露堅牢

2020-09-30 | Weblog


美味しいものは体に悪い




というテーゼには一理あると思います。




私は"一理"を5%〜50%前後くらいの幅で解釈してますので大丈夫なのですが、それを「ほぼ100%」と解釈する人からすると「そんなわけない」となります。


この状態だと"話にならない"わけです。


こいつは物分かりが悪い、馬鹿だ


という話にならないではなくそのままの意味の話にならない。

スタートラインにも立ってない状態で、それを認識してない場合はある意味馬鹿よりタチが悪いかもしれません。


だって話してる内容が違うんですもん。


同じ都市のことだと思ってお互いに東京と京都の話をしてる状態


良い悪いですらないわけ。


定義、目的の共通認識が成立して初めてスタートラインですよ。
(どこまでいっても共通認識には限界はありますけども哲学的に。逆にどこまでかいけば大丈夫という話もありますね哲学的に。そんなもんです。)



食べ物の話に少し戻ると


「これは絶対に駄目」ってのはこの日本にもはや"そうそう"無いだろうと思います。


量と頻度


"何を"ってのはあまり関係なく"同じもの高頻度で"ってのが良くないのかなと。

さらにその量も多ければ多いほどダメかなと。



私は同じものを大量に高頻度で食べるクセがありますが「馬鹿の食事だな」って思いますもん食べてて。はい。



で、良くないことってなんぞやってのが本質で



それが分からなければ大量も高頻度も定義できません。



やはり大事なのは"目的"で


その達成のための良し悪しですから、一挙手一投足が。



そしてこれまで何回も述べてますが、私的に健康と環境はもはや宗教ですので、行き着く所は「なにを信じるのか」になります。


だから一定以上のテンションで他人様に良し悪しを言うことではないのですが、言ってる側からすれば一定以下のテンションだし相手のことを想っての発言だという認識なので、話を聞いても「はぁ…そうなんですね…」というリアクションになることもそれなりにあるわけです。


99%以上の人はそれを分かってますので節度がありますけど。


もちろん一定以上のテンションで聞く耳持たないってことも同じ理由存在します。



"宗教"を基本的に"カルト"という意味で使う人もいますが(一理あるけど)、私は"そーゆー構造"という意味で使うことがほとんどです。
良し悪しでなくそーゆー構造だと。



そーゆーってどういう?ってことですが"自分で計算したわけではない答えを根拠とする行動"です。


計算した結果の行動はそーゆー行動とは別になりまして、計算には"経験"も入れていいのですが、そこには回数なり濃さなりの条件は必要かなと思います。


そしてほとんどの場合に人間の行動はそーゆー構造です。

特に目的設定とか目的に近いあたりでは。



そこまで意識せずとも動ける日々のことは経験に裏付けされてることのが多いかもしれません。手段そのものとかはこっち寄りかな。




人間って0か100ってのはあまりなくて(生死くらいじゃない?)、ほとんどのことがそれの何%か、そして何%と何%が合わさってこの何%、さらにそれが別の何%と合わさって…∞ というのの集合体個人なので、だから面白かったりもするわけで


確率からするとオリジナリティなんてイヤでも出るはずです。

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