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小説の「書き出し」

明治~昭和・平成の作家別書き出し
古典を追加致しました

「氷壁」 井上靖

2010-03-20 20:32:18 | 作家イ
 魚津恭太は、列車がもうすぐ新宿駅の構内へはいろうという時眼を覚ました。周囲の乗客はみな席から立ち上がって、たなの荷物を降ろしたり、合オーバーを着込んだりしている。松本でこの列車に乗り込むと、魚津はすぐ寝込んでしまい、途中二三回眼を覚ましたが、あとはほとんどここまで眠りづめであった。
 時計を見ると八時三十七分、あと二分で新宿へ着 く。魚津は大きい伸びをして、セーターの上に羽織っているジャンバーのポケットに手を突込むと、ピースの箱を取り出し、一本くわえ、窓の方へ眼をやった。おびただしいネオンサインが明滅し、新宿の空は赤くただれている。いつも山から帰って来て、東京の夜景を眼にした時感ずる戸惑いに似た気持ちが、この時また魚津の心をとらえた。暫く山の静けさの中に浸っていた精神が、再び都会の喧騒(けんそう)の中に引き戻される時 の、それはいわば一種の身もだえのようなものだ。ただそれが今日は特にひどかった。