「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

和えもの

2007年12月14日 | 塵界茫々
 日本料理の“あえる”という伝統的な調理法は、かなりのバラエティーをもっています。
 白和え、胡麻和え、芥子和え、酢味噌和え、木の芽和え、といった代表的なもののほか、雲丹や、イカ墨、梅肉、たらこ、納豆、若い人はマヨネーズなども和えごろもに用いています。

 ほんのり狐色にふっくらと炒りあがった胡麻を当たりながら、ふと思い出しました。
 若いころ、この和えものが、どうしても母のこしらえるもののようにいかないので、何でだろうと考えたことを覚えています。

 調理法が単純であればあるほど、素材の新鮮さがものをいいます。まして、和えものは、野菜や魚介が相手ですからなおさらです。しかし、具材の鮮度の問題ではありませんでした。和えものは具材の食感と和えごろもの風味を食すものです。
 観察して気づいたのは、和えるタイミングにありました。
 時間が経つと調味料が中までしみこんで、味がぼやけてくるのです。当然食感が変わります。塩を加えている生野菜の場合だと、どんどん水分を滲出させて、しゃきしゃきの食感も、和えごろもの風味も薄れてゆくという寸法だったのです。

 つまり、食べる直前に和えるというのが肝心だったわけです。相手の顔をみての、配慮が料理の決め手だったというわけです。
 料理の手順で、手があいているからと、早々に拵えておくものではなかった次第でした。「和して同ぜず」調和させても、均一に混ぜ合わせてしまうものではなかったのです。

 中華料理の「拌」banとは異なり、「あえる」というやわらかな響きも、「和」という文字も、なかなかに味がある日本語ではあります。