新に一つの事を取り入れるより、今持っている一つの物を徹底的に学んだり、使ったりする方が充実した人生をおくれるのではないか。ものが一つ増えると、やることが一つ増え、やることが一つ増えると、わずらわしいことが一つ増える。
元の創設者ジンギスカンの補佐宰相の耶律楚材は「一利を興すは一害を除くにしかず」という。利益になることを一つ増やすよりも一つ除く方に力を注げ、という。
人生思えばいつ死んでもおかしくない。明日、大地震に会うかもしれない。明日、雷に撃たれて死ぬかもしれない。交通事故で死ぬかもしれない。街だいつ暴走車や刺殺に会うかもしれない。人生思った以上に長くない。あっという間の一生だ。そんな時、パソコンやスマートフォンのあくまで人間が作った物に、一喜一憂するのはどうか。これらはあくまで企業の宣伝目的で広めている。それを深く考えもしなで、瞬間的に反応する人間を作り出す。企業の奴隷になることになる。
自分の考えを育成するには、テレビを消し、パソコン等の電子製品から早く撤退することではないか。会社で仕事をし、途中満員電車に乗り、帰宅してテレビを見ながら食事をする。これでは一対、いつ自分で考える時間を持てるのか。定年後、肉体的にもいろいろ病が攻める歳になる。糖尿病然り、認知症然り、ガン然り。視力の衰え、聴力の衰えなど、果たして、まっとうな知的能力が残っているか。十分と落ち着いて読書もままならぬ、というのが実情だろう
。知らないうちに人生が終わっていた、という結果になる。何を今までやっていたのだろうと。
時間は待ってくれない。着々と死に向かって進んでいる。そんな時、こちらで抵抗できることは何か。時間を速く進むのを止めることだ。できるだけ、くだらないと思う物を一つ一つ避ける事だ。一つの事に夢中になると時間が過ぎたのを感じない。永遠感といおうか、実に充実したものを味わえる。その例として、一つの部門の専門家になることだ。漱石の事ならまかしてくれ、ナポレオン戦争には負けない、とか何か見つけて今すぐ取り掛かるべきだ。
いくら社長であろうと、専務であろうと、定年後はただの人。名誉も一時的なものだ。むしろ、今この瞬間をどう感じ、どう生きるかを問いながら、内面を成長させなながら生きるべきではないか。