2015年5月27日 (夕)
闘病を続けていた父が26日午前4時に亡くなりました。 自分は日記などはつけませんので、いつしかこの日の記憶の詳細も忘れていくでしょう。自分の日記として記事にしますが、山と関係ないので読むか読まないかは各自のご判断にお任せします。
今、家の仏間で横たわっている父の顔は眠っているように穏やかで、せめてもの救いです。数週間前に主治医の先生に説明を受けて、覚悟は出来ていました。その時から、最期の瞬間までの期間が長かったので、最後は不思議と大きな悲しみは湧いてきません。遺族って、葬式の準備や相続や事務手続きが忙しくて、悲しむ事も忘れるようにできているのですね、うまいシステムです。
ウマが合わず好いていなかったなな”の名を、居ないにも関わらず呼んでいたりするというので、もう長くないかなと思っていました。
諦念が湧いてきてからは、会社でも気持ちが塞いだりして、いつもと違った接し方をしてしまった人がいたらゴメンなさい。26日午前2時過ぎに病院から呼び出しが来て、夜中に40分の壬生までの母を乗せた運転時の気持ちは、本当にイヤなものでした。
父との関係は、この時になっては後悔の山なのですが、後の祭りです。最後の25日21時頃、見舞って病室を母と立ち去る時、息をするのも大変な状態なのに「がんばって治って」と水を口に湿らせてあげると、「もういいよ。(もう頑張らないよ、の意味)」といつも通りの冷めた反応で、その時一瞬ニヤリと笑った気がしました。ここ数週ほとんど、表情の変化が無くなっていたので、アレっと思ったものでした。
帰り際、自分の体もおぼつかないのに、「気をつけてな。」との声をかけてくれたのをなんとか聞き取れて、病室を母と去ります。
エレベータの前で、なな”が洗い物を持ってくるのを忘れて、病室に自分だけ足早に戻ると、上を向いて酸素マスクをして呼吸していてこちらに気づいていないようでした。声を掛けようと思いましたが、また明日も来るだろうとちょっとだけ見守って、それが結局最後のお別れでした。結果は同じこととはわかっていますが、あの時何か励ましの声を一言かけていれば・・・。それは親父に対する、私の最後の後悔になるのでしょうか。 ■■
どうも暗くなってしまって、すみません。来週か来来週の週末からは、いつものおとぼけハイカーのななころび”復活の予定です。
(青年なな”と親父の希少なツーショット写真。たぶん20代中頃の写真で、なな”は今市に引越ししてきていない頃。体格が今と全然違って太い、着ているのはガンズ・アンド・ローゼズのメタルTシャツで笑える。湯の湖だと思う。)
最新の画像[もっと見る]
軽い感じで受け止めておりましたが、オヤジさん、かなり深刻な状況だったのですね。
あたりまえの、ありきたりの言葉で恐縮ですが、人間、いずれは死ぬもので、その死の場に、自分がいかに直面するか、立ち会っているか、ななころびさんのこれからの生きざまにも大きくかかわってくるでしょうね。
いずれ、オヤジさんのご供養がてらのすっきり歩きをお待ちしております。
一番大変な時にブログへのお返事を細かくいただいたこと、なんと申し上げてよいやら...
お父様のご供養も済み、いつものななさんに戻られたらお山ご一緒させてください。
励ましのお言葉、ありがとうございました。
親父も86歳まで生きて、最後は持病に倒れましたが、よく頑張ったと思います。
ああいう状態になる前に、ケアできたのではないかと思うと心残りです。
今回の事で、色々考えさせられました。月曜から4日間会社を休んだ事のリカバリーで、忙殺させられそうです。
もう少ししたら、また山で思いっきり歩きたいです。
お悔やみのお言葉、ありがとう」ございました。
コメントをいただいていて、気持ちが晴れていたのですよ。いい気分転換でした。
早くまたイヤという程、山を歩いてみたくなってますよ。
ご愁傷様でした。
しばらくお気持ちも沈みがちでしょうが、また一緒に山を歩ける日が来る事を願っております。
心よりお悔み申し上げます。
しばらくは,身の回りも,心の整理もつかないことと思いますが,いずれ元気になった,ななさんの記事がアップされることを心よりお待ちしております。
私も8年前に父が他界しましたが、通夜、告別式、初七日など慌ただしく、悲しんでいる暇も無かったのを思い出しました。
しばらく大変だと思いますが、落ち着きましたなら又ご一緒しましょう。
でも、きっと天国からななさんを見守ってくれていますよ。
どうぞご自愛くださいね。
合掌