心の動

2015-06-24 | Weblog

「死んだら終わり」ってのは生きてる人のエゴ意見なわけで。
いや、そりゃそうだろう。その正体は’終わった感’ってことで、それは生きてる人の話よ。
つまり自殺者を止めるときの文句は「あんたの不快さは実感としては知らんけど、俺がイヤな気分になるからやめてくれない?」しかありません。

とりあえず邪魔な死に方はよくないですよね。
大抵の人がそれは考えてるんでしょうが、しかし小抵の人間は世間に恨み妬みを持っての決断だろうから、最後くらいは一花咲かせたい、存在の大きさを知らしめたいという想いがあるのかもしれないというのは想像に難くないです。

まぁ、自殺にしろ殺人にしろ、絶対に(かどうか知りませんが)通常の精神状態じゃないわけですから外野からなんやかんや言ってもそれはまた別のエゴ主張ですわな。
エゴ主張ってのはもちろん自然行為なので善し悪しではないです。


それは人間の行動原理の話になります。

つまりは私の考察対象。


行動原理と言えば、ときに行動「理由」のが正しそうですが、原理の方がかっこいいので行動原理だ。

で、と言えば「どのツラ下げてやってんだ」となることです。



そうそう、自殺者年間約3万人のうち喫煙者は200人との噂です。
おぉなるほど。



ここでスジとしては殺人・殺人未遂者のうち何人が喫煙者かも出したほうがいいですよね。
捕まってる人は年間どんくらいでしょう。4、5000人?


こういうフェアな行為が議論を面白くするわけです。



さて、外部への発信のなんでも、すべて、基本的にはタイムラグがあるやつ、音、文章、画像、映像、絵、彫刻etc に接してるとき「どのツラ下げてこれやってんだ」と自然にそこも込みで僕の評価対象になります。

うーん、偉そう。

べつにゲージュツじゃなくとも。
というか基本はゲージュツじゃないわけ。
だって行動原理ですから。いや、それだと語弊あるか。ま、いっか。

どのツラ下げてこれやってんだと僕が思うのは僕にとって全然悪い感情ではありません。そのものは。
自然というか当たり前。
何するにもどのツラかは下げてやってんですから。

問題はどんなツラか(俺にとってな)
顔が見えないことが大事です。
だから「演技」はそこのみの意味ではそうならんのな。


ありきたり代表の例えを出すと、葬式の写真撮ってるときのツラとそれに文章添えてるときのツラや「投稿する」ボタンを押すときのツラを想像すると、それはもう夏に最適な話になりますよね。

怪談レベル

いや、ただ単に気持ち悪いだけか。
(正直ね、友達の結婚式もあんまり変わらないですが)


なんにしろ発信物に対して、そこを込みでフムとなれるのがいいもんだ。
重要なのは、実際のことなど知らんということです。
実際なんてものは重要ではなく、どう思えるかということ。

こいつ分かってるな(ニヤリ)ってことじゃなく。
それはまた別の楽しみ方。



まとめると「どのツラ下げって」ってのは「この人はどういう欲動の名の下にこの行動をしたのか」ということで、それに賛成あるいは不快じゃなく思えるものに接していけたら平和だなと思います。


だいたいこのブログ書いてるときどんな顔してると思ってたんだということですよ。
というか誰が書いてんだってことですよ。
ちなみに書いてんの俺じゃないですからね。


いや、わかりにくいな

もっと分かりやすく簡単にまとめると


おっぱい
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ウェールズと渋谷新宿 | トップ | ハリルホジッチ »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事