偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏324水晶山(山形)

2011年06月10日 | 登山

水晶山(すいしょうざん) 姥神(うばがみ)

3241 【データ】水晶山 668メートル▼25000地図 天童▼最寄駅 奥羽本線・天童駅▼登山口 山形県天童市の川原子集落▼石仏 水晶山の旧参道

【案内】村山盆地(山形盆地)から見る水晶山はあまりにも低く小さな山。後方に連なる蔵王から船形山の山脈にかき消されそうな山だが、かつては山頂3242 3243 の大岩を蔵王大権現、岩穴を十一面観音と崇め、山麓の日輪寺を中心にした修験道で栄えたという。その神仏銘のある石塔が登山口に立つ=写真下左=。しかしこの山の修験道の実態はまったく不明で、山中に残るのは寺院跡の礎石ぐらい。かつての繁栄がどれほどのもの3244 3245 であったか確認する建造物も山頂の社殿=写真下右=以外何も残っていない。その社殿も建て変えられてそれほど経っていない。ただ、参道に残る2体の姥神からこの山の信仰の一端を垣間見ることができる。山形の山で山中に姥神がある山は、かつて修験者がかかわった山とみて間違いない。月山にしても葉山にしても山中に姥神があったし、この水晶山の奥にある船形山や蔵王やその一角にある龍山など、この地方の修験道があった山には決まって姥神が祀られている。姥神の役目は女人結界の場所や禊場の守護である。それが川の側であれば禊場であり、山に入る者は姥神の場所で水垢離を取って身を清めてから山に入った。水晶岳の姥神は2体とも小川を渡った先に祀られている。一つは台座に「寛政四子年(1792)」、一つは背面に「寛政十年(1798)」の銘がある。それほど離れていない年の姥神建立は何を意味するのか。別の場所から移ってきたものか。同じ場所にある「山の神」は後世に建てられたもので、ここが山の入口・結界の場所でもあったのは間違いない。この姥神、地元では「山姥」と案内している。登山道は川原子の人たちの手で整備され、信仰遺跡も大事に守られている。車は中腹まで入るが、姥神は手前のトイレ先から始まる昔の信仰の道に立つ。

32463247【独り言】水晶山の修験道がどれほどのものだったかを示す石造物がもう一つ、川原子の集落にあります。水晶山の昔の参道にあった石鳥居です。鳥居といっても笠木や貫など上部はすでに無く、2本の柱が畑の中に立っているだけです。その単純さが豪快に見えるのは、柱の太さゆえでしょうか。地元では「谷地中の石鳥居」として知られており、鎌倉時代の鳥居とされています。柱の間から後方の山にかき消されそうな水晶岳を見れば、下手な絵も立派な額にはいれば上手く見えるように、この山の修験道が中世に栄えたことだろうと納得させられてしまう鳥居です。鳥居の建立が一般的になるのは江戸時代ですから、鎌倉時代の鳥居となると驚きです。しかし山形では平安時代後期の鳥居(山形市鳥居ヶ丘、同市成沢、天童市荒谷)、それも日本最古の遺品が残っている土地柄ですから、鎌倉期の鳥居があってもびっくりすることはありません。その山形市小立や成沢の鳥居は蔵王の一角にある龍山信仰のものであることがわかっています。龍山の鳥居についてはこのブログ№99で紹介しましたが、実は龍山の道にも姥神が祀られているのです。つまり鳥居があって姥神があるという水晶山のこの構成は龍山とまったく同じなのです。

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