ぶうりんの希望の種まき新聞

絶望的雑感有りの希望的投稿ブログ。
世界中の子どもたちの笑顔と幸せのための新聞社。あなたにも希望の種をプレゼント!

愛のムチ条例?

2008年08月18日 | 過去の記事
子ども・子育て情報誌「はらっぱ」7月号 特集ページ(子どもとエンパワメント)より 発行:こどもステーション

6月18日配信の毎日新聞によると、“宮崎県の東国原英夫知事は18日の県議会本会議の終了後、記者団に「体罰は愛のムチ。昔はげんこつで教えられたが、最近はできなくなっている。愛のムチ条例はできないか」と発言した。この日は一般質問があり、印象に残った質問を問われて、突然「愛のムチ条例」に言及した。”とあります。何かとお騒がせな知事の今回の発言、皆さんはどう思いますか?
体罰という暴力は、子どもの地位の低さを象徴しています。何を「愛」「正しさ」とするのかは、なぐる側が一方的に判断することです。もしかすると、現在大人である人が、子どもの頃の体罰の経験を「自分に真剣に向き合ってくれた」という感覚でなつかしく思うことがあるかもしれません。でもそのとき「あなたを信じているよ」と抱きしめられていたらどうだったのでしょうか。子どもの心の痛みに共感して一緒に涙を流してもらえたらどうだったのでしょうか。体罰を肯定的に受けとめてしまうのは、大人から真剣に向き合ってもらう経験が少なかったからなのかもしれません。体罰によらない方法で子どもに真剣に向き合う方法はいくらでもあるはずです。
体罰は、痛みと恐怖によって子どもの言動をコントロールする手段です。即効性があるし、次からは脅すだけで子どもをコントロールできるかもしれません。しかしこれは「しつけ」ではありません。体罰によって子どもが学ぶのは「腹が立ったら暴力によって表現すればよいのだ」ということに他ならないでしょう。「尊厳を傷つけられた悔しさを人はもっと語っていいのです」そのことによって、人は自分の気持ちを整理して伝えることができ、そこに生じている問題を解決する力になっていくのだと思います。 
今回の宮崎県知事の発言は、秋葉原での連続殺人事件を受けて議会で質問された後の発言だったと報道されています。その痛ましい事件について、加害者の暴力行為を許すことはできません。しかし、それまでに、どれだけの抑圧や暴力があったのか、私たちはそれを推察する必要があると思います。書き込みされていたネットの情報からは、現在の彼に対する経済的な暴力の存在を想像できます。子どもの頃には、学力や芸術に長けていることが求められ、本当の自分を表現することが許されなかった。虚像の自分が褒め称えられている姿を、子どもの頃の彼はどう受けとめていたのでしょう。ネットには表現できていない暴力もあったのかもしれません。
 暴力は、百害あって一利なし。人が生きる力を奪う行為そのものに他なりません。この世の中に「暴力を受けて当然・人権を侵害されて当然」な人は一人もいないのです。 
     
    ぶうりん