鮎川玲治の閑話休題。

趣味人と書いてオタクと読む鮎川が自分の好きな歴史や軍事やサブカルチャーなどに関してあれこれ下らない事を書き綴ります。

アニメ「艦これ」第三話につき感想。

2015-01-23 07:16:45 | アニメ

如月よ安らかに眠れ。過ちは繰り返しませぬから。


先日放送されて以来様々に論争を巻き起こしているアニメ「艦これ」の第三話ですが、私も昨日(正確には今日ですが)テレ玉での放送を視聴しました。普段は余りこういう形でアニメ各話の感想をまとめるということはしないのですが、今回に限っては少し書かせていただきたいと思います。

前提といたしまして、私は2013年5月5日にゲームの艦これを始めました。ゲームの運営が始まったのは同年の4月23日なので、まあ提督としては古参の部類を名乗っても許されるのでしょう。しかしながらログインに1ヶ月以上間を空けることもありましたし、2-4突破が2014年の6月20日だったり、そもそも未だに3-2未出撃だったりするので艦これ全般に関する知識はアニメでのご新規さんとあまり変わらないと思います。実際、如月の立ち絵がどんなのだったか今回のアニメまで忘れてましたし。

で、本題。
そういうほぼまっさらな状態でアニメ「艦これ」第三話を見た腹蔵ない感想としては、

「なんかいきなり取り上げられたモブがその話のうちに沈んだ」

です。これまで如月はモブ的に登場してはいたようですが(自分で確認してはいませんがそういうことを聞いたので)、別段話の内容には絡んできませんでした。しかしながら今回の話の冒頭で如月が登場して以来、突如として睦月は如月への想いを語り始め、木陰で吹雪と睦月を見守る様子がフォーカスされ、更には睦月によって「この作戦が終わったら話したいことがあるんだ」とご丁寧なフラグまで立てられてしまいます。
また今回の話では、赤城によって「艦娘はいつ沈むとも知れない存在である」ということが語られます。これもまた一種の死亡フラグではありますが、これに限って言えば如月に限らず吹雪を含めた艦娘全体に言える事でしょう。つまり、「艦娘は轟沈する」という前提の共有に関する部分であると言えます。

その辺を踏まえた上で総括しますと、この第三話は「如月轟沈のために作られた回」です。轟沈回です。しかも余り出来がよくありません。
何故そのように評価するかというと、如月の轟沈に至るまでの描かれ方が極めて中途半端だからです。

Twitterなどを見ると、この如月轟沈についての意見は大体以下のようになります。
まず、「艦娘の轟沈自体を許容しない」意見と「轟沈そのものについては許容する」意見。
また轟沈自体を許容する意見も、「轟沈に至るまでの過程が雑すぎる」という意見と、「雑であることにこそ意味がある」という意見に大別できます。
後者の意見については、「戦場であっさり死ぬことにこそリアルがある」「戦場における無意味な死は日常茶飯事」という理由が多く見られるようです。また、「史実でも駆逐艦如月はウェーク島で沈んでいるのでそれを忠実に再現しただけ」との意見も見られました。

私としては、艦娘の轟沈自体はそこまで問題視することではないように思います。原作となったゲームにも轟沈システムがある以上、それをアニメで描いたとしてもそれ自体が悪いこととは言えないでしょう。
ただ、轟沈を許容するにしても「戦場のリアル」論には今ひとつ賛同しかねます。というのも、この第三話において、如月の轟沈がそこまであっさりと無意味に描かれているとは考え辛いからです。あれだけ第三話の中で盛大にフラグを立てているということは、換言すれば如月の轟沈について何らかの物語性を演出しようとしているからです。確かに轟沈描写自体は敵航空機の爆撃によるあっさりしたものでしたが、その轟沈には睦月との「この作戦が終わったら」という約束や、赤城の「明日会えなくなるかもしれない」という台詞から演出される物語性が付与されているのです。ただ、その物語性の付与があんまりにもとってつけたように行われているので、視聴者の側としてはひたすらに戸惑う他無いのです。

あれだけ死亡フラグを立てておいて、如月の死を「戦場における一駆逐艦の無意味な轟沈というリアルさ」だなどとはとても言えません。かと言って、そこに付与される物語性を視聴者がきっちりと咀嚼する余裕があったかといえばそんなことはまったく無いわけです。轟沈回でいきなり睦月が如月如月言い出しても、前提となる知識が無い新規の視聴者にとっては「如月の轟沈に意味を与えるためにとってつけた設定」にしか見えないのです。

