この季節は例年不調を訴えることの多い私ですが、昨年の今頃は、それどころではなかったのを思い出しています。してみると、不調をかこつことが出来るのはまだましということなのでしょうか。
退院を2日後に予定されていながら、感染症で高熱を出し、下痢が止まらなくて苦しむ夫を目前にして、銀杏の黄葉も目に止まらないほど気を揉んでいました。
今日通ると、川沿いの銀杏並木は今が盛りの美しい黄金の帯を延べていました。
今日の外出は、一昨年、介護付き有料老人ホームへの入居を決断した古い友人に面会のためです。
趣味の油絵を展覧会に出品していたのですが、今は「個室が狭く道具を持ち込めないから、スケッチばかりが溜まって」と少し寂しげでした。実際には、持病の循環器系の疾患で、長時間絵筆を取ることはもう無理なのです。多分、自分でもそれは自覚しているのだと思います。
医者だったご主人に先立たれ、大きな家での独り暮らしは無理と、息子にも相談せず入居したと聞いています。彼女の口から「人住まぬ不破の関屋の板庇荒れにしのちはただ秋の風」と藤原良経の歌が漏れました。
「そうだね。やがては、私のところも」と調子を合わせておいて、話を心敬の「ささめごと」に転じました。
老女二人、かつて俳諧連歌の講義をうけたM教授が瀟洒で美貌だったことなど、とりとめもないことです。やがてこの歌の「ただ秋の風」の“ただ”が、心敬に「玄妙」と激賞されていることに転じてゆきました。それからは、“ただ”談義が弾みました。
この「ただ」には、無常感があるというのです。
「秋風だけが」吹いているといった単純ではなく、たしかに虚しく吹き過ぎる秋風に、はかないあはれを、そして無情を感じてのことでしょう。
考えてみれば、”ただ”は不思議な言葉ではあります。普通を意味する“ただの人”。平凡を意味しながら、”ただ”にはただひたすらの意味、「徒」をただとよむときには、意味もなく、いたずらにの意、”ただしい”も、「直」のただで、真っ直ぐで、よこしまがない、と幅のある揺れ方です。落ち着くところは、「ただしい、ただの人」がいい、「ただの鼠じゃない」などとは間違っても言われたくないねと笑ったことでした。
古いアルバムを出してきての誰彼の消息も、半ばはこの世ならぬ世界です。予定していた2時間半を語り合って、「一期一会」だからと差し出された手を握って別れを告げました。
退院を2日後に予定されていながら、感染症で高熱を出し、下痢が止まらなくて苦しむ夫を目前にして、銀杏の黄葉も目に止まらないほど気を揉んでいました。
今日通ると、川沿いの銀杏並木は今が盛りの美しい黄金の帯を延べていました。
今日の外出は、一昨年、介護付き有料老人ホームへの入居を決断した古い友人に面会のためです。
趣味の油絵を展覧会に出品していたのですが、今は「個室が狭く道具を持ち込めないから、スケッチばかりが溜まって」と少し寂しげでした。実際には、持病の循環器系の疾患で、長時間絵筆を取ることはもう無理なのです。多分、自分でもそれは自覚しているのだと思います。
医者だったご主人に先立たれ、大きな家での独り暮らしは無理と、息子にも相談せず入居したと聞いています。彼女の口から「人住まぬ不破の関屋の板庇荒れにしのちはただ秋の風」と藤原良経の歌が漏れました。
「そうだね。やがては、私のところも」と調子を合わせておいて、話を心敬の「ささめごと」に転じました。
老女二人、かつて俳諧連歌の講義をうけたM教授が瀟洒で美貌だったことなど、とりとめもないことです。やがてこの歌の「ただ秋の風」の“ただ”が、心敬に「玄妙」と激賞されていることに転じてゆきました。それからは、“ただ”談義が弾みました。
この「ただ」には、無常感があるというのです。
「秋風だけが」吹いているといった単純ではなく、たしかに虚しく吹き過ぎる秋風に、はかないあはれを、そして無情を感じてのことでしょう。
考えてみれば、”ただ”は不思議な言葉ではあります。普通を意味する“ただの人”。平凡を意味しながら、”ただ”にはただひたすらの意味、「徒」をただとよむときには、意味もなく、いたずらにの意、”ただしい”も、「直」のただで、真っ直ぐで、よこしまがない、と幅のある揺れ方です。落ち着くところは、「ただしい、ただの人」がいい、「ただの鼠じゃない」などとは間違っても言われたくないねと笑ったことでした。
古いアルバムを出してきての誰彼の消息も、半ばはこの世ならぬ世界です。予定していた2時間半を語り合って、「一期一会」だからと差し出された手を握って別れを告げました。
千たび擣(う)つ砧の音に夢さめて物おもふ袖の露ぞくだくる(式子内親王)
「一村すすきの穂に出づるはいつの名残なるらん。」
思い出のときを共有する友との、隔てのない語らいは、時間が経つのも早く、帰りの車では、語り足りなかったあれこれを反芻していました。
くれはつる尾花がもとの思ひ草はかなの野辺の露のよすがや
藤原俊成女
ははそ原しづくも色やかはるらむ森の下草秋ふけにけり
藤原良経
”これがまあ 終の栖か 1LDK”と言ったかどうか?
