鮎川玲治の閑話休題。

趣味人と書いてオタクと読む鮎川が自分の好きな歴史や軍事やサブカルチャーなどに関してあれこれ下らない事を書き綴ります。

東條英機とペットな関係、あとミャックスとかシュークリームとか。

2020-03-07 19:55:18 | 歴史
はい、お久しぶりです。
いつの間にか令和2年になっちゃいましたね。新型コロナとか流行ってますけど皆さんお元気ですか。

私も一応匿名で質問を受け取れる例の「質問箱」というのを開設してまして、
まああんまり頻繁にはチェックしていないんですが、
この間久しぶりに開いたら去年の末にこんな質問を頂いておりました。



ふむ、どれも中々面白いですし、かつ短い文章ではお答えしづらい部分のある質問です。
という訳で、掟破りかもしれませんがこちら、ブログの方でお答えさせていただくこととしましょう。
ご回答が遅くなってしまった点については大変申し訳ありませんでした。


1.東條英機はシャム猫を友人からもらって可愛がっていた

一見強面の「カミソリ東條」が実は猫を可愛がっていた、というのはギャップの強さからか面白いエピソードとしていろんなところで言及されています。
平岩米吉『猫の歴史と奇話』(築地書館、1992年新装版)では、次のように言及されています。

「また東条英機が、昭和十六年ごろ、知人から贈られたシャム猫(当時は泰国猫)を飼ってから、たいへんな猫好きになったというのも面白い。
しかし、強気一徹の彼が、猫などに心を惹かれるというのは、いささかきまりが悪かったとみえ、表面は無関心を装いながらも、多忙な官邸の出入りに、
一々、猫の様子を家人にたずね、食物や飲み水にいたるまで、こまかい注意を与えていたという。東条英機は今日のシャム猫流行の先駆者だったのである」(213頁)

東條家がある時期から猫を飼っていたこと、東條英機が家人に猫の食物などに注意を与えていたということについては、
東條勝子夫人の証言(「東條勝子夫人の追憶(談)」上法快男編『東條英機』東條英機刊行会、芙蓉書房、1974年)にもあります。

「趣味と言えるかどうか、英機は犬を好いておりました。
猫は"猫かぶり"等の言葉から気に食わぬと申して嫌っていたようですが、子供達の要望でその嫌いな猫をかうことになりましたら、
かえって『猫にめしはもうやったか、犬はいつもいるから忘れないだろうが、猫にも忘れぬ様にしろよ』と申すようになりました」(690頁)

この証言によれば、東條家で猫を飼うことになったのは「子供達の要望」を受けてのことだったようです。
知人からシャム猫を贈るという話が出て子供達がそれに賛成したのか、子供達が猫を飼いたいといったので知人から猫を貰ってきたのかは分かりません
(この辺りは東條家の人々が書いた本を読めば何かしら載っているかもしれませんが)。

蛇足ながら、著名な軍人のうち、猫を飼っていたことが明らかな人物として斎藤実がいます。
『東京朝日新聞』1911年5月11日付7面の「現代犬猫列伝 海軍大臣の愛猫」によれば、練習艦隊がタイ(当時のシャム)に帰港した際に土産として二匹を持ち帰ったもので、
夫人が喜んで名前を考えたもののあまりいいものが思いつかず「ジロ」「キチ」という平凡な名前にしたとのこと。
斎藤は1936年に二・二六事件で殺害されますが、この当時も「ミイ」という猫を飼っていたようです(樋口正文編『斎藤実追想録』斎藤実元子爵銅像復元会、1963年)。


2.フランスのモーという地名をミャックスといって、それがあだ名になった。

東條英機の「ミャックス」というあだ名については、佐藤賢了『東條英機と太平洋戰争』(文藝春秋新社、1960年)の冒頭で言及されています。
ちなみにこの本は表紙などでは旧字体が使われていますが、本文扉では「東条英機と太平洋戦争」と新字体になっており、本文でも「東条」の表記が用いられています。

