台湾食材 BETHESDA KASHIWA

美味しい台湾食材をはじめ何だかんだ日々のこと書き綴ります。
クリスチャンファミリー

七)哈璽浜の二月「哀しき夕陽、原作 能瀬敏夫」より

2021-08-14 19:53:04 | 祈り
 七)哈璽浜の二月「哀しき夕陽、原作 能瀬敏夫」より  二月に入り、今日まで行動を共にした女子軍属数十名が院外退去を命ぜられるに及んで、看護婦、衛生兵らも櫛の歯が抜けるように院内から消えていった。  院内を去るものにはそれなりの危険があったのだが、先の不安を見通してその危険覚悟で出ようとするものと、既に街に出た女子軍属や看護婦を何らかの形で助けようと、あえてその危険に立ち向かった者とがあった。  また、院内に残るものにしても、単に外に出ることの危険を恐れて二の足を踏む者と、長年訓練された団体意識の結果として、自らを犠牲にしても指揮者と行動を共にしようと覚悟する者とがあった。  看護婦や兵が院外に出るときは、病院を脱走するという形になるので、勿論営門から堂々と出る訳にはいかず、病院の周囲を巡回するソ連衛兵の目を掠めて密かに出ることになる。万一これに遭遇すると自動小銃が情け容赦もなく火を吹くので、慎重の上にも慎重を期する必要があった。だから脱走を決意すると、まず一時院内の何処かに身を潜め、暗闇に乗じて鉄柵を越えるということになる。  それにはボイラー室が格好の隠れ家となり、ボイラー室の片隅の暗がりに、二日も三日も身を潜め、糞尿にまみれて時機到来を待ちわびるのが通例であった。そして食物の差し入れ、移り変わる院内外の状況の説明、巡回衛兵に対するさり気ない対応など、ボイラー室勤務者の腹の座った献身的な援助が必要であった。  私の周囲からも、何人かの戦友や軍属や看護婦達が去っていった。そして彼女らがあの危険極まりない混乱の最中で生活することが出来た陰には、既に街中に居た日本人や、当時としては数少ない親日中国人の助けが大きかった。特に自段街で戦前から幅広く経営していた日本旅館「大和」のおかみ寺田利子氏の男勝りの度胸と、包容力に救われた日本人男女は予想外に多かったのではないかと思う。  街では日毎に風が冷たくなるにつれて、生活はいっそう苦しくなっていった。だから、屈辱的だが安易な方法として、自らを二号三号婦人として売り込む道を選んだり、自分の子供を売ることにより、親と子双方の生命を維持することを考えたり、単純に子供を捨てて、その子が誰かに拾われること念じて、自分は身一つで生き延びようとする者が増えていった。  だからと云って当時の彼女等を責めることが出来るだろうか、みすみす手元でわが子を死なせるわけにはいかなかったのであ。  勿論中国の知人に子供を預けて生き別れた者もあったし、混乱の中で見失った子供もあったが、今はるばる中国から、故国を尋ねてやって来る孤児といわれる人々が、実の親に巡り合う割合が少ないのは、実はその辺に起因するところが多いのではなかろうか。  私は、幼児を売ることによって、両者の生命を全うしようと考えた哀れな親の心、そしてまた子供を死から守るために捨てざるを得なかった親としての心情を、今更ながら心に痛くわかるのである。  その頃私は自段街の救済会本部で母と二人で頑張っているという少年杉山君に会った。彼は十四歳だと言ったが、毎日牛乳配達に駆け回っていた。私は彼に病院にも来てみてはどうかとすすめた。病院の牛乳必要量は彼の一日分の働きよりもはるかに多いし、栄養源に乏しい病院としても願っても無いことであった。  しかし、彼は病院の衛兵の前を通るのが苦手であったらしい。あるとき折角持ち込んだ牛乳を全部衛兵に横取りされたと言うこともあった。早速憲兵隊司令部に申し入れて、「これは貴重な病人のための栄養源である。」と、訴えると、さすがにそれからは彼の通過は安全になった。  