エマズ・ブログ

エマズ・マーケット(ウードやサズなどの販売・修理調整・レッスン)の店主による、音楽ネタのブログです。

ウード演奏のお知らせ

2007年11月30日 | Weblog
 私店主が鎌倉でウード演奏をします。お近くの方、お時間のある方はぜひお越しください。以下のイベントのうちの一日です。画像はこの場所「楓」です。

 <鎌倉在住のフランス人女性写真家、エブリーヌさん。
彼女はチベットの子供たちに援助の手を差し伸べたいと昨年に続き5回目の写真展を企画。
写真等の売上収益や提供された品物等は全てチベットの子供たちに寄贈されます。
■ 主催者、連絡先 Evelyne Sentenac 鎌倉市大町 7-1539 0467-24-6323
■ 日時 12月1日(土)~9日(日)  10時30分~16時30分  入場無料
■ 会場 茶房ギャラリー 楓  http://kaede-kamakura.com/
(鎌倉駅徒歩13分)>

上記の日程のうち、12月2日(日) 午後2時~4時です。曲目は、「セマイ・クルド」「ベント・アル・シャラビーヤ」「ラクサティ・アル・ムファッダラー」など。
よろしくお願いいたします。

タブラトゥーラ

2007年11月25日 | Weblog
コレクション
タブラトゥーラ
キティ

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 今日逗子でタブラトゥーラのコンサートがあったので観てきました。他所では数回見ていますが、ここ逗子で見るのは初めてです。
 新曲も多く演奏され、相変わらず楽しいコンサートでした。つのだたかしさんは以前弊店にいらっしゃった時にいろいろお話して、ウードへの造詣が深いのも存じていますが、このグループでウードやラウタを使うときは自由な演奏をされ、それがまた中世ヨーロッパではリュートもウードも境界があいまいでこんなふうに使われていたのだろうな、と思わせるようなものなのがとても良いです。(実際、中世ではウードがフレットを有している時期があったのでは、とか、リュートもプレクトラム=撥を使用していたことがあるのでは、という説があります)
 今回はリュートは小型版(ディスキャント・リュート)のみ使用していて、むしろウードとラウタのほうが使用頻度が高く大活躍でした。このようにウードが(逗子市民の)眼に触れる機会が増えるのも嬉しいものです。

ウード +ギター2本とハープ1台の伴奏

2007年11月24日 | Weblog
 ジャミール・バシールの素晴らしい演奏がYouTubeにあります!

 「ラクサティ・アル・ムファッダラ」

「サララート」

 ギター2台とハープ1台をバックに従えた、珍しい構成です。とても繊細な彼のプレイやトーンがよくわかります。トレモロもあまり使っていないので、ギターとウードの音色の違いも良くわかるものだと思います。

1本の指で4本の弦を押さえる?!

2007年11月23日 | Weblog
 ウードはフレットレスなので、コードを弾くのにギターほどには適していません。オープンDやオープンAに相当するコードは、指の腹をベタッとナットに平行に置いてしまえば(つまり半分セーハのように)、なんとかスムーズにできるのですが、特に隣り合った2コースを同時に押さえるコード(例えばギターでのオープンEコードなど)は苦労します。フレットがないので、当然指板上の2本の指の位置は大幅にずれ、音が狂ってしまいます。
 
 そこで、ウード教則本の中でジョン・ビレジクジャン氏が紹介している方法です。
 なんと、1本の指で2コース(弦は4本!)を押さえるのです。指が相当太くないと難しいだろうと思いがちですが、試してみると、ややネックが狭めのウードなら、細めの私の指でもなんとか可能です。
 指の中心を2コースの弦の間を狙って置き、コツは4本の弦に指の圧が均一に当たるように意識することです。力もかなり入れないと、外側の1本の弦がミュート気味になったりビビリ音が出てしまいます。意識すればだんだんと慣れてきて、うまくいきます。
 ただ、太目のネックですと不可能ですので、もしもこの方法でコード多用を考えていらっしゃる方には細めのネックのウードをお勧めします。
ジョン・ビレジクジャン氏の、コード奏法たっぷりの動画サンプルは以下でご覧になれます。
http://www.youtube.com/watch?v=I8uCElSGATU

トルコ・ウードの音楽的特性

2007年11月22日 | Weblog
Oud Masterpieces: From Armenia, Turkey and the Middle East
Alan Shavarsh Bardezbanian
Arc

