につける戒名のようです。

 その先に地蔵菩薩が並んでいました。
(地図は国土地理院ホームページより)

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