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「文芸と道徳」 夏目漱石

2014年06月01日 | 読書

文芸と道徳

【明治期の文学者、夏目漱石の講演筆記。大阪朝日新聞社の依頼で関西・中国地方でおこなわれた連続講演会の最終四番目のもの。本文はじめに「1911(明治44)年8月大阪において述」とある。文芸と道徳とには密接な関係がある。ありのままの本当をありのままに書く正直という美徳があればそれが自然と芸術的になり、その芸術的の筆がまた自然善い環化を人に与える」という自然主義的道徳の必要性を説く。文明批判であるともに当時の社会批判でもある。】(Amazon)

無料で読める青空文庫(kindle)、侮れません。古くても今に通ずるいい作品がいっぱいです。
講演記録の4つめ。勉強になるなあ 


>完全な模型を標榜して、それに達し得る念力をもって修養の功を積むべく余儀なくされたのが昔の徳育

>個人の過失に対しては非常に厳格な態度をもって・・・少しの過ちがあっても許さない・・・

>つまり人間はどう教育したって不完全なものであると云うことに気がつかなかった。不完全なのは、我々の心掛けが至らぬからの横着に起因するのだからして、もう少し修養して黒砂糖を白砂糖に精製するような具合に向上しなければならんという考で一生懸命に努力したのである。
(未だにこんな考えの人、いるなあ^^;)

理想に向かって向上しようと努力をするのはいいけれど、その”理想”が人からの押しつけであってはいけないし、向上しようと自ら努力することが大事なのであって、その結果は他人から評価されるものではない。

不完全だから努力するのであり、不完全であることは非難されることではない。当たり前のこと。
努力することで、自分(結果的にはつながっているみんなも)が幸福へと近づくから努力するのであり、それは自発的なものである。・・・と私も思いますです、はい。

>同じ行為に対する見方が違う・・・たとい道徳的批判を下すべき分子が混入してくる事件についても、これを徳義的に解釈しないで、徳義とはまるで関係のない滑稽と見ることもできる

たとえば、大事な講演でしゃべっている最中に大きな”屁”をこいたとして、不謹慎だと怒る人もいれば笑う人もいる、と。夏目先生のユーモア。分かりやすいね。(笑える人でありたい^^)

浪漫主義と自然主義についての話

>普通一般の人間は平生何も事のない時に、たいてい浪漫派でありながら、いざとなると十人が十人までみな自然主義に変ずるという事実・・・傍観者である間は、他に対する道義上の要求がずいぶんと高い

自分は立派な優れて偉い人間だと思っているのでしょうね。自我に執着するというのは結局思い上がり。
では、実際に立場が変わった時、人に要求(お願いではない)するだけのことが自分にできるかどうか。

>実行者は自然派で批評家は浪漫派だと申したい

>うぬぼれの面を剥ぎ取って真直な腰を低くするのはむしろそういう文学の影響と言わなければなりません。もし自然派の作物でありながらこういう健全な目的を達することができなければ、それこそ作物自身が悪いのである・・・・悪いという意味は作物が出来損なっているのです、どこか欠点があると云うのです

>ありのままの本当をありのままに書く正直という美徳があればそれが自然と芸術的になり、その芸術的の筆が自然善い感化を人に与える

実現のできる程度の理想を懐いて、ここに未来の隣人同胞との調和を求め、また従来の弱点を寛容する同情心を持して現在の個人に対する接触面の融合剤とするような心掛ーーーこれが大切だろうと思われるのです。

>我々人間としてこの世に存在する以上どうもがいても道徳を離れて倫理界の外に超然と生息するわけには行かない。

 

夏目先生は自然派であり、道徳を大事にしているのですね。
ということを知って、また夏目先生の作品を読んでみたいと思いました。

星4つ 

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