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 よくアラブ・ウードとトルコ・ウードの音楽上・演奏上の違いをたずねられることが多いので、今回大変大まかに言ってしまうと、基本はほとんど同じで、わかりやすい大きな違いは

1.中低音寄りのインパクトが強いアラブ・ウードに対し、中高音寄りの印象が強いトルコ・ウード。チューニングも一音高く、音のニュアンスもヨーロッパのリュートにやや近い。

2.微分音へのがきつめ(全音の4分の1くらい)のアラブ・ウードに対し、西欧的な平均律から少しずらした感じの(半音の4分の1くらい)微分音のトルコ・ウード。

3.トレモロを多用する奏法が多いアラブ・ウードに対し、それほど多用しないトルコ・ウード。

という感じでしょうか。ただし、互いが影響しあっていますし、トルコのタルガンのイラク学派における貢献が大変大きいですし、境目が微妙なところも多いのですが。
次の動画のベキール・シャヒーン・バロールは典型的なトルコ・ウードらしい響き、奏法がわかりやすいと思います。

めくるめくサズの音

2007年11月21日 | Weblog
音の世界遺産 トルコの吟遊詩人~ウシュクダラ
メフメット・オズベック,アリフ・サー,ウミット・トクジャン,民族音楽
キング

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 サズ奏者のエルダール・エルジンジャンの素晴らしき世界。


(後半の女性ヴォーカルが沖縄民謡にも似た部分があるのがおもしろいです)


(別の名サズ奏者エロール・パルラックとのデュエット! ハープの高音部にも似て聞こえます)


 このきらびやかでありながら厚みもあるサズの音が、音楽スタイルと強固に結びついているようです。とても1台の楽器とは思えぬ広がりを感じさせます。タッピングも多用していますが、もともとサズには存在した奏法です。
 残念ながら彼のCDは国内では廃盤のようです。リンクのCDでのサズ独奏は違う奏者ですが、やはり独自のサズ・ワールドを展開しています。

シルクロードと世界の楽器

2007年11月19日 | Weblog
シルクロードと世界の楽器―音楽文化の東西交流史
坪内 栄夫
現代書館

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クラシック音楽の政治学
渡辺 裕,増田 聡
青弓社

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 弊店のスタンスと同じコンセプトを、素晴らしく説得力のある展開で著してくれている本を紹介します。多くの楽器は姿を見ればすぐわかるとおり、シルクロードをめぐる親類です。近代西欧楽器も邦楽器もそうです。にもかかわらず、この手の本が今までほとんどなかったのが不思議なほどです。
 古代ギリシャ音楽と日本の旋法が似ている点が多いなど、太古の繋がりを感じさせます。(同時発生という可能性も捨て切れませんが)
 音楽史においても、西洋・東洋と二項対立するのは粗雑な議論だと思っています。近代西欧以降は確かに西洋の特殊性が強まってきたのだと思いますが、それ以前は違ったはずです。そして、そんな「世界音楽」的に見ると異端なはずの近代西欧音楽が、「普遍的音楽」とされ世界を一元化し侵食し続けているのは皮肉なことです。

「まえがき」から一部引用します。

<(前略)ところが、こと音楽に関する限り、幕末の開国以来、輸入の洋楽に対して、伝統の邦楽が真っ向から対立する矛盾がほとんど未解決のまま、今日にいたっているのはなぜであろうか。というよりも従来、わが国の伝統音楽は、学校教育からもほとんど完全に閉め出されるという、きわめて不当、不遇な差別を受けてきたのである。
この矛盾の解決なくしては、たとえ国際音楽コンクールに優勝する名演奏家が何人現れたところで、洋楽はいつまでたっても、文字通り西洋からの借り物、根無し草でしかないのである。(中略)
また現代では、従来、幼稚で低俗と見下されがちであった世界各地の民族音楽を、すべて謙虚に研究し、全世界的規模の音楽体系を生み出そうとする比較音楽学の時代である。こうした立場から考えても、従来、わが国の音楽文化は、一番大切な根本が完全になおざりにされてきたのである。

それでは今後、いったいどうしたらよいであろうか。音楽を愛し、音楽を語る人はすべて、プロ、アマを問わず、視野を深めて、音楽の根源を理解することこそ、最も重要であろう。そして差し当たり、これには二つの具体的な方向が考えられる。 
第一は、どんな楽器、どんな音楽でも、すべて共通の科学的法則によった解釈、分析ができるという事実である。
第二は、楽器の発生地は、ほとんどがユーラシア大陸の赤道沿いのベルト地帯、すなわち東南アジア、インド、西南アジア、エジプトといった地方であり、シルクロードなどによって東アジアやヨーロッパの各地に伝えられたという歴史的事実である。(後略)>(P15・5行目~P17・3行目)

