エマズ・ブログ

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『響きの考古学 増補―音律の世界史からの冒険』

2008年11月07日 | Weblog
響きの考古学 増補―音律の世界史からの冒険 (平凡社ライブラリー ふ 20-1)
藤枝 守
平凡社

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微分音を扱うアラブ/トルコ音楽に関わると、自然と音律に関心を持つようになります。何かおすすめの書籍はないかと質問されることがたまにありますが、そのときにはこの本をお勧めしております。
「はじめに」の中で次のように述べられています。
<ぼく自身、長年、作曲という表現を続けていて、いつも気になっていたのがピアノの音だった。この楽器の均質な音色と音程は、たしかに、さまざまな音楽のスタイルに適応し、複雑な作曲語法を可能にするが、一方、その響がもつ不透明さや抑揚の単調さに居心地の悪さも感じていた。なぜ、そのように感じてしまうのか。そのひとつの原因が、近代以降、ピアノという楽器に採用された平均律という音律であることに気がついたのは、ハリー・パーチやルー・ハリソンたちのあらたな音律による音楽を知ってからのことであった。
 それ以来、音律という問題を意識するうちに、じつは、この音の基準が音楽の流れを方向づけるのに、大きなはたらきをしていたことがわかってきた。そして、古来からの音律を知り、過去の人たちがどのように音を聞きとり、響を感じていたかを想像しながら、自分自身の音楽の行方を探ってみようと思ったのである。>
(12ページから引用)

幼い頃からピアノの音自体にずっと違和感を感じていた身にとっては、よくわかります。

当然のことながら、アラブの音律にも触れています。

<音程の単位がリンマやコンマに制限されたといっても、十七律は不等分の音程によって構成されている。そのため、さらに合理化の洗礼を受けることになる。それは、西欧が十九世紀に採用した十二平均律の影響によってもたらされた。十九世紀の後半、シリアの音楽理論家、M・ムシャーカは、平均律の半音をさらに二分割した二十四平均律をアラブのあらたな音律として導入することを提唱した。つまり、50セントの幅をもつ四分音だけが音程の単位となったのである。
 この二十四分割によって、ザルザルの中立三度は350セントとなり、本来の音程にかなりちかくなっている。そして、このような二十四分割法によって、さまざまな中立音程を容易に生みだすことができ、近代的な楽器や作曲法にも適用が簡単になった。しかしながら、アラブに押し寄せたこのような西欧の近代化の波は、さまざまな問題を引き起こしているのも事実である。> (73~74ページから引用)

なるほど。アラブ音楽も最近では西欧の機能和声からの影響とそれへの賛同と抵抗感というアンビバレントな思いがあるようですが、それ以前、すでに微分音からして一度西欧によって再構成されていたのですね。


<明治政府の洋楽政策の方針のひとつとして、平均律も西欧の標準な音律として導入された。この頃は、西欧において平均律が一般に広がろうとしていた時期であり、多くの人が平均律に対して賛否を唱え、また、ミーントーンやウェル・テンペラメントによる調律の習慣も依然として残っていた。ところが、その頃の日本には、このような平均律以前の音律の存在が十分に知らされていなかった。つまり、この平均律だけが、西欧での歴史的な音律の流れから切り離されて紹介されたのである。
 日本の伝統的な音楽では、古来からの調律法は、口伝という伝授法によって耳を通して保持されてきたが、近代以降の伝統音楽の洋楽化の方向のなかで、平均律が伝統楽器の調律の基準となり、特に音高を固定させる必要のある箏には、平均律に依存する傾向が強くみられる。>(204ページから引用)

これは、それまでの伝統を踏まえた上での近代西欧音楽(いわゆるクラシック音楽)ではなく、いきなりそこから入ってくる日本の音楽教育、また、中世~ルネサンス~バロックの伝統的油彩画の技術を踏まえた上でのそれに対するアンチテーゼとしての近世洋画ではなく、いきなりそこから入ってくる日本の美術教育にも共通する点ですね。


<では、なぜ、十九世紀半ばという時代に平均律が必要とされたのであろうか。それは、音楽的な要請というよりも、楽器の生産という産業システムからの要請だった。ピタゴラス音律から純正調、さらにはミーントーン、ウェル・テンペラメントへと至る、それまでの西欧の音律の変遷には、その当時の人々の響に対する感覚や好みが少なからず反映されていた。ところが、平均律への移行においては、このような感覚的な要因がほとんどみられない。つまり、耳が平均律というあらたな音律を欲したのではなく、楽器の生産に関わる社会状況がこの音律を必要としたのである。
 一八五〇年代に、ピアノの大量生産が開始された。つまり、産業革命の波が楽器生産にも及んだのである。それにともなって、この大量の同質なピアノに対して、一律に適用する音律として平均律が導入された。産業形態の変化がもたらした平均律の導入。そこには、機能性と効率性を優先させた近代的な考えが色濃く反映されている。そして、この平均律は、こんにちまで続く近代的な西欧音楽を方向づけたのであった。>(112~113ページから引用)

まさしくその通り。そこをわからずにピアノを絶対視する人のなんとまだ多いことでしょう。


<日本の音楽教育に限ってみても、楽典の教科書では、平均律を基本として音程の数え方や和声進行などが音楽の基礎として説明され、ピタゴラス音律や純正調などについては、あくまでも過去に存在した歴史的な音律として扱われている。さらには、ポップスの分野で一般化しているコードネームやコード進行も、平均律の均等な音程が基準となって組み立てられている。>(122ページから引用)

そういう意味では、ポピュラー音楽もまだまだ不自由な足かせをはめられていると思います。


<教育者でもある(カイル・)ガンは、あるとき、音楽が専門ではない十代の学生に平均律と純正調による同じ和音を聴かせたという。そして、その印象を聞いてみた。すると、平均律の和音は、彼らに「ハッピーでアップビート」な印象を与えたのに対して、純正調では「哀しく、憂鬱」な気分になったという。このような学生たちの印象の違いを通しえt、平均律は「聴覚的なカフェイン(aural caffeine)ではないのかとガンは分析する。つまり、何らかの興奮させる作用を平均律の音楽はもち合わせており、その一方、平穏で協和した状態に終始する純正調の響は、若い人たちにとって、陰鬱としたくらいイメージに移ってしまうようだ>(239ページから引用)

なるほど。「カフェイン」とは言いえて妙。私の持論も、近代西欧音楽は化学的に作られた塩や大量の白砂糖、油分にまみれているというものです。


<また、旋法的な音楽に対して「異国風」というレッテルをつけてしまう、と西欧の偏見に対してハリソンは大いに批判している。
 このような旋法に対する西欧の認識の低さには、近代以降の機能的な和声法の確立と平均律の導入が関わっているようにみえる。十二個の均等な音しかない平均律では、導き出される旋法の種類はきわめて限られてしまう。また、旋法を特徴づける微妙な音程の違いも、平均律では消滅してしまう。> (144~145ページから引用)

たしかに、平均律キーボードで鳴らされた「アラブ風旋法」ほどチープで居心地の悪いものはないですね。