彼は私の所にくるとほっとした様に入り口の土間に座り、街の状況などを事細かに話してくれた。私は彼が来る度に病院の食事を提供したが、その後の、うとろうとろと居眠るさまは、まだ十四歳の童顔そのものであった。  彼は、「近くのおばさんが肺結核で寝ているので入院させて貰えないだろうか」と、大人じみた申し出をした。結核では無理だとは思ったが、その翌日彼と一緒にその病人を見舞った。あの寒気の中、物置小屋の片隅で莚の上に襤褸にくるまった姿には見るも無残な妖気がただよっていた。私は既に施す術が無いことを直感して、持参した万頭を枕元に置いて彼を促して外に出た。  病院はチブス患者で満杯だが、もし生きる可能性があるならば頼み込む手が無いでもない。とは思ったのだが、こうして医者に診られることもなく死んでいった人々が如何に多かったことかと思うのである。  さて、ここで街に出た多くの軍属や、看護婦や、兵らがお世話になった「大和旅館」について言及して見たいと思う。            中島よしの氏談  終戦後間もなく、突然大和旅館の女主人寺田利子さんが病院を訪れました。既にこの頃日本軍はその殆どがシベリアに送られた後でしたから、一応軍隊の形式を保つところというと、この病院くらいのものでした。彼女は経理主任の荒井五一郎氏に面会して次のことを提言しました。「まだ奥地には終戦を知らずに軍隊として集結している日本兵が沢山います。これらの方に終戦を知らせて無事に救出してあげたいのです。それには実情を理解させる説得能力のある人物が必要なのです。資金や機材は私が揃えますから協力して頂けないでしょうか」  しかし、病院としても多くの患者や同行した軍属、家族を抱え、一日もおろそかには出来ない状況であったから、他に適任の方が必ず居るはずだ。と、お断りせざるを得ませんでした。彼女もチブス患者に溢れた院内の状況を目の当たりに見て諦めたらしく、「何れ皆さんもシベリア送りになるでしょう、もしそれを逃れて街に出るようなことがあったら、是非私を訪ねて下さいね」と、言い残して帰って行きました。  実はこの一言が、後々ソ連軍に強制退去をさせられて病院を出た女子軍属や家族、更に脱走して街に出た看護婦や兵の、先ず最初の心のよりどころとなり、更にその後の想像も出来ない苦しくてつらい生活の、力強い後ろ盾となってくれたのである。  病院では食糧と共に主要薬品が底をつき、自活の道を模索せざるを得なかった。チブス患者は一向に減少の兆しを見せないし、患者の栄養状態の微妙なところが、其の侭生と死との分かれ道となっていった。  だから、豆もやしを作って僅かながらの栄養源とすると共に、街に持ち出して売ることも考えた。納豆も豆腐も作った。  薬局では、化学的手腕を発揮して水飴を作ったり、葡萄糖等薬品の試作も始めた。しかし、完成した薬品は、患者に与える前に自らが先ずテストしなければならなかった。たった今まで走り回っていた数人の看護婦や衛生兵が、あっという間に、真っ黒い血を吐いて死んだのは、その為の尊い犠牲でもあつた。  いよいよ院長以下病院の主力に移動命令が出され、加藤老大尉の指揮下に、中田中尉や若干の軍医や衛生兵と共に、看護婦や事務員等全ての女性を残して、ソ連監視下の収容所に移されることになった。  突然のことなので仕事を引き継ぐにも相手が居なかった。そんなとき、例の杉山少年が牛乳を運んできた。私はとっさに彼の衣服を脱がせ、新品の下着を二枚三枚と重ねて着させ、靴下も三枚重ねにして新品の軍靴を履かせた。よれよれの彼のシューバーを脱がせて、羊毛の深い将校用のシューバーを重ね着させ、その上から彼のよれよれのシューバーを引っ掛けた。  殊更話す間もなかったが、今日まで頼り切っていた彼の目を見るのもつらかった。