「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

施餓鬼供養

2005年07月20日 | 塵界茫々
 7月は施餓鬼の月です。今日はお寺での法要に出かけました。
 
 お釈迦様の十大弟子の一人阿難尊者の説話に基づく行事で、浄土真宗以外の寺ではお盆前後に広く行われているようです。

 あれもこれもと果てもない欲望をもつ私の墜ちるところは所詮餓鬼道と思えば、いま餓鬼という苦しみの世界にいるともがらに、せめてもの供え物をして供養とし、少しでも自らも救われるならと殊勝な?心がけからです。

 お釈迦様は、施餓鬼を通してすべての人が満たされるよう、食べ物を無限に増やす方法を説かれています。多分その比喩は、私たちの生き方で、まず「足るを知る」ことの必要を説かれたものでしょう。人間の欲望を満たそうとすれば、物などいくらあっても足るはずもないわけですが、どこで踏みとどまることが出来るかが解決法だということなのでしょう。

 それともう一つが分かち合いということでしょうが、今の現実は、何億という飢えに苦しむ人々と、飽食の世界とが並存しています。この折り合いも難しいものがあります。

 阿難尊者は「多聞第一」と讃えられた存在、その阿難尊者でさえ餓鬼になるというのであれば、私たちすべては餓鬼道へ直行でしょう。

 一年のうち一回ぐらい、人間は食べることで(他の命を奪うことで)命を繋いでいるその自分の罪の深さを自覚して、食べ物に対する感謝の念を持つための供養も意味があると思います。

 自分だけで生きているわけではないけれど、自分のことを考えずには生きてゆけない、それを思い知るための儀式なのだと思いました。
 

最新の画像もっと見る