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法隆寺 四天王寺の謎がわかった

2021-08-05 18:54:22 | 日記


 梅原猛著  『塔』


 1 垂直を志向する意志が、限りなく己れの権力を増大する意志であるなら、水平を志向する意志は安定を欲する意志なのである。



 2 十字架にかかったキリストは、死してもなお直立していtる。彼にとって、地上に横たわることは、敗北にほかならない。彼は死においても、旺盛なる垂直への意志を保持していたと。



 3 巨大古墳は自己を自然に見せかけようとする意志である。古墳は、自己を一つの山にならせようとする意志、あるいは山に見せかけようとする意志をもつ。古墳はピラミッド以上の巨大さだが、あまり人目に付かないと。



 4 最初の古墳が山のまわりに、山を背後にして、山に似せてつくられたとしたら、三輪山の複製になる。人間が神になることが、人間が聖なる山となることになる。

 古代人にとって、神になりたいという意志は、神の宿る山と考えられる傘型のの山になることだと。




 5 装飾古墳は大和文化に対する、九州文化の最後の巻き返しではないか。


 大和で古墳が生まれた後、一世紀たって九州で装飾古墳が出現。



 6 神奈備山といわれる笠形の良い山、その山に神が降りて来る。降りて来るところは、尖った岩や高い木を通じてである。高い木は、天と地を結ぶものである。高い木は天と地の接点。

木とともに岩も、神の宿る所。磐代である。尖ったっ形をした水晶性の成分を含んだ裂目のある岩が多い。尖った光り輝く裂目を持った岩に神は降りてくると。



 7 三輪神社は神殿がない。長い間、拝殿もなかった。現在の拝殿は、徳川時代になってから。

 石上神社も、最近まで拝殿がなかった。木が神体なのだと。



 8 神はかつて社を必要としなかった。神が社を必要としたのは仏が寺院を必要としたからである。仏教が寺院を作るのを見て、神道も神社を作り出したと。



 9 出雲大社は仏教寺院建設の後、推古天皇の御代、日本最初の寺院が飛鳥に建てられるようになった後、建てられたものではないか。



 10 出雲大社の建築が始まるとともに、古事記、日本書紀の編纂が着手され、一方は記紀よって、出雲の話しを中心とする日本神話を製作するとともに、一方ではそれを証拠だてる巨大な建築物を出雲の国に作ったではないかと。




 11 神武東征の話は、北九州族による大和族の征服の話ではないか。その結果、大和族は負けた。おそらく外国人の血は優秀な文化を意味していたからだろう。

 記紀に書かれた九州族の大和征服の話は事実
近い。

 ただ、記紀の編者が九州族の根拠地を日向にしたのは、天孫族の起源の地を隠そうする作為だと。

 もし、それを北九州に置くと、北九州は朝鮮に近く、記紀の語る高天原が朝鮮であると嫌疑を受けやすいらではないかと。



 12 古墳は、永遠の生命と言う常世の思想ある。常世の思想は道教と関係している。

 人間が永遠の不死の国に行ける思想である。

 魏志倭人伝が語るように、倭国と魏の間に交渉があったなら、魏の国から鏡や銅の他に思想も輸入したのではないか。

 当時の魏は、老荘や道教の全盛時代だったゆえに。古墳の中には宗教統一の思想とともに道教
思想が含まれていると。



 13  天武艇によって始められ、持統、文武、元明,元正、によって実現された改革こそ宗教改革あった。

 古い大和の豪族と結びついた古い崇神以来の祟る神を追放して、新しい現実的な神をつくった。


 新しい神の中心を伊勢に。しかし、古い神も依然と力を大和に置いている。これら古い神々を追放しなければ。追放のドラマ、持統、文武、元明を経て、元正帝で完成。

 

 持統帝の時、伊勢神宮が建てられ、文武帝の時に、出雲大社の建築が始まる。その間、古事記、日本書紀が書かれ、新しい神を祭り、古い神を追放る神話が書かれた。


 古い神の追放の地として、出雲の杵築はまことに適当。

 なぜなら、東の方、日の出を拝する伊勢に対して、西の方、入日を拝する杵築、神の死の場所にふしいと。



 14 物部氏の滅亡は、古墳時代の第一次
終焉。

 聖徳太子の父、用明天皇の御陵から、古墳時代
の王者の墓、前方後円墳は廃止に。

 用明帝の陵が出来たのが推古元年、飛鳥寺
塔が出来た年に。塔の建設と、前方後円墳の廃止
同時。古い墓の崇拝終わり、新しい墓の崇拝が始まった。




 15 柱は、天と地の接点、そこに天の神が降り、地の神が呼応するところなのである。

 神を数えるのに、一柱、二柱というのも、古代人
考え方の名残だろう。


 16 難波の地は、物部氏の領土だった。
 この物部氏の土地を、蘇我氏との戦いで負けたので、蘇我氏はこの地を我が物にした。
 その半ばを四天王寺の土地にした。

 四天王寺は、物部一族の血の滲んでいる土地
建てられた。

 四天王寺いう言葉に注目してほしい。
 四天王とは、仏教を護持する四人の戦う王だと。
四天王は邪鬼を踏みつけている。これら邪鬼は四天王の機嫌をとっているように見える。

四天王は、仏教を守護する息子たちで、踏みつけられているのは、反仏教の徒、物部のともがらなのであると。

 かつて、邪鬼が支配したこの地に、今や、邪鬼を踏んづける四天王の寺が建てられたと。


 当時、中国も朝鮮も、仏教国に転向。この中国人や朝鮮人に巨大な四天王寺を見せることは、日本の文化水準の高さを示すことができると。

 船で難波に入ってくると、巨大な寺が見える。文化の国に来たのだと。外交的効果を狙った寺だったと。



 17 737年、藤原四兄弟が相次いで死ぬ。

翌年の738年、藤原氏の血を受けた聖武帝、光明皇后、、不比等の妻の橘三千代とともに、大きな不安を感じた。。
 どうして、藤原氏の不幸の翌年、法隆寺が食封が下されたのか?


 藤原氏および当時の天皇たちは、聖徳太子の霊の復讐を恐れたからではないか。

 なぜ、藤原不比等と元明帝は同時に死んだのか。なぜ、藤原四兄弟は同じ年に死ななければらないのか。たたりが思い出される。

 聖徳太子一族の、すなわち、用明帝一族の祟りの度ごとに、莫大な財産が寺に寄進される。

 法隆寺をつくった人は、用明帝や太子の怒りが恐ろしかった人たちだったと。



 18 山背殺害は入鹿一人のせいではなく、巨勢徳太古や大伴馬飼とともに、軽皇子(孝徳帝)も関係していた。
 もし、軽皇子が関係していたなら、そのときすでに軽皇子に近づいていた藤原鎌足が、山背殺害の陰謀に一役買っていたではないかと。



 19 鎌足を神祇伯にしたのは、蘇我入鹿である。山背殺害に対する入鹿の論功行賞になると。

 しかし、鎌足は断った。鎌足は入鹿が思ったように、神祇伯で満足する男でなかった。

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