「母さんと頑張れよ、早く帰らんと一緒に引っ張られるぞ」と、脅すと、彼は黒いかさかさの両手を出して私の右手をそっと握った。その黒いかさかさの両手には彼の万感がこもっていた。  いつか又又会うことがあるかも知れない、そして又二度と会うことは無いのかも知れない。私は彼をドアの外に突き出すようにして、ドアを閉めると大きく息を吸った。  指定の集結時間までには三十分もない。私は常々用意して置いたリュックを肩に引っ掛けると、院内を地下から順に一巡した。  各階に残された看護婦や残留の衛生兵が、みんな別れの手を差し伸べてくれた。私は殊更平気を装って「あとを頼むよ」と、意味の無い笑顔を作った。  営庭に出ると、既に出発する者の整列が行われていた。階級章と武器を持たない軍服姿の整列は、何か頼りなく、如何にも敗戦を象徴していた。  既に老齢の加藤大尉が曲がった腰のまま直立して、「留守隊長として職責を全うします」と、原院長に申告したが、その顔には軍人とは程遠い、農村出らしい好々爺の皺が深く刻み込まれていた。  斉々哈璽当時からの人事係飯島中尉の、この人らしい人の良さを、自らが打ち破ろうとするかのようなドスの利いた号令で出発した。  街道には民衆が溢れ、道の両側からかぶさるように覗き込んだ。その中には病院を脱走した兵の、黒い満衣をまとった姿も目についたが、せめて最期は日本人らしくと、長い隊列の一人一人が暗黙のうちに心を決めて、行進は整然と、哈璽浜街を寒さに向かって進んでいった。 (シベリアへの抑留、極寒の地での凍土と病いとの戦い。生き抜いた者達へ渡された 「帰国の途」という切符とは・・・チチハル陸軍病院経理勤務、そして終戦。ハルピン への移動・・・、病院開設・・・。傷病兵、難民で施設はあふれ、修羅場と化した。 「哀しき夕陽、原作 能瀬敏夫」) https://07nose.wixsite.com/bethesda-kashiwa
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六)哈璽浜もやがて冬「哀しき夕陽、原作 能瀬敏夫」より

2021-08-14 09:08:56 | 祈り
  六)哈璽浜もやがて冬「哀しき夕陽、原作 能瀬敏夫」より    更に一時間も経って、三人それぞれの絶望感は、厳しい寒さと共に一層現実的になっていった。 「これじゃあ、今夜一晩持たないぜ」兵隊からたたき上げの荒井さんだが、銀縁眼鏡のしたの細く冷たい目をしばたいた。  五十島がおしくらまんじゅうだと身体をぶつけてきた。それをそのまま荒井さんにぶつけると、「駄目だ、痛くて駄目だ」と、顔をしかめて手を上げた。私達の寒さはもう老いた彼には痛さなのだ、と思うと急に心細くなった。  「まあ、いつかは死ぬんだ、三人一緒もいいじゃないか」と、殊更強がりを見せる荒井さん、すると私に再び繁華街を行進したときのあの清々しい諦観のようなものが蘇ってきた。私は腹に力を入れて目をつむり、何かを思おうとした。そうだ家のことだ。親父の「ばんざーい」と言ったときの、あのごま塩混じりのひげ面、出征するときのお袋の言葉も無く絶句した顔、そして目隠しをした私の胸を円い空気が突き抜けるのを想像した。「しゃあないけど、さむいなぁ」と五十島。  私は急に尿意をもようして立ち上がった。煤けた裸電球が翳を落す。彫刻のような厠に向かって小便をすると、小便は彫刻の上から少し地べたに流れ、直ぐそのまま凍りついてしまった。  と、突然扉が荒々しく開いて、先ほどの憲兵の一人が「みんな出ろ」と、言うように手招きをする。三人が後ろに続いて出ると、直ぐ近くの事務所らしい所に入れられた。  既に隊長と、朝鮮人と一目で分かる通訳が待機していた。通訳はわざわざ本部から連れてこられたと不機嫌だったが、少々なまりながらも充分日本語が理解できた。  