 内容は知的刺激に満ちています。ウードに関しても、従来、「木材に乏しい中東なので寄木細工にならざるを得なかった」という見解が支配的ですが、本書では、

<砂漠の国で一木造り用の木材が、得難かったためにこのような構造になった、と従来言われてきたが、この論にはとても納得できない。いくら古代でも大帝王の権力をもて楽器用の木材を入手するのに、それほどの困難があっただろうか。
いやそれよりも、機械的工作法など一切なく、すべて手作業でするしかなかったことを考えれば、一木造りよりもかえって大量の木材を必要としただろう。それではなぜ、製作のきわめて困難な薄板による寄せ木造りの楽器に変わったのか。理由はいたって簡単、一木造りで大型の楽器を、熱帯砂漠の乾燥地帯に持ってくれば、たちまちそったり、ひび割れしたりして、駄目になるからである。そこで極度の乾燥に耐えられるように、薄板の貼り合わせで胴を造れば、背面は丸み、膨らみの大きい形となる。これも理の当然である>(P122・5行目~P123・3行目)

眼から鱗、でした。

 2冊目は‘権威性を漂白されたように見える「クラシック音楽」は、実際は多様な側面から「音楽」全体を規定しつづけている’という、これまた最近の「オシャレなクラシック音楽」トレンドに居心地の悪さを感じていた者からすると、膝を打つ内容の面白い本です。

モーツァルト効果???

2007年11月18日 | Weblog
音楽の生存価―survival value of the music
福井 一
音楽之友社

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 以前から抱いていた私の持論と同じことを上手に表現してくれている文章を知りました。ある会社の研究職(音響の研究)をされているという「たろ」さんのHPです。http://www.onon.jp/~taro/web/etc/think/mozartAndReseacher.html
 以下は「モーツアルトと科学者」というタイトル文からの引用です。

<「現代の日本(もしくは西欧)はモーツアルトの時代にほぼ完成された,多声調性音楽をいまだに規範としており,音楽教育,また,メディアで流れる音楽もほとんどこの規範の上につくられたものである。従ってこの規範をほとんどの日本人はもっている。そしてその規範の上での音楽表現の一つの金字塔だったのがモーツアルトである」というのがわたしの考えです。>

 私もそう考えています。さらに、次のような文章があり、これは事実だと思います。

<あまり今の人は意識してませんが,日本の音楽教育というのは明治時代に制定された指導要領を元に行っています。これは西洋の音楽教育の手法をほぼそのまま取り入れたものです。で,その当時(いまでもそうかも知れませんが)の西洋の音楽教育というのは実はキリスト教教育そのものだったのです。従って,実は日本の音楽教育も西洋の一神教の影響をうけたカリキュラムで行っていて,これはなにかというと「絶対的な美(神が作ったもの)が存在する」というものです。ただし,これだと民謡とかをすべて否定することになるため,現在の教育ではそういう部分は修正されてると聞きます。>

<現在の音楽の主流が多声調性音楽であれば,明らかに西洋クラシック音楽が原点と呼べるのですが,しかしもちろんそれ以降,新しい音楽スタイルは生まれています。ただし,やはり12半音でオクターブという音階の中での多声音楽,そして2の倍数を基準としたリズムという大きな枠は基本的に続いていて,そういう意味では,現在の新しいスタイルの音楽も基盤としてクラシックの音楽があるといえるでしょう。>

