ハビヤンが新・平家物語で木曽義仲について新解釈で書いているのですが、
ここで木曽の死を殉死としていますが、
山本さんは、「ハビヤンはキリシタンの殉教(注・01)を異常とみなしている」
ということに注目しています。
私もこの指摘は日本教脱出するためにいかなることをすればいいのか、
このようにブログで116回も続けているのですが、
実は、一番気になっていることなのです。
山本さんは今日まで日本人は殉教を認めない国民だといいます。
それがキリスト教の拡大を阻むものなのだからです。
つまり外来の思想を一部だけ拒否する日本教のバイブルにあたる
ハビヤンの「破提宇子」に明確にかかれているのです。
キリシタンの殉教(注・01)
歴史的に、キリスト教で使われてきた「殉教」(ギリシャ語:Martyria)の語は「証人」という言葉に由来している。すなわち、殉教とみなされるためには、その死がその人の信仰を証していると同時に、人々の信仰を呼び起こすものであるかどうかということが基準とされている。処刑される殉教とともに、迫害と追放を耐えて死ぬこと、信仰のための追放も殉教であるとされている。キリスト教の最初期の殉教者として新約聖書(使徒行伝・使徒言行録)に登場するのはステファノと使徒ヤコブである。洗礼者ヨハネの死も殉教とみなされるが、伝統的にはイエス・キリストより以前に死んだヨハネではなく、ステファノが「最初の殉教者」といわれる。伝承によると、イエスの十二使徒は(イスカリオテのユダはもちろん例外として)、ヨハネを除くすべてのものが殉教したとされるキリスト教は、自分たちの崇める神以外の神を認めない一神教である。これは古来の神々への崇拝を重視するローマ帝国の政策に反していたため、皇帝ネロ以来たびたびキリスト教は禁止された。五賢帝と呼ばれるハドリアヌスやトラヤヌスは、帝国の精神的一体性を強めるため古来の信仰の称揚を図り、ためにキリスト教は抑圧され、流刑に処されるものが多く出た。さらに後期ローマ帝国において皇帝崇拝が強化されると、キリスト教徒への迫害が強まった。使徒ヨハネの弟子ポリュカルポスは皇帝を拝む偶像崇拝を拒み、火あぶりにされた後に刺し殺されたと伝えられる。古代末期のディオクレティアヌス帝やデキウス帝は皇帝崇拝を強化し、キリスト教徒を積極的に弾圧した。この時期を大迫害期と呼ぶ。また、初期の教皇とされるこの時期の多くの高位聖職者たちも、その多くが殉教していたとカトリック教会では伝承される。ローマ人は皇帝が神だと信じていたわけではなく、皇帝への服従を形式によって示すことを期待していた。ローマの知識人はキリスト教の教義そのものを敵視していたわけではなく、むしろ迷信に惑わされたものとして同情していたが、国の政策に公然と反対するキリスト教徒の強情さは罪に値すると考えていた。しかし、自分の口から皇帝を神と認める言葉を出すことは、キリスト教徒にとっては重大問題であった。皇帝崇拝を拒んだキリスト教徒は、捕らえられて死刑に処された。こうして殺された人を、キリスト教徒は殉教者として信仰の証人とみなした。なお洗礼を受ける前にキリスト教への支持を表明して殉教することは「血の洗礼」と呼ばれた。(ウィキ)