先ず私達が捕えられた理由として「ソ兵を利用した辻強盗だろう」と、言っているという。私は先ず「衛兵にいきさつを聞いてくれ」といった。通訳は衛兵に話しかけたがすぐ諦めて、「隊長の言った通り衛兵は、正しいロシヤ語がまるで分からない、だからお前等と行動を共にしたその理由が分からないのだ」「ただ、銃には発砲した形跡が無いし、お前等と一緒に行動をするように命ぜられた」とは言っている。  そこで私らははっと気がついた。「実は我々は国際赤十字社に加盟している陸軍病院の勤務者である。既に一千人以上の患者を抱えて困っている。その食料確保のため特に衛兵を借りて街に出たのだ」と、説明する。  そこでふと、我々が軍服の上に着ている黒いよれよれの擬装用の満人服に気がついた。荒井さんが慌てて満人服の上衣を脱ごうとし たので黒いボタンがぱらぱらと散った。カーキ色の軍服の左腕に、鮮やかな白地に赤い赤十字のマークが見えた。  通訳が説明する前に隊長が、なぁんだ、といった顔をした。私も急に生気が蘇って満人服を脱ぎ捨てた。五十島も突き出すように左腕を出した。  荒井さんは通訳を通じて、私等は毎日生死をさまよう病人のために市中を歩いて食糧を集めている。是非とも協力して頂きたい、と協力を依頼した。  隊長は「ハラショッ」と首をすくめて両手を挙げた。要するにこれで全てが終わったのだ。「もう帰れ」そして衛兵が他の憲兵に連れてこられ、更に隊長に厳しい注意を受けていたが、それも大部分が理解出来ないらしく、頭だけ中途半端に下げて全てが終わった。  私達は晴れて外に出た。松花江から吹き寄せる地吹雪が、ぱぁっと顔面を襲ったが、銃を取り戻した衛兵と共に、なるべく早くこの場を離れようと足を速めた。  途中で衛兵に「約束だから中華料理を食べようか」と、ニヤニヤしながら言うと、「ニェット、ダモイ」「いや帰る」と言う。  馬車に乗り帰途についた。長いシューバーの襟を立てた御者のチョーっという風を切った鋭い声と共に、急に馬車は走り出した。  私は何か衛兵が可哀相になり、ポケットにありったけのひまわりの種をつかむと、彼の外套のポケットに入れてやった。彼はにやりと黄色い歯で好意を見せた。それはソ連と言う広大な国の中の矛盾を見せてしまった照れの笑いの様でもあった。  既に暗くなった哈璽浜の街を、馬車は威勢良く風を切って走った。  病院に着くと同僚や看護婦達が玄関口まで出てきて待っていた。衛兵所も同様で、一斉に彼を囲んで矢継ぎ早に何かを聞いていたが、急にげらげらと彼の頭をもみくちゃにして笑った。  院内はほっとするほど暖かかった。私ら三人は互いに手を握り合って今日も生きた、と心から思った。  真冬が近くなると病院としても、一人でも多くの人を減らすことを考えなければならなかった。ところが患者は減るどころか、チブスの猛威は一層激しいものになっていった。死を想定した患者は別室に集めて、新たな患者を入れなければならなかった。  死出のための特別室に入れられた患者は、大部分が脳を侵され、或いは意識もうろうとして何の手立てもなく、凍えるような寒さの中に放置され、時の流れに身を任せていた。  死亡が確認されるとその瞬間、遺髪や小指を保管して姓名を確認するのが精一杯であった。ときどき看護婦が来て動かなくなった患者の頬をたたき、瞼を開いて死の確認をした。  昼食のとき少し遅れて入ってきた佐々木が入り口の洗面所で手を洗い、食卓の前に来て ポケットのハンカチを引き出した。と、食卓にころころとソーセージのようなものが転げてきた。私が箸で摘まもうとすると彼は慌ててそれを拾ってポケットに治めたが、彼がたった今看取ったばかりの患者の小指であった。  病院関係者以外は病院を去れ、と、これはソ連側からの要求であったが、病院を維持する我々としても、出来れば一人でも人員の減ることが望ましかった。  