goo blog サービス終了のお知らせ 

小説の「書き出し」

明治~昭和・平成の作家別書き出し
古典を追加致しました

「トロッコ」 芥川龍之介

2010-03-20 18:30:04 | 作家ア
【「トロッコ」 芥川龍之介】
 小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平が毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事を――といった所が、唯トロッコで土を運搬する――それが面白さに見に行ったのである。
 トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇(たたず)んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走って来る。煽るように車台が動いたり、土工の袢纏(はんてん)の裾がひらついたり、細い線路がしなったり――良平はそんなけしきを眺めながら、土工になりたいと思う事がある。せめては一度でも土工と一しょに、トロッコへ乗りたいと思う事もある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然と其処に止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早い か、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押す事さえ出来たらと思うのである。

【「河童」 芥川龍之介】
    序
 これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしゃべる話である。彼はもう三十を越しているであろう。が、一見した所は如何にも若々しい狂人であ る。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでも善い。彼は唯じっと両膝をかかえ、時々窓の外へ目をやりながら、(鉄格子をはめた窓の外には枯れ葉さえ見えない樫の木が一本、雪曇りの空に枝を張っていた)院長のS博士や僕を相手に長々とこの話をしゃべりつづけた。尤(もっと)も身ぶりはしなかった訳ではない。彼はたとえば「驚いた」と言う時には急に顔をのけ反らせたりした。……
 僕はこう云う彼の話を可なり正確に写したつもりである。若し又誰か僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、東京市外××村のS精神病院を尋ねて見るが善い。年よりも若い第二十三号はまず丁寧に頭を下 げ、蒲団のない椅子を指さすであろう。それから憂鬱な微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであろう。
・・・
    一
 三年前の夏のことです。僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地の温泉宿から穂高岳へ登ろうとしました。穂高岳へ登るのには御承知の通り梓川(あずさがわ)を遡る外はありません。僕は前に穂高岳は勿論、槍ヶ岳にも登っていましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつれずに登って行きました。朝霧の下りた梓川の谷を――しかしその霧はいつまでたっても晴れる景色は見えません。のみならず反(かえ)って深くなるので す。僕は一時間ばかり歩いた後、一度は上高地の温泉宿へ引き返すことにしようかと思いました。けれども上高地へ引き返すにしても、兎に角霧の晴れるのを待った上にしなければなりません。と云って霧は一刻毎にずんずん深くなるばかりなのです。「ええ、一(いつ)そ登ってしまえ」――僕はこう考えましたから、梓川の谷を離れないように熊笹の中を分けて行きました。
 しかし僕の目を遮(さえぎ)るものはやはり深い霧ばかりで す。尤も時々霧の中から太い毛生欅(ぶな)や樅(もみ)の枝が青あおと葉を垂らしたのも見えなかった訣(わけ)ではありません。