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popeye物語

2008-04-22 06:12:15 | BOOKS

椎根 和 「popeye物語」 新潮社 2008.03.25. 

「popeye」誌が平凡出版から創刊されたのは1976年6月25日。創刊号は、石川次郎がキャップに、アメリカのスニーカーを紹介。超一流のクライアントが広告を出し、創刊号は5万3400部売れた。 
編集長の木滑良久は、これからの新しい雑誌は、編集経験のない学生のような新人ライター、異業種からやってくる素人編集者たちに頼る方がベストだと考え、みんなで創る雑誌、“Come Join Us!”と連呼した。 
木滑と石川はポパイで、反米気分横溢の日本の学生たちにアメリカ大好きといわせ、Made in U.S.A.の商品を日本中に氾濫させた。 
1953年頃から、「対日心理戦略計画」をスタートさせていた米国はポパイの登場を歓迎し、ポパイの米国取材には米国商務省の金銭的援助が恒常化した。ポパイ誌の米国取材チームは、いつも5、6人という当時では考えられなかった人数を派遣し、いつも膨大な物と書物を買って帰るため、手荷物は大幅に重量超過したが、航空会社は大目にみてくれた。 
70年代、モノ、商品を、自然、風景のようにみる日本人が増加し、“モノ”をテーマにすればいくらでも編集企画はできた。 
ポパイの原稿作製システムは、まず各担当カポーが、ひとつの特集を5、6人のライターに取材・撮影を命じる。取材が終了すると、カポーが小見出しをつけ、写真をそえて、レイアウトに渡す。できあがったレイアウトの字数にあわせてライターが文章を書く。文頭にも末尾にも筆者のサインは入れない。 
60年代末から男性誌にも膨大な広告費が流れこみ、その7割以上を斡旋していたのが電通だった。編集長は自分のつくりたい雑誌を純粋につくればよかったが、ポパイの成功は、創刊編集長の個人的考え方以上に電通雑誌局の意向が重要視されるようになった。 
木滑と石川は80年5月27日創刊予定の新雑誌「BRUTUS」の発刊準備に入り、石川の最後の仕事、70号“これがポパイのアイビーだ!”では、VANは服装の着かたについてだけでなく、本当のアメリカの姿、アメリカの冒険心、アメリカのスポーツを日本の若者たちにスピリットとして教えてくれたと書き、最高販売数37万6200部を記録した。 
創刊と同時にポパイ誌はアメリカ商務省観光局の信頼を得、97号ではアメリカの経済紙『ウォールストリート・ジャーナル』の1面に『ポパイ』と『ブルータス』が取り上げられ、その経済的波及効果・影響力を賞賛された。 
ポパイ神話形成に功績のあったアンダーボス、カポーたちは全員退社し、石川も93年の1月に退社した。ポパイ誌の大成功で木滑は取締役になり、社長にもなり、最高顧問として現在もマガジンハウスに君臨し、98年まで日本雑誌協会広告委員会委員長を、01年まで日本雑誌広告協会理事長をつとめている。



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