 さらには、次のような興味深い見方がありました。気がつかなかったところです。

<科学者がクラシックを好きなのは, 西洋文化に対する憧れと,学校で習ったものに対する肯定が他の人よりも強い…ということもあるのかも知れません。>

 確かにそうかもしれませんね。とにかく現在の日本は根底にはまだ伝統精神文化(崩れつつありながらも)が残っているものの、こと科学や学校教育に関しては明治以来の西洋そのものですから。
 音楽的には、機能和声のホモフォニー(最上声部が独立したリズムによる主旋律で、他の声部が和音伴奏)が現在でも一般的な「正しい音楽」スタイルとされがちな現代日本では、カラオケやギター弾き語りのような「民衆音楽」でさえもそうなってしまっています。(もはやかつての民謡のような真の民衆音楽はもはや存在しないでしょう)
 学校教育で「音楽の3要素=メロディ、リズム、ハーモニー」と強く刷り込みをされ、入学式からして「気をつけ、礼」のあのピアノの和音で始まる、そんな現在ですから、その当然の帰結が過剰なまでのモーツァルト信仰ではないか、と思うのです。
 最近、武士や先の大戦を扱った日本映画が多いですが、エンディングは唐突に(私にはそう感じられます)近代演歌的歌唱がかぶさると本当に興ざめします。しかしこれに違和感を感じない人が大多数なのでしょう。私は少数派でしかないと思います。『硫黄島からの手紙』にはそういう主題歌や挿入がなく(日本映画ではないからでしょうか)、スポイルされることがないのが珍しかったくらいです。(映画自体の描写や細部に関しては不満足ですが)

<そういうことを考えると,多声調性音楽と全く異なる基盤を元に音楽をつくり,それが一般化すると,モーツアルトを絶賛する人は減るはずです。果たしてそういう音楽が今後生まれていくのかはわかりません。1900年代は,様々な西洋以外の音楽が取り上げられ,調性音楽ではない音楽(いわゆる民族音楽やワールドミュージック)が,紹介されました。それを取り入れていく中で,ポピュラー音楽やジャズ等も従来の和声のルールと異なる,和声の方法を模索したり,またリズムもポリリズム化しています。
ただし,今のところ,一部の前衛的な現代音楽などをのぞくと,基本的には12音階楽器を用いていて,完全に従来のスタイルから解離出来てないというのがわたしの印象です。
 しかし,それから完全に脱却でき新しいルールをつくれた場合,もしくは従来の基盤が目立たないほど,大きな基盤が出来た場合,その場合は,モーツアルトを越えた,多くの人に愛される音楽家が生まれるはずだと思います。>

 同感です。ポリフォニーやモノフォニーの再評価、各種旋法の復権(ジャズではモード奏法への過程で教会旋法が取り入れられましたが)、各地域の伝統音楽の研究、和声的ではなく音響学的なまったく違う観点のハーモニー、といったものも含み、そうなることを願っています。
 
 このブログにもウィリアムさんからコメントをお寄せいただきましたが(ありがとうございます)、中世ヨーロッパ音楽以前まで造詣の深い方に対しては、私の物言いは釈迦に説法なのを重々承知しています。かなり意図的に「反近代西欧音楽」なスタンスを取っているつもりです。
 というのは、学校でのガチガチの近代西欧的音楽教育で始まる日本人の音楽観が、相当固定されているのを痛感してきたからで、微分音はおろか純正律さえも頭にはなく、ただただピアノ=平均律音楽こそが絶対的なすべての音楽基準だと思っている人。また、バッハ・モーツァルト・ベートーベン以降だけを普遍的な芸術音楽だと信じ(こまされて)いる人。とにかく聴く前から「民族音楽? ああ、低級だけど気分転換にはなるね」というようなきめつけをする人。そういう人を多く見てきたせいかもしれません。

 画像の書籍は、「日本人の脳特殊論」のいかがわしさを看破したり、興味深いのですが、有名な「モーツァルト効果」も槍玉に上がっています。なかなか説得力のある内容なので、ご興味のある方には一読をお勧めします。
 私自身は音楽療法自体は否定しないし、やり方によっては効果があるのだろうと思っていますが、巷に氾濫する「○○音楽健康法」のようなものに対しては懐疑的です。実際読んでみると「トンデモ本」のたぐいが多いですし。
 むしろ「純正律健康法」のほうがよほど説得力があります。静的でヒーリング効果があるのは実際そうでしょうし、平均律の世界は激しい緊張感を伴うというのも当たっています。
 要は人それぞれ、ある種の音楽に癒されるということは十分にあるはずです。私の場合はかつて、ストレスから調子を崩して、あらゆる音楽がまったく聴けなくなった状態のことがありました。CDもステレオも埃をかぶってしまっていました。そんな時、偶然ラジオから聴こえたウードのタクシームはまったく「(いい意味で)音楽と意識せずに」心にすっと入ってきたのです。そして、その後ウードを手にして抱え、音を鳴らしたときの振動を丸いボディから全身に感じる時、本当に癒されたのです。
だからと言って、私は「ウード健康法」を唱えるつもりはありません(苦笑)。「万人に効く」絶対はなく、人それぞれの「癒しの音楽」があるはずです。(でも逆に多くの人をいらだたせる音/音楽」というものは存在すると思っています。

