ぶうりんの希望の種まき新聞

絶望的雑感有りの希望的投稿ブログ。
世界中の子どもたちの笑顔と幸せのための新聞社。あなたにも希望の種をプレゼント!

8月6日 原爆の日によせて

2012年08月07日 | 脱原発・環境・平和・政治
昨日は8月6日
広島に67年前、原爆が投下された日です。
今もたくさんの人が慰霊に訪れます。
そしてそれと同じぐらいの数の人々が、いえそれ以上の数の人々が「もう原爆は要らない」「核を生み出す原発も要らない」と声を上げるために訪れています。静かな表現で連帯しようと訪れている人もいます。
あまり報道されないので、そのことは皆さんには知られていないかもしれませんね。



私は、「NO MORE ヒバクシャ みんなでウォーク」というグループに連なって、原爆ドーム前から中国電力前までのデモに参加しました。5年ぐらい前から背高女で参加しています。
今年は初めて、「ダイイン」に加わりました。
いつもは、背高の下駄を既に履いて用意していたので、ダイインだけは参加できなくて立って眺めていましたが、今年はやはりダイインに参加したくて、ダイインの後に下駄を履くことにしたのです。
ダイインに参加してよかった。
他の背高のメンバーは下駄をはいていて参加できていなかったので、誰にも語れなかったのですが、ダイインで空を眺めたとき、地面を感じたとき、涙があふれてきました。危なく声をウォンウォン出して泣いてしまいそうでした。それはこらえましたが。
原爆が投下された瞬間、人々は大地に倒れ、死んでいく前にこの空を眺めたのか…、あの日も今日と同じように青い空・真っ白い雲が見えていたのか…、そして蝉の声がシンシンシンシンと聞こえていたのか…。
そして一瞬のうちに、そらはきのこ雲で覆われ、蝉の声はヤミ、恐ろしいほどの静寂が全てのものを包んだのか…。
そして、焼けただれた大地に倒れ、体の表面が溶けていくのをどんな痛みで感じていたのか…。放射能という見えない悪魔の空気に包まれて、体の中を焼け焦げにしていったのか…。
そんなことを5分間寝転んでいる間に考えて、すごく怖くなったけれど、当時の人のことを思って寝転がることをダイインというのなら、今皆も同じことを考えているのかな…と感じたりしました。

そのあと、中電前まで、ウォーク。
石岡さんの優しいかけ声でなごやかに「ファミリィ向けグループ」で。
赤ちゃん連れの人もいたので、大きなタープで日陰を作り、親子はその下を歩いて行進できるという配慮。ナイスです。

第2グループは、サウンドカー付きの「ラップグループ」。
賑やかな更新だったのだと思いますが、警備の策略で、第1グループと大きく引き離され、声は何も聞こえませんでした。

9時半ごろ中電前に到着して、座り込み。
警備が「直ちに座り込みをやめなさい」とずっと命令していたけど、みんな無視。
主催者の人が対応して、そのまま続行。いつの間にか警備はいなくなっていました。任務完了ご苦労様。
そこでは、全国各地で活動されている研究者や活動家たちがアピール。



福島から来て、慰霊式典に参加した岡本さんは、「広島市長は『原発はもうやめよう』と言ってくれなかった。広島からそのことを発信してくれなければ、私たちはどうしたらいいのですか!?」と泣きながら訴えていました。私は、申し訳なく思って下を向いてました。
最後に、三次のKADOYAの徳岡さん。3月にお会いした時、「子どもの給食の放射能チェ苦を議会に呼びかける」話をしていて、それが見事に議会を通過したのに、結局三次市は何も動いていなかった為、この度の三次産の椎茸を学校給食で使ってしまっていたことの悔しさを涙をこらえながら話していました。徳岡さんは、「結局何もできなかった」と自分を責めていました。

あと、皆で、中国電力の正面玄関前に集結して、シュプレヒコールを繰り返しました。
石岡さんが警備の人に話しかけてにこやかに玄関まで行って、中電の人がホールからこちらを眺めていたんだけど、その人たちに向かって美智子さんのようにずっと手を振っていたのが面白かったです。

そしていそいで背高の下駄を脱いで、もこルームに向かいました。

背高のサポートをしてくれたTさん、くまさん、ありがとう。
主催の皆さまありがとう。
沿道で手を振ってくれた皆さんありがとう。
もこルームで待っていてくれた皆さん、ありがとう。