鮎川玲治の閑話休題。

趣味人と書いてオタクと読む鮎川が自分の好きな歴史や軍事やサブカルチャーなどに関してあれこれ下らない事を書き綴ります。

ある断絶者の肖像/2010・日本

2010-04-26 23:11:17 | 日記
昨日録画しておいたNHK教育の「日曜美術館」再放送を見ました。
タイトルは「20世紀との対話(ダイアローグ)~森村泰昌の創作現場~」。
さまざまな名画の人物や歴史上の偉人に扮して写真を撮る「セルフ・ポートレート」という手法で作品を作っている人物だそうですが、少なくとも私は細かいことは知りません。
氏の作る作品はどれも、作品を作る上での故意的な改変点は別として非常に実物に似ています。チェ・ゲバラにしろアインシュタインにしろ。まあ番組冒頭に出てきた毛沢東の肖像は少々微妙でしたが…。
しかしなんとも違和感を抱いたのは1945年の昭和天皇・マッカーサー会談の写真を模した作品です。作品そのものにではなくそれを作成した森村氏自身に、ですが。
昭和天皇に扮するというのもまずそれだけで少々不遜な点があるとは思いますが、それ以上にこの場面を選択して作品に仕立てるというその感性。氏は51年生まれであり戦後民主主義を一身に受けて育ってきた世代だと思いますが、やはりそのあたりも大きく影響しているのでしょうか。私は天皇陛下という存在はその目的が高尚なものであれ低俗なものであれこのような作品として一種のパロディ化するには不適当な方であると思いますし、それはある程度の年代以上の方ならば誰もがそう思うはずのことであると思います。戦後民主主義絶対視的な教育から生まれてきた世代間の断絶とでも言うのでしょうか。
森村氏はこの写真に、あるいはこの歴史上の場面に幸福な結婚の相を見ると言います。この時日本とアメリカが結婚した、そして今の日本が生まれたのだと。
残念ながらあまりに浅薄な考えと言わざるを得ません。三浦朱門氏と西尾幹二氏の対談集に「犯したアメリカ 愛した日本」というタイトルのものがありますが、この本のことを強く思い出させる表現です。
氏の言葉は現在の日本が幸福であることを前提としたものとして受け取れます。しかし今の日本社会が幸福なものであるかといえば必ずしもそうはいえないのではないでしょうか。あの戦争の結果がどうであれ日本は同じような道をたどっていたかもしれませんが、またそれと同時に多くの選択肢を持っていたはずです。それを敗戦によってひとつの道に、すなわちアメリカの志向する方向性を有した資本主義社会へと進まざるを得なくなったことは決して幸福なことではないでしょう。アメリカが日本で行ったことは、そのイデオロギーを他国の根幹に据えて再建させたという点においてソヴィエトが東欧諸国で行ったこととなんら違いは無いのです。
そういった観点から見て、あの場面、すなわち昭和天皇・マッカーサー会談は日本の新生の場ではなくあくまでもそれまでの日本という国家の精神的断絶の場ではなかったか、と私は考えます。自己に関わりの深い誕生の場面であると考える森村氏とは絶対的に相容れない考えでしょう。