生皮ダルブッカ

2007年11月17日 | Weblog
 気候や湿度等の条件に関係なくピッチや音色が安定しているプラスティック・ヘッド物が一般的に使用される現在のダルブッカですが、やはり生皮(山羊皮、エイ皮、サメ皮など)物の音は独特の魅力があります。
 ただ、やはり湿度による皮の張りの変化が問題で、中に電球を入れて調節したりします。この動画で見れますが、皮を通した電球の明かりが意外と面白さになっていてよろしいのでは、と思います。


 また、乾燥した中近東生まれの楽器だけが、この湿度の高い夏の日本で取り扱いに困るというわけではなく、たとえば和太鼓も皮は水分に弱いため、濡れた場合には、タオルでよく拭き取り、陰干し、扇風機で乾かすなどの処置が必要です。とくに梅雨シーズンには鼓面の湿気をドライヤーをかけたり、鼓面の上に除湿剤を置くなどして苦労する方も多いです。とにかく、温度・湿度に急激な変化のない風通しの良い場所に保管する、というのが必須です。まったく生皮ダルブッカやレクと同じですよね。
 要は、必要以上に「湿度変化の大きい日本では使えない」と決めつけずに、それなりのケアをして注意深く使えばよいということです。
 
 なお、まもなく弊店に生皮+木材、生皮+陶器、のエジプト製ダルブッカが多数入荷予定です。

エレクトロニクスを活用しての練習

2007年11月16日 | Weblog
ティアック CDギタートレーナー TASCAM CD-GT2 CD-GT2

ティアック

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◎TASCAM MP-GT1 ポータブルメモリギタートレーナー

TASCAM

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 昨日の記事で書きましたとおり、録音・録画技術が発達する前には考えられなかったCDやビデオという「文明の利器」を使えば、かつて師匠に目前で弾いてもらうしかなかった模範演奏が目の前で何度も繰り返し(!)可能な時代です。
 SP時代から一般人でも音楽家の演奏を家にいながらにしてたやすく聴けるようになったわけですが、それがLP、さらにデジタルのCDにと、どんどんと質も便利性も向上してきました。ビデオ録画再生が可能になったのも大きな飛躍でした。

 「昔は○○だったのに」というオヤジ発言をさせていただくと、そんな文明の利器でさえもコピーには苦労がまだありました。それは速弾きなどのわかりにくいフレーズの習得です。若かりし頃、ロックギターのコピーに夢中になりましたが、どうしてもわからない速弾きがあると、LP(アナログ盤)は33回転なのでそれ以下の回転数はないために、手回しで(どうしても回転が速くなったり遅くなったりします。スクラッチDJプレイの先を行ってたみたいです笑)、必死に音を取り、そのままでは低いのでまた音高を上げて弾いてやっと解明したものです。これが、目の前にギタリストがいればゆっくり弾いてもらえるのになあ、とかなわぬ夢をみたものでした。その後カセットデッキにはテープ式のスピードコントロール機構が付いたりしましたが、変化幅も小さく、さらにピッチも落ちてしまうのはやはりコピーのしにくさにつながっていました。
 また、動くミュージシャンを見れるのも『ウッドストック』や『レット・イット・ビー』といった映画が上映される時くらいのものでした。

 しかしいい時代になったものです。多重録音時代はお世話になったTEAC社からギタートレーナーなる優れものが出たのです。パソコンで専用ソフトを使えば同じようなことは可能ですが、やはりスタンドアローンの手軽さが一番です。注文していたものが本日届いたので、早速使用してみました。ウードプレイでも当然ギター同様わかりにくいパートがある演奏もあり、また譜面がないものも多いので、以前から試してみたかったのです。
 
 その結果、十分実用になることがわかりました。ピッチはそのままでテンポだけ落とすという、なんとも素晴らしいものです。パート・リピートも可能ですし、まるで先生が「そこはこうだよ」と何度もゆっくり教えてくれるかのように感じました。
 また、基本的にウードは単音奏法なので、コードの多いギターに比べ、音がつかみやすいという利点もあります。私が購入したのはCDタイプですが、MP3タイプもあるのでいろいろ便利そうです。耳コピに苦労されている方におすすめします。