今年、2月27日夜19時過ぎに、82歳の父親が亡くなった。
家の父親は40歳を過ぎてから糖尿病になり、40年近く上手に糖尿病と付き合いながら生きてきた。幸い、糖尿病による合併症も発症せずにすんだ。
亡くなる3ヶ月前から食欲が無くなり、結局死因は老衰に近いような内容だった。
ちょうど3年ほど前、父親の言動、行動、体調がおかしいと母から連絡が入り、ならば救急車を呼ばないと駄目だと言った。
その日は、どうしても休めない日だったので、末っ子の5男が近いので連絡したら、見に行けると言ってくれて、結局、救急車は呼ばずにタクシーで掛かりつけの病院に行った。
その日は、入院することなく簡単な検査と処置で家に帰ってきた。
すると翌日、様態が急変し救急車を呼び入院することになった。ここから、約3年近く掛かり付けの病院に入退院を繰り返すようになった。
ふと、この様な事が起きたとき、家族(親子で一緒)でいた時間はどのくらいか考えてみた。
今まで、一度もそんなことを考えたことがなかったが、生まれて家を出るまで18年、その後、3年、後はたまに返ってきてといった感じで、赤の他人である母との夫婦生活は50年以上であり、血のつながった親子の関係はたかだか20数年。
また、兄弟で考えてみると、末っ子の弟とは10年違い、家族で一緒に暮らした時間は10年程度である。
意外と短い時間であることに気がついた。
あまりにも、親子や兄弟という当たり前すぎる関係であるため、一緒に暮らしてきた時間などは考えたことが無かった。
そんな自分も、家族を持ち3人の娘がおり一緒にいられる時間を自分の例で当てはめると、結婚して嫁に行ってしまうことを考えると、あと10数年しか時間がないのかと思うと寂しいとも感じた。
でも、一緒にいる時間は短いが、生まれて赤ん坊の頃から一生懸命、手をかけ育ててくれた親子の時間は普通の時間とは違うことに気づいた。
自分も親となり、赤ちゃんの時から手をかけ子育した経験と時間を考えると、親子(一緒)で暮らしてきただけでなく、親子で関わったいろんな事柄が強い絆で結ばれ、濃縮されている時間となっていることに改めて気づき感じた。
考えてみれば、親子で一緒に暮らした時間は短いが、家族との濃い時間に対する自分の感じや思いと気持で決まるような気がする。
改めて、親と自分、自分(親)と子の家族(親子)の時間と絆の大切さを感じる。
家の父親は40歳を過ぎてから糖尿病になり、40年近く上手に糖尿病と付き合いながら生きてきた。幸い、糖尿病による合併症も発症せずにすんだ。
亡くなる3ヶ月前から食欲が無くなり、結局死因は老衰に近いような内容だった。
ちょうど3年ほど前、父親の言動、行動、体調がおかしいと母から連絡が入り、ならば救急車を呼ばないと駄目だと言った。
その日は、どうしても休めない日だったので、末っ子の5男が近いので連絡したら、見に行けると言ってくれて、結局、救急車は呼ばずにタクシーで掛かりつけの病院に行った。
その日は、入院することなく簡単な検査と処置で家に帰ってきた。
すると翌日、様態が急変し救急車を呼び入院することになった。ここから、約3年近く掛かり付けの病院に入退院を繰り返すようになった。
ふと、この様な事が起きたとき、家族(親子で一緒)でいた時間はどのくらいか考えてみた。
今まで、一度もそんなことを考えたことがなかったが、生まれて家を出るまで18年、その後、3年、後はたまに返ってきてといった感じで、赤の他人である母との夫婦生活は50年以上であり、血のつながった親子の関係はたかだか20数年。
また、兄弟で考えてみると、末っ子の弟とは10年違い、家族で一緒に暮らした時間は10年程度である。
意外と短い時間であることに気がついた。
あまりにも、親子や兄弟という当たり前すぎる関係であるため、一緒に暮らしてきた時間などは考えたことが無かった。
そんな自分も、家族を持ち3人の娘がおり一緒にいられる時間を自分の例で当てはめると、結婚して嫁に行ってしまうことを考えると、あと10数年しか時間がないのかと思うと寂しいとも感じた。
でも、一緒にいる時間は短いが、生まれて赤ん坊の頃から一生懸命、手をかけ育ててくれた親子の時間は普通の時間とは違うことに気づいた。
自分も親となり、赤ちゃんの時から手をかけ子育した経験と時間を考えると、親子(一緒)で暮らしてきただけでなく、親子で関わったいろんな事柄が強い絆で結ばれ、濃縮されている時間となっていることに改めて気づき感じた。
考えてみれば、親子で一緒に暮らした時間は短いが、家族との濃い時間に対する自分の感じや思いと気持で決まるような気がする。
改めて、親と自分、自分(親)と子の家族(親子)の時間と絆の大切さを感じる。