ところがこの数ヶ月間、互いに生活を共にするうちに何故か離れがたい連帯感のようなものが芽生えていった。  そんな中でもある者は密かに街に出て、自分の安住の場所を求めていた。  最初にその行動を開始したのは、開拓団出身の地元に詳しい青年か、現地召集の予備兵の連中であった。病院の使用人であった朝鮮人や満人と連絡をとって身を隠した者もあった。  やがて、もっとはっきり看護婦又は患者以外の女性は院外に去れ、と、ソ連側の要求があった。  軍司令部の事務員としてはるばる日本から単身赴任した女性数十人、その仲には哈璽浜に到着以来、私の仕事を助けて手足のように働いてくれた多くの女性がいた。  軍人軍属の家族にしても、健康なものは何時までもここに居るわけにはいかなかった。 夫々が夫々の方法で外部との連絡をとり、病院を離れる宿命にあった。  衛生兵がさきに出て、何処かに居所を見つけると何名かを呼び寄せる、ということもあった。  又、そのような日本人を献身的に助ける在留の日本人や、かつて日本人の恩恵を受けた満人の助けが意外に多かったことも見逃せない事実であった。  そのようにみるみる彼女等の姿は、この病院から消えていった。そしてこの病院を去った彼女等の全く未知なたどたどしい生活が、否応なしに始められたのである。  辛うじて住を得た者は、食のために働かなければならない。当時極めて安給料だった地元の巡査等が、日本女性をメードにすることは二度とありえない誇りであった。だから彼女等にしても安易な労働は女中として働くことであった。しかし、それにはそれなりの危険もあった。雑用の積りで雇用された彼女等が、途中で金も取らずに逃げ帰ることもしばしばであった。  あるいは、在住の日本人の中には最初から第二、第三夫人として性を対象に住み込む者もあった。勿論そんなことが出来るのは街でも有数の富豪なので、彼女等は比較的優遇され、金糸銀糸の中国服に身を飾ってマーチョに揺られる姿が目についた。みんなに軽蔑されながら富裕な道を選ぶべきか、惨めだが真摯に自分の道を夢中になって進むべきか、実は判断に苦しむところであった。  一方豆腐屋などの下請けとして、豆腐の卸を受け、それを何名かに分けて売り捌く方法もあった。何れもそんな場合は男勝りの気骨のあるリーダーが必要であった。  街角の屋台に日本人によるおでん屋が出来た。ところが店の前には二重三重に人の群れが出来てしまい、彼らは一様にこの日本女性の一挙手一頭足を猥らな目で追い続けた。次の日に通ったときは既にこの店は無かったから、やはりリーダーが危険を感じて閉鎖したのに違いない。  しかし、その頃になると売り食いも限界なので、当然街で働く女性も多くなり彼女等の必死の思いが見よう見真似で商売を成り立たせているようであった。  靴を磨くのは比較的若奥さんや娘だが、片言のロシヤ語で「スパシーボ」等と笑みを返すと、その笑みを求めて若いソ兵のどでかい靴がどさりと突き出される。  通りすがりに、「どうですか 」 と声を掛けると、最近病院を出てばかりの参謀の奥さんは、ひまわりの種を駅弁売りのように前に抱えて、「この頃漸く声が出るようになりました」と、さびしく笑っていた。厳しく寒い二月の石畳の上であった。 (シベリアへの抑留、極寒の地での凍土と病いとの戦い。生き抜いた者達へ渡された 「帰国の途」という切符とは・・・チチハル陸軍病院経理勤務、そして終戦。ハルピン への移動・・・、病院開設・・・。傷病兵、難民で施設はあふれ、修羅場と化した。 「哀しき夕陽、原作 能瀬敏夫」) https://07nose.wixsite.com/bethesda-kashiwa
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