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内田樹 白井聡  『日本戦後史論』を読んで

2016-07-18 14:36:14 | 日記
内田樹 白井聡  『日本戦後史論』を読んで

陸軍上層部には旧賊軍の藩から出てきている。真崎甚三郎は佐賀、相沢三郎は仙台、相沢に殺された永田鉄山は信州、東条英機は岩手、石原莞爾は庄内、板垣征四郎は岩手。彼らは藩閥の恩恵に浴する立場になかった。1930年代から陸軍上層部に上がってきた。
 
あのような無謀な戦争をしたのは「実は日本人が日本を憎んでいた」という可能性を戦後日本の知識人が吟味した形跡がない。丸山真男でも、そこまで書いていない。

靖国神社が戊辰戦争の官軍の死者を祀るためのもので、賊軍兵士の鎮魂のためではない。神道の伝統からいうと、滅ぼされた人間が祟り神にならないように祀るのが当然です。崇徳上皇も菅原道真も平将門も怨みを残して死んだから祭神として祀って、呪鎮した。もし、明治維新のあと、日本人全体が戊辰戦争で斃れた死者たちも、敵も味方もなく哀悼の涙を注いだなら、ゴジラは出現していなかった。

 試験の時にノートを見せてくれるとかして、生身の人間には手を上げられない。記号化された人間には暴力がふるえる。
んn
 スパイ用語でアセッツという語がある。あちこちから「頼むよ」と言われたときに「いいよ。でも、これで一個貸しだよ」というのを積み上げると、ここ一番の時にその「貸し」を回収にかかる。「この人の頼みじゃ断れない」という人間関係をつくることだという。

 中国や朝鮮半島で自分たちが見聞したことについては、語らないまま封印するということは、戦中派には世代的な暗黙の了解があったようだ。

 自分が謝ったり責任を取ったりしなければならない事態になるくらいなら、破局的事態になったほうがましだ、そういうふうに人間は考えるんですよ。

 一億総懺悔みたいなひどい事態になると、誰の責任だ、誰の科だというような話はしなくなる。明日のご飯のことが心配で、人の不始末なんか問わない、ある程度システムが機能している中での失敗は厳しく批判するが、システムが瓦解すると、誰も責任を問わない。福島原発もそうで、被害がもっと小さければ、「徹底的調査を行って、責任者を厳しく処断する」というようなことを政府は言い出しただろう。
リーマンショックも「大きすぎてつぶせない」と言われましたが、破局的事態になるともう責任は問われない。

 1918年から1939年の間を大戦間期という。あのとき反知性主義が猛威を振るう。ダダやシュールリアリズムや未来派は近代知性に対する挑戦だった。現代日本はその時代に近いものを感じる。

 STAP細胞事件のとき、週刊誌はリケジョと持ち上げて、そのあと一気に落とす。最初に持ち上げた方が、落とす時の落差が大きくなるから、できるだけ高く持ち上げる。「こいつはそのうち落ちる」と思えば思うほど等身大を超えた持ち上げ方をする。

日本の本土で玉音放送とは違う形で政府が国民に敗戦を伝えようとすると、どうなったか。新聞の号外などで伝えても国民は納得しなかっただろう。いずれ内戦状態になったのではないか。

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