季語がないので俳句になりませんね?
名曲”神田川”では”3畳一間”でカップルの暮らし、小生が初めて所帯を持った時は1DKでしたね、
嫁入り道具は搬入不可。相手も女性ゆえ、鏡台だけは持参してきたかな?
老人施設は1LDKが標準サイズか?まー、ノートパソコン一台持参で入所も良いかもしれない。皆さん方のブログに参戦していれば、寂しさも癒される・・。
ところで、只でゴルフをしていた高級官僚と商社専務、徒ならぬ関係と評判になっています。
この度のお友達訪問、主宰の優しさが伝わってきます。彼女もさぞお喜びだった事でしょう。
”傍にいてくれる だけで・・良い。・・”
フランク永井の名曲”おまえに”岩谷時子詩を思い出す。
ただの、平凡が一番と固く信じている身には、信じがたい「ただのねずみ」の鼠もはらを立てる輩たちです。
騒々しい政界の駆け引きにもうんざりです。
お土産は、好みを考えての数冊の本と、今が収穫の時期真っ盛りの自家採れの柿でした。
また、年が改まったら訪問します。青春の日々の昔話を憚りなく交わせるのは、元気の基になりますので。
自分が入居するとなったら、パソコンの他には、何を持ち込むか、思案してみます。それにつけても、そろそろ身辺整理を急がなくてはなりません。
香HILLさんからも温かいメッセーを頂きました。この場をお借りしてお礼申し上げます。
一昨日は4年目ということもすっかり忘れていたのですよ。仰るとおり4年目は肩の力を抜いて、シンプルな構成で、平易な言葉で語りかけるような表現が出きればと思います。
柿、とても美味しかったです。カラスさんに恨まれないかな?
4年目のブログは、更に優しく語り掛けていただけるそうで愉しみにしています。
ご迷惑ばかりお掛けしますが、これからもどうぞよろしくお願いします。
柿は、昨年の不作の反動で、処分に困るほどです。
カラス君も、もう食べ飽きているのか、辛党なのか、甘味の増したこのごろはあまり味見にやってきません。
今日も、バケツで5杯。疲れてもうやめようということになりました。
もっと平易な表現なら、形容詞止めにすべきでは?
秋風寒しとか、むなしとか、きびし。と言う風に。
形容詞止めは説明文になるので歯切れが悪いが。
風立ちぬ、今は秋・・の秋風は初秋の風で爽やかさを有しています。秋の風にも種類がありますので・・。
如何でしょうか?平易こそ最高の表現ですとの主宰のお言葉に100%賛同いたします。
何?それとこれとは違う・・、失礼いたしました。
テレビの最近のCMに”人生が面白くなってきた・・”とのセリフがありますが、借用して、”ブログが面白くなってきた。”と言いたくなりますね。
煩わしくなるのをお詫びして書き加えます。連歌師心敬の師、正徹の言葉「まことに置き難き事なり。かの御胸に、この二字の(ただ)のありける事よ。あな恐ろし」をひいて玄妙不可説のことと激賞しているのだそうです。
なんで、こうまでたった二字の「ただ」に感激しているのかというと、要は、この言葉は歌に使い難い、こなしきれない語ということにあるというのが要点だったようです。
私は忘れてしまっていたのですが、当時、そんなものかなぐらいに思って、話し言葉みたいだからか、程度に受け止めて、奥が深いとはゆめゆめ思っていなかったのでしょう。もしかしたら、講師のお顔だけ気にしていたのかもしれません。
たんに秋風だけが、というのではなく、むなしく、といった無常を、景としての、めくれ、朽ちようとしている板庇を吹きわたる風の音に、”あはれ”の情感がこみあげるといったところでしょう。
和歌や俳句でストレートに形容詞を使うのは、よほどの上級者でないと、使いこなせるものではないようです。「言いおおせて何かある」で、読み手にその感情を押し付けてしまうのでなく、言外に受け手それぞれの情感で、わびしい、寒々しいといった想いを想起させる余地を残すものでしょう。
中身の薄いブログですが、香HILLさんに”ブログが面白くなってきた”のセリフを期待しましょう。