「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

歳末の家事

2007年12月29日 | 塵界茫々
 11月の半ばから始めていた12枚の雪見障子の張替えがやっと昨日終わりました。
 今年は頼まずに自分でやると夫が言い張って、取り掛かりはしたものの、早かったのは材料の調達だけでした。
 今日は寒いから。今日は気がのらないから、また今度。と気まぐれです。遅々として捗らないのですが、ここが辛抱のしどころと我慢していました。
 糊の加減から、紙の裁ちよう、貼り方の手順と、幼い日からやっていたのだからと、講釈は多いのですが、仕事の出来上がりは、美しく貼れたとは言いがたい出来です。
 もともと器用ですから、素人の仕事ならこんなものだろうというレベルです。霧吹きをかけると、たるみも張って、まずは満足して、年越しの準備の大仕事の一つが終了です。
  
 長いしきたりで29日は外回りのすす払いをして、30日早朝に〆飾りをつけます。
なにも歳末に固めてやらなくてもよいものなのにとは、毎年繰り返す反省ながら、計画を立てて片付けてゆくのは、一年の締めくくりの意味が大きいのだと思います。

 何もかもが一度に押し寄せる歳末にわざわざ調子を合わせて、あちこちとつつき回すことはいかにも不合理なのですが、古い日用品を思い切って処分するにはある種の「はずみ」がいります。物惜しみを笑われる私でも、暮れには捨てる気になるのが正月のありがたさです。

 子供のころ、下着から、はきものに至るまでお正月にはすべてが真新しくなる心弾みを喜んだものでした。今でも、台所の布巾や菜ばしといったものが新しくなると、ささやかな豊かさを味わえます。トイレのタオルをはじめ、家のあちこちに新しいものが目に付くのは気持ちがいいものです。古くなったものを取り替えるのに、正月まで待ってとつい思ってしまうのは、もう私たちの世代までなのでしょうか。
 
 暮れのご挨拶のお歳暮が、中旬で一段落すると、大掃除という最大の行事がありますが、これは理屈抜きで、精神的な意味のほうが大きいような気がします。

 この3年は、餅つきもしなくなっています。夫の妹が搗きたてを届けてくれるので間に合います。あとはお節つくりだけです。これも、大家族だったときに比べると手抜きで、品数も、量も減る一方で、重箱も三段だけですみます。それでもしきたりのものは自分に課して準備するつもりです。

 すべての段取りがのろ間になっているのが情けなく、しかも、そののろ間を仕方がない、こんなものかと、どこか諦めているのがわれながら“あはれ”で哀しいことです。


和敬静寂のぽち袋