では、「史実に忠実な再現」という意見はどうでしょうか?
私はこれにも賛同しません。それは、アニメ「艦これ」には以下のような設定があるからです。

  広大なる海に突如として蹂躙する謎の脅威「深海棲艦」が出現し、人類は制海権を失ってしまう
  それに対抗できるのは在りし日の艦艇の魂を持つ者達、「艦娘」だけであった。


特に下線部に注目していただきたいのですが、史実というのなら「人類が制海権を失った」史実などありません。また、「在りし日の艦艇の魂を持つ」という部分からは、アニメ「艦これ」の世界においては艦娘と歴史上の艦艇が完全なイコールではないということが読み取れます。
そもそも、史実という点で言うなら第三話に登場する「W島(呼称は「ウ島」)」のモデルとなったと思われるウェーク島の戦いには、アニメに登場した那珂や川内、神通などの艦艇は参加していません。ついでに言うと吹雪も参加していなければ、金剛や比叡などアニメで助っ人として参加した面々も参加していません。こうした点を無視して、殊更に如月が轟沈したという点のみを取り上げて「史実に忠実なのだからいいではないか」ということは出来ません。つまみ食い的に史実を引用するのならば、その取捨選択の自由は製作者側にあるからです。
また、この「史実に忠実な再現をしただけ」という主張をそのまま受け入れたところで、物語としての描写の雑さを擁護することは出来ません。一話や二話の時点で如月がもっと話に絡んでいてくれれば、私もここまでもやっとした印象を抱えることは無かっただろうと思います。


結論。「史実に忠実」も「戦場のリアル」も、「轟沈に至るまでの物語性の付与が雑すぎる」という意見を覆すには至らない。
伏線やフラグというものはそれなりの時間をかけて立てるからこそ有効に機能するのであって、一気に立てても視聴者が置いてきぼりにされるだけではないでしょうか。

埋もれた軍歌・その30 萬壽節歌(萬壽奉祝歌)

2015-01-22 16:22:48 | 軍歌
二〇一五年も明けてはや一月下旬となりましたが、本年も当ブログとTwitterアカウントの方を宜しくお願いいたします。
さて、今回ご紹介するのは、満洲国の文教部が募集して作られた「萬壽節歌」です。これは満洲国の皇帝であった愛新覚羅溥儀の誕生日を祝う歌として、「政府公報」第八百五十七號(1937年2月1日)に掲載された「萬壽奉祝歌徴集公告」(同年1月29日)によって募集がかけられたものです。歌詞は満文で、その内容については

  歌詞ハ今上ノ天生聖智ニ在ラセラレ新國ヲ創立シ世ヲ拯
  ヒ民ヲ救ヒ仁ニ親ミ鄰ニ善クシ和平ヲ維持セラレ三千萬
  人民ガ同ジク萬壽無疆ヲ慶祝スルノ意トス

という注文が付けられています。締切は同年2月20日で、文教部禮教司社会教育科が受け付けるものとされました。また当選作には一等(一人)で百円、二等(二人)には五十円の賞金が出されるともされています。
当選作の発表は当初、萬壽節の当日である2月23日に行われるとされていましたが、実際に発表が行われたのは3月2日のことでした。同年3月5日付の『大阪朝日満洲版』では、この募集には140篇の歌が応募され、煕洽・宮内府大臣や阮振鐸・文教部大臣など8名が審査委員として選出に当たったとされています。一等に当選したのは豊寧縣の縣長であった王冷佛の作品で、二等は新京地方法院後胡同門牌六號に住む閻光天の作品でした。今回は『大阪朝日満洲版』に掲載された、王冷佛の「萬壽節歌」をご紹介します。


萬壽節歌
             作詞 王冷佛
             楠公父子(「青葉繁れる櫻井の」)の曲譜

雲霞燦爛 上元春 亞東氣象新
皇恩雨露 深山川 草木皆欣欣
國民思想 如満月 皓々無眩缺
一徳一心 日満提携 萬年無渝越
恭逢萬壽 節五大 民族齊歡悦
祝賀國基 祝賀帝位 萬歳萬々歳



「一徳一心」や「日満提携」などの文言が入っているのは、この種の満洲国の歌ではいつもの事ですね。
面白いのは、作者の王冷佛自身がこの歌について「日本唱歌…の曲譜を採りたいとの希望」をしていることです。軍歌や唱歌を作る際に他の歌のメロディーを流用することはよくあることですが、皇帝陛下の誕生日をお祝いする歌でもそれをやるか、と。もっともこれは作者の希望というだけですので、実際に歌われた際には別の曲譜が使われた可能性もあります。
因みに、この歌が発表された翌年の1938年9月15日には、民政部によってこれとは別に「萬壽節」という名の学校式日唱歌が作られています。