「ミヤックスというのは、戦史教官東条英機中佐のアダ名であった。そして私が、東条さんを知ったのも、この陸軍大学校時代である。
東条中佐は、三年学生のわれわれに、欧洲戦史の講義をしていた。東条さんは、学生時代ドイツ語をまなんだが、フランス語はやらなかった。
それで、フランスの地名もすべてドイツ読みをした。MEAUX(モー)をミヤックスと発音するのである。しかも、その地名が講義中何回となく出てくる。
そのたびに学生はクスクスと笑った。が、いくら笑われても平気で、とうとうそれで押し通した。それ以来、学生はこれを東条教官のアダ名として奉ったのである」(9-10頁)

同様のエピソードは、1925年に同じく陸大の三年学生として東條に接した稲田正純の証言(「稲田正純の証言」上法快男編『東條英機』東條英機刊行会、芙蓉書房、1974年)にもあります。

「頑固な一例をあげれば、地名一切をドイツ語読みで押し通し、それが東條さんの仇名になっていた。
Saint Quentin(サン・カンタン)をセントクエンチン、Meaux(モー)をメアウツクスはまだしも、
有名なシャンパン酒の生産中枢Reims(ランス)をレイムスと読み上げて、学生が笑おうが一切知らん顔の半兵衛なのであった」(635頁)

まあ、東條は漢字についても誤読を平気でやっていたという西浦進の証言(西浦進『昭和陸軍秘録』日本経済新聞出版社、2014年。なおこの元となった速記録では「百姓読み」とされていた模様)もありますし、その辺は気にしない人だったんでしょう。


3.東條英機はシュークリームが好きだった。

これについては、大森洋平『考証要集 秘伝! NHK時代考証資料』(文春文庫、2013年。私はKindle本で買ったので頁数を示せません、すみません)の「好物」の項目に
「⑤東條英機:シュークリーム(吉松安弘『東條英機暗殺の夏』新潮社)」とあるのが確認できますが、吉松の本を私がどこかにやってしまったために現時点ではそれ以上のことは分かりません。
確認でき次第追記します。

土屋道雄『人間東條英機』(育誠社、1967年)によれば、「東條は甘いものが好きで酸いものは嫌ひであつた」(201頁)そうで、
「里芋、さつまいも、甘栗、鰻の小串、秋刀魚の塩焼などを好んで食べた。また、すき焼や柳川鍋が好きだつた。漬物類は、奈良漬以外は滅多に口にしなかつた」(202頁)といいます。

また、シュークリームが戦前においてどの程度認知されていたかという点については、『朝日新聞』のデータベースが参考になるでしょう。
「シュークリーム」で検索すると、1924年2月に中牟田子爵家でシュークリームを食べた一家四人が付着していた緑青による中毒を起こしたという事件が報道されており(「菓子中毒は緑青から シユークリーム騒ぎの原因」『東京朝日新聞』1924年2月15日付朝刊7面)、同年4月にも小学校教員の一家がシュークリームで中毒になったという記事が掲載されています(「またシユークリームで教員一家が中毒 二日にたべて未だ臥てゐる」『東京朝日新聞』1924年4月5日付夕刊2面)。
戦前のシュークリームに関する記事はどうにもこうした中毒関連の記事が多いのですが、数を見てみると1912年に1件、1924年に6件、1925年に4件、1926年に8件(うち1件は広告)、1930年、1931年、1932年に各1件ずつ、1935年に2件、1938年、1939年、1940年、1941年に各1件ずつの「シュークリーム」の文言を含む記事が掲載されています。少なくとも、昭和戦前期において誰も聞いたことがないようなハイカラなお菓子、というような存在ではなかったようです。



値段については、1926年2月18日付『東京朝日新聞』夕刊2面に掲載された、日本橋白木屋の広告が参考になります。1つで6銭、10個の箱入りで60銭なのは安売り特価で、通常は「市価一個八銭」だったようです。