偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏414西御荷鉾山(群馬)

2012年11月16日 | 登山

西御荷鉾山(にしみかぼやま) 石工・黒沢三重郎(いしく・くろさわさんじゅうろう)

414【データ】西御荷鉾山 1286メートル▼国土地理院25000地図 万場▼最寄駅 JR高崎線・新町駅▼登山口 群馬県神流町万場のスーパー林道。地図の青丸印▼石仏 西御荷鉾山山頂。地図の赤丸印

41414142【案内】西御荷鉾山は不動信仰の山。南山麓の万場と北山麓の日野から信仰の道があって、両方で祀った不動明王が山頂の東と西にそれぞれの方向を向いて立っている。その一つの万場を向いて立つ大きな不動明王には、台座から背面まで多くの名前が刻まれている。4143 この不動明王を造るにあたって賛同した人たちで、その最後に「秩父日尾石工 新井三十郎源金」とある。造立は明治二十七年。秩父の日尾の石工といえば、黒沢三重郎が知られているが、この新井三十郎が黒沢三重郎なのである。三重郎は、秩父の日尾にある新井家に養子に入っているが、若いころの作品には「黒沢三重郎」と入れている。

三重郎の代表作は秩父観音札所31番観音院の山門に立つ阿云の仁王像。三重郎354144 歳のころの作品である。その台座には二名の石工銘がある。一人は「当郡日尾邑 石工棟梁黒沢□□□□□」。□の部分は削り取られているが三重郎である。もう一人は「信州伊那郡 木丁彫石工藤森吉弥一寿」である。削られた理由は、三重郎が棟梁となって仁王像作製にあたったが、地元の石工を頼まず他国の石工を雇ったことにあったといわれている。藤森吉弥は伊那から出稼ぎに出た石工で、リアルな表情の石仏を造ることで定評があった。しかし、生涯伊那に帰ることはなかった流浪の石工だった。

観音院がある小鹿野町では、仁王の製作者を藤森吉弥とし、三重郎の名はでていない。この経緯については『日本の石仏』№55(平成2年、日本石仏協会)「秩父石工・黒沢三重郎-伊那石工・藤森吉弥との謎」に書いたので参照していただきたい。

西御荷鉾の大きな不動が見下ろす万場の街の上にそびえる山は父不見山(ててみずやま)。この先に秩父の日尾がある。

【独り言】日尾邑は秩父観音札所31番観音院から山一つ越えた吉田川の谷間の集4145 落。ここに黒沢三重郎の生家を探しに出かけたのは30年ほど前でした。そこで探し当てたのが新井家でした。ここで三重郎が新井家に養子にはいり、黒沢と新井の名前を使い分けていることを知りました。当時の日尾の集落は、吉田川の下流の合角に計画されていたダム建設が本決まりとなり、移転の保証などの話も進んでいる最中で、金融関係者が出入りしているときでした。そのようなところに登山姿で訪ねたものですから、新井家の御主人には「変った格好の銀行員」と思われました。しかし石工の三重郎の生家を探して訪ねてきたことはすぐ理解していただきました。その御主人も新井家に養子に入った人で、奥様は明治43年生まれの新井三重郎の孫娘でした。この奥様から三重郎の話をいろいろきくことができました。

それから数年後に訪ねた新井家は高台に移転していて、いま新井家があった場所は合角ダム底に沈んでしまいました。写真は昭和61年、秩父札所31番観音院の裏山になる観音山から見た日尾の集落です。

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